◆3話◆共通する立場3
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涼子は中等部の頃より、数段腕を上げたが、まだ岬には敵わなかった。
当たり前だが、岬も腕を上げたからだ。
「これはこのボンドだと上手くいかない気がして。糸も変えた方が宜しいかしら?」
「そうだね。」
丁寧に本を扱う手元を見つめ、涼子は訊ねた。
「その補修痕がどうも苦手で……。一度やり直した方が宜しいんでしょう?」
「んん。」
以前に補修された痕跡を調べて、岬は霧吹きやアイロンの用意をした。
雑な補修は一度剥がさないと綺麗に修復出来そうも無い。
勿論麻糸も取り替えないと、と岬は暫く本を丁寧にしつこく検分した。
「うん。何とかなりそうだよ。」
「良かった。お待ちする間、何かお手伝い出来る事は有りまして?」
最近は時々だが、砕けた口調で話して貰えるのが涼子は嬉しい。
珍しくニッコリと微笑ったが、岬はそれが珍しいとは知らない。
本に夢中で生返事で相手をされるのさえ、親しさの証に思えて涼子は嬉しいのだ。
「あ、じゃあ。そちらに積んである本をお願いして良いかな?」
「ええ。」
ニッコリと、涼子はまた笑って頷いた。
そして、涼子が帰る前には岬はお茶を淹れて、暫く談笑するのが常だった。
「最近何か面白い講習は受けましたか?」
「岬様のご興味は惹かないと思いますわ。」
ビーズ手芸の講習を受けていると告げれば、岬は軽く眸を瞠った。
「女の子ですね。」
「意外そうですわね?」
揶揄う様に、その口調を咎めれば、岬は素直に謝罪した。
「そういえば、最近また流行っていると聞きました。」
「あら、岬さまが女子供の流行をご存知だなんて、それこそ意外ですわね。どちらで?」
「叔母が。」
と応えて、何を思い出したか岬は嘆息した。
「ビーズなどと云いながら、小さな宝石を特殊な技術で………って、本当にそれでしたか。」
涼子が困った様に微笑えば、岬は目敏く気付いた。
「おもちゃみたいなのに、凄い値段ですよね。」
「あのチープさが良いんですわ。可愛らしいです。」
「女の子ですねえ。」
ヶ峰ならではの講習に、岬は先程とは少しニュアンスを変えた「女の子」発言をした。
「特別講習ですよね。何人くらいが?」
「その時々ですけれど。多い時で5人ですかしら?私以外では、塩野の弥也子様と三条の恵美さまが殆ど皆勤賞ですわ。」
「相変わらず仲が宜しいですね。もしかして会場は資料館ですか?」
バレバレだった。涼子は微かに恥ずかしそうに頷いた。
「はい。でなければ、きっと出席が怪しくなるからと……」
「弥也子嬢が?」
「ええ。」
弥也子の名前を云う時には、岬は少し複雑そうだ。いつもの事だが、何故だろうと涼子は思う。
男女の甘い感情等ではないと見てとれたし、弥也子の性格や顔の広さを思えば、下手に口出しするとやぶ蛇な気がして、涼子はいつも気付かない振りをした。
今日もそれは同じで、岬が弥也子の名前から逃げる様に話題を移すのを追究したりはしなかった。
岬が咄嗟に選択したのは「家」の話題だった。
「あら。また後継ぎのお話ですの?」
「ええ。困ったものです。」
言葉ほど困った風情も見せず、軽く肩を竦める岬に、涼子はクスクスと笑った。
本人は岬家を弟が継ぐと断言するが、どうやら当の弟と現在当主の代行を務める叔父は、未だに認めては居ないらしい。
その笑みは随分と好ましい。恩がある「叔母夫婦の為に家を継ぐ」と云う選択肢が、この男の脳裡に浮かばなかった筈も無い。なのに、しれっと笑って、当然の様に司書などをして、古書店だけなら継ぐと云う。
こういう男は中々良い。
「可哀想な叔父様。」
「可哀想なのは俺ですよ。最近はやたらしつこくて、デート中にも諦めずに何度も連絡してくるから妙な誤解はされますし。」
一瞬、涼子の表情が消えたが。丁度、岬は視線を落とし、思わしげに嘆息したところだった。
「焼きもちですか?可愛らしい方ですのね。」
「ええ、まあ。」
満更でもない風に笑って、少し照れた風情すら好ましく、涼子は苦痛を覚えた。
こんな風に、自分が語られたかったと、既に閉ざされた希望を握り潰した。
しかし、岬の眸には落ち着いた笑みを浮かべた女性が映るだけだった。
それから、自虐的にも程があるが、涼子はその恋人の話を訊いた。
幸せそうな笑みには沢山の種類が有ると、涼子は実感した。
岬は余り多くを惚気たりはしなかったが「少しばかり困った相手なんですよ。」とその笑みが教え「でも、そこが良いんです。」とも伝えてくる笑みだった。
涼子は必死で揶揄する眼差しを取り繕う。必死で微笑い、最後には肩を竦めて。
「ごちそうさま。」
等と云ってのけた。
苦痛も泪も心の底に閉じ込めて、岬の幸せそうな笑みに影も与えず、優しい時間をいつも通りに過ごした。
帰りの車の中でも、ゆったりとした笑みが張り付き、涼子の仮面に気付く者は居なかった。
いつも通り、学園の送迎車は春ヶ峰の資料館から美晴ヶ峰の資料館に、涼子を送り届けた。涼子もいつも通り、下車する時には、会釈して礼を述べた。
その声が震える事すら無かった。
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