地を這う獣の決意
「とにかく、今しか無い。ラテイシェル、帰還だ」
「……ああ」
茫然とする私の様子を気にかけながらも、ジュレの言葉にラテが頷きを返す。
身を起こそうと肘をついたラテの動きで、真っ白の頭のまま、私も彼の上から滑り落ちた。
立ち上がる気にはなれず、地面に落ちていたマントを羽織りなおして膝を抱えた。
私の隣では片膝をついたラテが、自分の胸元を確認しようと手を上げた所で、彼は眉を潜めて一瞬こちらに視線を流した。
「術式が消えている。先程の転移は私の力を利用したものなのだろう」
「こいつはそんな事まで出来るのか」
「封呪の印が絡んだ戒めも簡単に解いていた。彼女は魔族の中でも、かなりの高位なのではないかと思う」
ラテの言葉にジュレは片目を歪めて、こちらを睨む。
私はというと現状を受け入れられなくて、ただただ呆然としていたのだけれど、ジュレの目の威力って本当強い。
わけのわからない状況なのに、こちらの意志とは関係なく入り込んでくる。
今はそれどころじゃないのにとか、二人の言ってる事がまず意味がわからないというのに。
「……何よ」
じと目で見上げれば、一瞬怯んだように目を細めたジュレだったけれど、そんな自分が許せないというように、忌々しく舌打ちしてから自分の服の襟元に手をかけ荒々しくそこを引きちぎった。
突然あらわになったジュレの引き締まった胸元に、つい目がいってしまう自分の頭を殴ってやりたい。
私の馬鹿っ
今はそれどころじゃないのに!
……だからといって、何をどうしたらいいのかすらわからない。
下手に自分の事を明かしていいのかもわからない。
つい先ほどまで、サキュバスキャラとしてなりきって、適当な言葉を口にしていた私の本当の事を今更彼らに打ち明けたところで、彼らがどうするかわからない。
何より、彼らはここから逃げなければとずっと必死だったじゃない。
今、私がそんな事を言い出してたりなんかしたら、変に混乱を招いてしまうかもしれない。
本当は大声で喚き散らしたい気分なのに。
「――――――」
よくわからない言葉の羅列を紡ぐ低い声音を耳にしながら、何気なく視線をジュレに戻した。
彼の胸板に、淡い光を宿した先程ラテの胸にあった魔法陣がゆっくりと浮かび上がる。
ああ、あれシールじゃなかったんだ……
さっきの自分の考えがバカみたいで、ははっと乾いた笑いが小さく口から洩れた。
否応なしに突き付けられた現実に、座っているのに眩暈を感じる。
「ユーア?」
こちらを探るようなラテの声にも反応できず、ただジュレの胸元を見詰めていた……
直後。
ザンッと空気を切る音と同時に、大地が揺れた。
それもすぐ真横で。
ぐらりと傾く体、何かに腕を掴まれたと思ったら、視界が一気に高くなる。
すぐ傍に綺麗な銀の毛並みを持つ、大きな狼の顔があった。
「遅くなった」
言って、こちらにすりりと顔を擦り付ける。
頬に感じるさらさらの柔らかな質感を持つ銀の体毛の奥に、確かな熱を感じて、ぎゅっと目を閉じた。
なんで気付かなかったんだろう。
こんなにも現実を伝えてくれる存在がずっと傍にいたのに。
手を伸ばして、豊かな毛並みを抱き込むと、熱の奥は少し湿り気を感じた。汗をかいてるみたい。
ふるっと小さく腕の中の毛並みが震えた。
「どうした?何かあったのか」
ヴィストの少し困惑したような低い声に薄目を開けると、深い蒼の瞳が不安そうに揺れていた。
目元を覆う薄い毛が少し下がっていて、困り果ててるように見える。
作り物なんかじゃない、感情を伝えてくる蒼の瞳。
ああ、本当に、本物だ……
訝しむように、私の心を覗き込んでくる気がして、頬を寄せてその目を閉ざした。
「帰還する」
低いジュレの声と共に、彼がラテの腕を取るのを横目で見つめる。
私の視線に気付いて、ラテが顔を上げた。
薄っすらと二人の姿を包み始めていた文様の描かれた螺旋の光を、ぼんやりと見つめていたら困惑の表情を浮かべたラテと目があった。
一瞬の後、その目がはっきりとした意志を宿して、私へと腕が伸びる。
羽織っていたマントが引き寄せられ、ぐらりと体が傾いた。
「ラテイシェルッ!」
ジュレの驚愕と怒りを詰め込んだ叫びを最後に、私の身体も光の渦に飲み込まれ、ぐにゃりと視界が揺らいだ。
一瞬の衝撃が身体を襲ったと思ったら、ぐっと押さえる様に抱き直された。
私の身体を軽々と抱えているその力強い大きな腕に、何故かほっとしたら力が抜けた。
ぐてっと狼の大きな頭に、再度顔を寄せたところで……
「何を考えてやがるっ!!」
ジュレの怒声が大きく響いて、思わずびくっと肩を揺らした。
彼らへ視線を移した途端に、周囲の状況に驚いて目を見開く。
そこは、先ほどとは打って変わった場所だった。
広い講堂のような場所だ。
ある意味広さは、私が元いたイベント会場に似ているかもしれない。何千人もの人が入るのを考えて作られた、とても、とても広い場所。
取り囲む壁には備え付けられた荘厳な造りの大きな窓が並び、手前には天井を支えるというよりも、飾りにも見える大きな円柱が並び立つ。
煩わしそうに耳をぴくぴくさせながら、言い争う二人を目を細めて見つめるヴィストの肩にしがみ付き、背を伸ばしてきょろきょろと辺りを見回した。
もう本当、今度は何処なの…!?
なんでなんで、どうして……
「この国に魔族を連れ込むなんて、お前はこの国をっシーレヌ国を壊すつもりか!」
「馬鹿を言うな」
「馬鹿な事を言ってるのも、やっているのもお前だ、ラテイシェルッ」
「……自覚はある」
「はっ自覚があれば何をしても許されるのか?捕まった時だってそうだ。さっさとお前だけ転移していれば」
「あああもうっ煩いっ!!!」
キレた。
「私今考え事してるの!喧嘩するなら二人でやってくれる!?」
怒る視線の先、ラテとジュレの二人が驚いて口を閉ざした。
ふんっと顔を背ければ、視界の端で狼の耳が、煩かったというように伏せられている。
こんな時だけど、にぎにぎしたいとか思ったら、大声を出したせいもあるのか、鬱々としていた気持ちが小さくなっていった。
「ユーア、申し訳ありません。あなたの了承も得ずに、こちらに連れて来てしまった」
「別に、ラテの事を怒ってるわけじゃないわ。もっと大きな事だから」
「大きな事、とは?」
「………」
話していいんだろうか?
本当に信じてくれる?今更?
自分で完結せざる得なかった、別世界から来たっていう馬鹿げた話を?
疑問が次々と浮かんで消えていく。
ラテの真っ直ぐにこちらを見詰める真摯な黒の瞳に、不安をさらけ出したい気持ちが溢れそうになったけれど、彼の他にジュレとヴィストの視線に気圧されて、口を開くことは出来なかった。
彼の視線から逃れるように、呆然としていた先程までと違い、不機嫌さを露わにして顔を俯ける。
「……疲れたから、休みたい」
「そういえば、あちらにいる時から言われていましたね。すぐに部屋を用意致します。銀狼、あなたにも正式な手順を踏まず、こちらへ召喚する事になってしまい」
「手順など、元よりお前たち人間が決めた事。オレの気が乗るか、乗らないかだ」
なるほど、わからん。
相変わらず、この世界の人達だけの会話になると意味がさっぱりわからない。
私の世界にありふれたファンタジー設定に当てはめる事は、先程までと同様、勿論簡単だ。
でもさっきまでと違って、現実を知った今は、下手なことを言えないというか、別に私が口を挟む内容でもないと思って、小さくため息を吐くだけ。
傍にあるせいで、私のため息に気付いたヴィストの耳が少しだけ揺れる。
「言葉はいらぬ。これを休ませたい」
「はい。では、こちらへ」
「―――待て」
歩き出そうとした二人に、ジュレが眉間に深い皺を寄せたまま呼び止めた。
「俺達が赴いたユサイヌの地は、人の形を成した魔族どもで溢れていた。お前も変えられるか?」
ジュレが示唆している事に気付いたらしい、ラテが彼を止めようと彼の腕をとる。
けれど、ジュレはそれを気に留める事もせず、挑むように強い意志を宿した三白眼でヴィストを睨んだ。
「すぐにでもお前たちを還したい所だが、時間が無い。無益な混乱は避けたい。すぐにでも軍を整え、ユサイヌの地を取り戻さなければならない」
そこで一旦、言葉を切ってから、ジュレはヴィストの体躯にも負けないくらい大きな体を折り曲げた。
「しばしの間、ここにいる間だけでいい。魔ではなく人の形を取って頂きたい」
ジュレの行動に、たぶんこの中で一番驚いたのは私だと思う。
あのジュレが、怒れる暴君が、口から文句しか出てこないと思っていた顎鬚野郎が…!
彼が聞いたら、それはもう烈火の如く怒るだろう事を考えながら、目を丸くしていた私だったけれど、彼の言葉の意味を改めて思い出した。
「ヴィスト、姿変えられるの?」
「ああ、人でも獣でも」
「じゃあ、獣でお願いしたい」
今しがた、人の形をと懇願したばかりのジュレの言葉をさらっと無視して、目を輝かせた私の発言に、ヴィストの狼の目が一度瞬く。
背後から、ひしひしとジュレの怒りを感じるけれど、今はそれどころじゃない。
「だって、絶対恰好いい」
私の言葉に、ぴきりと三人が氷ついた気配を感じたけれど、それも無視する。
だってだって、本物の狼をもふもふする絶好の機会じゃない…!
散々、人狼であるヴィストの毛並みを堪能させてもらったけれど、やっぱり狼の姿を撫でまわしたいじゃない?
むしろ乗ってみたいじゃない?
たぶんこれ、大型犬好きの人なら解ってもらえると思うのよね。だめかしら?
「あ、でも待って、たぶん私、狼の姿見たら冷静でいられる自信がないわ」
完全、我を忘れて撫でくりまくる自信がある!
ヴィストに対してはかなり自分勝手な行動を既に取った後だし、標的である彼には受け入れてもらうしかないのだけれど、流石に落ち着いたサキュバスキャラで通してきた私がラテやジュレの前で、醜態を晒すのはまずい気がする。
陰鬱とした気持ちは吹き飛んで、目の前の狼に触れる機会をどうするかで本気で悩み始めた私の耳に、申し訳なさそうなラテの声が届いたのは、その時だった。
「ユーア、魔獣に銀を纏うものはいません。銀を纏うのは彼だけなのです。獣姿では直ぐに混乱を招いてしまうでしょう」
え、そうなの?
連れてきたお前が言うな、とジュレの小さな舌打ちが聞こえたけれど、それよりもヴィストの銀の毛並みをまじまじと見下ろした。
そういえば、あのわけのわからない会場でも、ヴィストって目立っていたし、遠巻きにされていた。
その時は、恥ずかしくて近寄れないよねーなんて思っていたけれど、そうか、そんな特別な存在だったのだと改めて知り、今度はそんなバカな考えをしていた自分に恥ずかしくなる。
「でも、私人型のヴィストって見た事ないし……」
鬱々とした気持ちが無くなったとはいえ、この人狼の姿が人になるのを見せつけられたら、またもや現実逃避しそう。
人狼が狼になるのは、自分の中で受け入れられる事だけど、人になるのは、なんだか怖い。
自分と彼との距離感が、凄く近くなってしまっているせいかもしれない。
人型希望のラテとジュレの気持ちはわかるけれど、人型のヴィストを見る勇気がどうしても出なくて、悩んでしまう。
「お前はどうしたい?」
「え?」
ヴィストが感情を読ませない目で、私の顔を覗きこんだ。
「ここに留まるのか、オレと共にあちらへ戻るか」
「あっちって、魔界の事?」
「そうだ」
「……あっちにはしばらく戻りたくないかな」
魔界なんて物騒なところ、人間だってバレたら完全に終わる。
「わかった」
言うなり、ヴィストは私の腰辺りをくるんでいた、元は彼自身のマントを器用に手繰り寄せ、私の頭から被せた。
またもや視界を奪われた私の身体が、支えを失ったように一瞬、落ちる感覚に見舞われたかと思うと、足が地に着く前に、抱えなおされる。
びっくりして縋りつくように、ヴィストの肩に腕を回したところで、あ、と気づいた。
見えないけれど、腕が、手の平が伝えてくる。
さらさらとした毛並みではなく、薄いシャツの下に、がっしりとしているけれど、先ほどよりは細身に感じる筋肉質な肌の感触。
人型になってる…!