下界で遊戯 3
「ヴィストの獣型が見たいな」
食事を終えた私達は、特にする事もなく、大きなソファでくつろいでいた。
でもそれって、今日一日の体力的疲れと精神的疲れ、そこにお腹の満腹感が加わると眠気が更に襲ってくる危険な状態。
ふわっと欠伸を一つ噛みしめてから、名案を思い付いたとそう隣に座る人狼、ヴィストにそうお願いしてみた。
ラテが後で来ると言っていたし、眠るわけにいかないんだもの。
ヴィストの人間型を見るのは、お互いの距離感のためにも、いまだに見る勇気が無い。
でも、獣型は別。
こんな気付いたら異世界でした、しかも自分を偽って生きていかなきゃいけないとわかった今の私に必要なのは、癒し。つまりアニマルセラピーっていうわけ。
なんて言い訳を考えてみたりするけれど、ただ単に本物の狼が見たい、とにかく見たい。
そして思う存分撫でまわし……は、結構やったから、今度は抱き付くのもいいかも。いっそ、上に乗らせてくれたりなんかしないかな。
ソファの肘掛けに肩肘をつき、そこに頭を預けてこちらの様子を伺っていたヴィストの、片耳がぴくりと私の言葉に反応する。
期待と欲望を込めた私の視線を受けた彼の目が、胡散臭い物を見てしまったかというように、ふいっと逸らされたかと思うと、はあっと大きく溜息をつかれた。
あれダメだったか、と落胆しそうになった視線の先で、人狼の姿がゆらりと崩れ、次の瞬間には、とんっとソファから床へ、銀色の獣が降り立っていた。
「っ!」
ジュレが行った転移魔法、騎士様がやってくれた乾燥魔法と続き、ある程度予想し、自ら希望した事もあり、恐怖や驚きよりも、感動が先に自分の胸を支配した。
銀色の体毛に覆われた、大きくてしなやかな体躯。
「恰好、いいいいっっ」
もうね、欲望のままに飛びつきましたけど、何か?
どーんって効果音つくくらい思い切り。
いきなりの事に、抱き付いたその身体は、驚きに固まっているようだった、というか、狼の顔自体、目を丸くして固まっている。
そんな相手の事を気にも留めずに、大きくてふっくらとした毛に覆われた身体を両腕でわしゃわしゃと撫でまわし、最後にぎゅうっと抱きしめる。
ああ、幸せ……!
擦り付けた鼻先が、微かに香るエキゾチックな香りをひろい、あ、この匂い好きかも、と思わずふんふんと鼻を埋めれば、狼の顔がのけ反り、反射的に上がった左の前脚がぽすっと私の太ももに乗った。
その脚がとても大きくて、今度はそっちに興味を惹かれ、手をのばす。
まっすぐ伸びた太くてがっしりとした脚を、完全痴女の動きでさわさわと撫でれば、今度は振り払うように脚が上がった。
やり過ぎたかと顔を上げれば、困惑をありありと乗せた深い蒼の瞳。
その瞳の上の毛が下がっているから、困り顔に見えて悶え死にそう。
いやいや、ここで嫌われたら、触れなくなっちゃう!
一度反省しよう。
「……ごめんなさい。ちょっと我を忘れちゃって」
「……いや、予想していたはずだったが、慣れない事で驚いただけだ」
素直に反省の言葉を述べると、狼の口からヴィストの低い美声が聞こえてきた。
やっぱりそのままでも話せるのね、と感心すると同時に、その声音に戸惑いが含まれている事に気付いて、ふと思い出す。
私に触られることにかなり慣れてきたとは思うけど、彼は同じ魔族?魔物?から敬遠されてきた存在。
初めて会った時にも、不躾に触る私の行動を止めなかった事から、彼は優しい狼と思っていたけれど、こういうの慣れてないというか、嫌とかそういうの無いよね?
「……私に触られるのは、嫌じゃない?」
「ああ、最初にも言ったが、構わない。……嫌、では、無い」
言って、ふいっと顔をそむけるのだけれど、全身の毛がさざ波、なんとなく彼が恥ずかしそうにしていると気付いて、私の心は完全にやられた。
銀色の綺麗な体毛に覆われた、しなやかな体を持つ狼というだけでも、私の好みなのに、更にスキンシップ慣れしていないとか、羞恥に耐える姿とか……
もうちょっと、これ本気でやばいって!
悶え死ぬから!
ヴィストと違って、我慢を知らない私は思い切り彼に抱き付いた。
またもやいきなり抱き付いた私に対して、狼の身体は硬直していたようだけど、ぐりぐりとふかふかの毛に顔を押し付ける私を好きにさせてくれている。
そのうち、てしてしっと太ももを叩かれ、ん?と顔を離せば、すりりっと頬にヴィストが顔を寄せてきた。
短い毛が頬を撫でていくのが、ちくちくするやらくすぐったいやら。思わず頬が緩んじゃう。
しまりのない顔を晒している自覚はあるけれど、念願の大型犬、それも銀色の狼と戯れるとか、至福過ぎて顔に力が入らない。
ふふふー、と笑ったところで、ぐらっと視界が揺れた。
気付けば背中に床の感触、肩には大きな脚が乗っていて、狼に見下ろされている。
大きいから、天井はほとんど見えない。
「……お前は、本当に俺の事が平気なんだな」
「うん? よくわかんないけど」
「魔であるなら、この銀に怯え、触れる事も出来ないはずだが、お前は畏怖する事なく簡単に触れてくる。身体は爛れる事もなく、姿を変えれば只の人間にも見えるが、お前の身体には確かに人間が持つ心醒石が無い」
しんせいせきって何。
何、ここの人間ってみんな体に石あるの?
いや、確かに有名なのでは尿結石とか、病気があるけど、たぶんそれとは違うよね……
この世界の人間、全員が尿結石持ってるとかだったら、申し訳ないけど残念過ぎて笑うわ。
なんて、自分の考えに、ふっと口元を歪めてしまった私に、ヴィストの狼の目が細まる。
先程までと違って、狼の目からは感情が読み取れない。
その蒼の獣の目を見ていて、ふいに気付いた。
あー…なるほど、私、今不信がられてる。
「……最強の銀狼が、まさか、私を怖れるの?」
そう呟いて肩に乗ったままの、ヴィストの脚に手を重ねた。
ここで、魔族じゃないです。
異世界トリップしてきた、別世界の人間です、と白状したところで、どうなるのかが予想出来ない。
だから、逆に挑発するような言葉を口にして、視線をずらした。
手に触れている大きな脚を見つめ、このまま、この大きな脚に力を込められるだけで、私は簡単に死んでしまうような存在でしかない。
さっきまでテンション上げ過ぎたせいか、いきなり襲ってきた急展開に、頭の中が真っ白になったというよりも、妙に落ち着いてしまっている。
現実感がないっていうのかな?
ふう、と溜息を洩らす私の顔に影が降りた。
ヴィストの狼の顔が近付いたと、視界の端でとらえた直後、ぺろりと頬を舐められた。ん?
「恐怖など、微塵も感じた事などない」
不遜な言葉に瞬きして顔を向ければ、狼の鼻先が頬に触れる。
私も、本当犬好きというか、普通だったら怖いと感じるこの大きさと距離感なのに、全然怖くない。
先程見せた獣そのものの彼と違って、何処か優しさを感じさせる温かみが、間近で覗き込む蒼の瞳の中にあるからかもしれない。
つい、そこに自分の頬を寄せてみた。
「じゃあ、私の事食べない?」
「最初にも言ったと思うが、お前の事は食べない。というか、今迄魔など食べた事はない」
そういうものなんだ、と納得しながら頷きを返す。
とりあえず、私の事をヴィストがどう判断したのかはわからないけど、命の危険は去ったと思っていい、のかな?
湿ってひんやりとしている鼻先が、耳裏をなぞり、そのくすぐったさに肩をすくめた。
「……別の意味では、食すと思うが」
「別の意味って?」
「それは、お前の種の得意分野ではないのか?」
耳元で、そう囁くように言われたものだから、意味を察するよりも先に、艶を含んだ美声に聞き惚れた。
数秒して、意味を理解した私の頬に熱が集まる前に、両腕を伸ばしてヴィストの頭を引き寄せて、彼からは見えないように顔を隠した。
ここで、顔真っ赤にしちゃうとか、サキュバスとしてダメッ絶対!
頑張れ私っ!
狼の顔に捕まったまま、身体を起こし、目の前の柔らかな三角の耳を見ていたら、なんだか落ち着いてきた。
ヴィストって本当いい声してるんだよね。
狼の見た目は完全好みだし、低い声も好み。
これで、人型が好みじゃなかったら、どうしよう……
なんて彼には決して言えない事を考えていたら、頬に集まっていた熱も完全に引いた。
折角なので、このままやられっぱなしじゃ、サキュバスとして良くないよねと考え、さらさらの狼の毛に埋めていた手に力を込める。
たぶん、このままじゃヴィストの身体に力が入ったままで、私の力なんかじゃ閃いた事を実行する事は不可能だと考え、目の前にある狼の耳に狙いを定める。
「そうね……」
狼の耳元に唇を寄せ、囁いて、そこにかぷりと噛みついた。
驚いたヴィストの身体が、びくっと揺れる。
その瞬間をついて、立ち上がるように力を込めてヴィストを転がし、今度は私が狼の脇腹の上に乗りあげた。
ぺたんと床に横になり、驚きの顔でこちらを見上げる狼の顔に、にやりと微笑む。
「ヴィストが食べるんじゃなくて、私があなたを食べるの間違いでしょ?」
演出として、唇を舌なめずりする。
私の下で、驚きで固まっていたヴィストの喉が、ごくりと上下するのが見えた。
これこれ、すっごくサキュバスっぽくない?
自分で自分を褒めてやりたいと、ばしばし手を叩いて騒ぎたい衝動を抑えながら、柔らかな狼のお腹の毛に手を埋めた時だった。
ゴンゴンッと不躾に鳴り響く、扉の音。
ん? と顔を上げると同時に、バンッと勢いよく扉が開いた。
「こら、ジュレもう少し丁寧に扉を開けないと」
「あいつらに気を使う必要など無い」
「そういう事ではなく……」
そんな会話が聞こえてきて、ああ、ラテとジュレが来たんだなと扉を見てたら、ひょこっとラテが顔を覗かせた。
彼はこちらを見て、驚きに目を見開くと、さっと姿を消し、開いた時と同じくらい大きな音を立てて、扉が閉まった。
あー……
絶対に、何か勘違いしてくれた……
がっくりと肩を落とす私の視界では、ヴィストも疲れたように首を伸ばしていた。