地を這う獣の下界で遊戯 1
ざあざあと頭からシャワーを浴びながら、心にしっかりと刻み込む。
ここが異世界である事。
そして、自分が一番に考えるべき事は、ただ一つ。
湯気でくもった鏡を、キュッと手の平でぬぐった。
鏡に映った自分の顔を見つめながら思い出すのは、自分がコスプレ会場だと思っていた場所で見かけた、傷つき絶望に彩られた騎士達の姿。
あの時は、なんて迫真の演技と思っていたけれど、演技じゃなかったのだ。
温かいお湯が肌を流れ落ちているというのに、寒気を覚えた身体がぶるっと震えた。
ぎゅっと身体を抱きしめて強く思う。
生き残る。
漫画や小説によくある設定の安全な異世界トリップならば、泣きわめいて周りに当たり散らす事もしたかもしれない。
でもここはどちらかというとゲームや映画に多い、危険な場所だ。
泣きわめいて悲嘆に暮れるのは後。
絶対に生き残って、そしてできれば、日本へ帰る。
そのためなら……
「サキュバスだろうが、何だろうがやってやろうじゃない」
ここにいるのは、日本人の――――じゃない。
魔族、サキュバスの、ユーアだ。
……なんて気合いを入れて、シャワーから出たんだけれど、あれよね。
サキュバスってつまり何?
衣装ケースの中から選んだ先程のサキュバスコスとは打って変わった、白を基調とした清楚なワンピースに袖を通しながら、そう究極の疑問にぶつかった。
この部屋の前にいる騎士様には、コスプレのままだったせいで、ちょっとサービス精神がうずいてしまって遊んだ事は今は置いておくとして。
サキュバスって夢の中での、あはんうふん以外の時って何してるのかって考えてみたけど、さっぱり思い浮かばないんだよね。
でもまぁ、ここでは、人狼であるヴィストに対してラテが人間を装っていて欲しいといっていたし、適当でいいかなぁと思っちゃうわけなんだけど。
いいのかそれで? でもどうしたら?
豪華なドレッサーの引き出しにそろえられたメイク道具一式を勝手に拝借して、コスプレ時のがっつりメイクと違って、甘めメイクで顔を作り上げながら、何度も頭の中で自問自答。
結局答えは見つからなくて、とりあえずここにいる間は、普段の私でいいかなという考えに落ち着いて、髪を丁寧に櫛で梳いた後、新しいタオルで肩に流した髪を包んで、ドレッサールームから隣の部屋への扉を開けた。
直後、そこに人がいるとは思わずぽかんと口を開けた。
「あ」
同時にドアを開けたらしく、お互いドアノブに手をかけたままの状態で、驚きに目を瞬かせた。
先程、浴室の使い方を教えてくれた騎士様だ。
「……失礼、扉を叩いても返事がなかったので」
「ごめんなさい、まだこっちにいたから全然気づかなくて」
「いえ…、今のうちに食事を部屋に運び入れておこうと思った私が軽率でした」
どうやら頼んでいたもう一つ、食事が届いたらしい。
微かに香るおいしそうな匂いに、私は頬を緩ませながらお礼を言った。
手伝おうといそいそと彼の元へ行こうとした所、困ったように眉を寄せられる。
何?
「まだ、髪が濡れているようですが……」
「あ、えっとここってヘアドライヤー…髪を乾かすのってどうしたらいいかわからなくて」
いろいろあさってみたけれど、ドライヤーらしきものは見つけられず、タオルドライしかないかとタオルで髪を包んでいたわけなんだけど。
浴室の使い方からして、教えてもらわないとさっぱりわからなかったから、もしかしたら私が見落としてるだけなのかもしれない。
「髪を乾かすのは、ここでは、大抵自身の魔力でやりますが……」
魔力!
騎士様の言葉に、がくりと項垂れた。
そうだよね、ここの人達って魔法使えるんだから、そういう事も出来ちゃうよね……
はぁと小さく溜息まで漏れてしまった事で、騎士様が気づいたらしい。
彼が遠慮がちに口を開く。
「いえ、出来ない者もおりますし、不慣れな者もおりますから。私で良ければ、乾かしましょうか?」
その言葉に、一も二もなく頷いた。
やってもらえるのなら、それに越したことはない。
「わかりました。…イルク、お前は食事を中に」
後方の開けたままの扉に顔を向けて、騎士様が言うとちらっと扉の向こうから、もう一人の騎士様が顔を覗かせた。
先ほどとは打って変わった私の姿を視界に入れて、驚きを隠せない、むしろ面白い物を見た時のような視線を受けて、ちょっと焦る。
そんな視線から隠すように、ドライヤーを申し出てくれた騎士様が私の前に立って、隣室へと促した。
ドレッサーの前の椅子を引かれると、もう完全美容院感覚になってしまうのはしょうがない。
後ろに立つのが、コスプレイベント中の美容師さんにも見えちゃうっていうものだ。
クリスマスやハロウィンが近くなると、そういう事をする美容院だってあるしね。
ああでも、どうせならこの騎士様の髪型、たぶん自分の髪型には一切興味無いんだろう。
ふわっとした質感の髪を軽くなであげてるだけというのが、勿体無い…!
どうせなら私好みに、ファンタジー色を強くしてもらいたい。
片側だけ編み込みをして、前髪は出来れば逆側に斜めに流して……
なんて思いながら、鏡越しに伺っていたら、ぱちりと目があってしまった。
「えと、お願いします」
気まずさを誤魔化すために、そう言って軽く頭を下げると、はいと頷かれた。
願望という名の妄想は後回しにしておこう。
「乾かすだけにしますか? ついでに少し巻きましょうか?」
「え。そういうのも出来るんですか!?」
美容院みたいと思ったけれど、まさかそこまでだなんて…!
「はい。…私には姉がおりますので、子供の頃から煩く言われているんですよ。女性は身だしなみに気をつけるものだと」
苦笑交じり話しながら、私の髪を包んでいたタオルに手をかけ、椅子の後ろに髪を流す。
首筋を指が掠めたのがくすぐったい。
首をすくめると、騎士様は気づいてなかったみたいで、首を傾げて不思議そうな顔をした。
愛想笑いを返してから、鏡に向き直ると、ふわっと髪が浮くような、温かいような。
そう感じ直後、鏡に映った自分の髪型が変わっていた。
「す、凄いです…! こんな一瞬で!」
ドライヤーをかけた後のような髪の柔らかさに加えて、ふわりと丁寧な巻き髪に感動してしまった。
ちょ、魔法便利過ぎる…!
こういう魔法だったら大歓迎だなぁって、顔を綻ばせながら左右に首を回して、鏡に映る自分の髪型を繁々と確認した。
「髪を専門とした使用人でしたら、艶を出したり髪先まで綺麗な巻き毛を作る事も出来ますよ」
「いえいえ、もう充分です! こういうの初めてで、感動しました」
すごいの言葉を連発しながら、髪形を確かめる私の姿が珍しかったのか、騎士様が苦笑する。
ついでにと、前髪を絡めて左側に細めの三つ編みをささっと作り、更にお嬢様を意識した髪型を自分で作りあげてから、椅子から立ち上がって、改めて騎士様にお礼を言った。
「いえ、女性が濡れた髪のままというわけにはいきませんから」
その言葉に先程、濡れ髪のまま部屋へと戻ったのは、どうやらよろしくなかったらしいと気付く。
後でラテが来るとか言ってた気がするし、気になる髪の毛専門の使用人とやらをお願い出来ないか聞いてみよう。
とりあえず今は……
「あの、騎士様。お願いがあるんですけど」
「? 何でしょうか」
「私、騎士様をこんな身近で見るのは実は今日が初めてで」
なんせ、自分の元いた場所には、コスプレでゲーム内の騎士っぽい恰好の人達を見かけた事も遠目ながらにはあったけれど、やっぱり服がね!なんか安そうな生地っていうか!
会場に来るまでどうしても折りたたんでくるしかないから、よれてたりね!
「それで私の髪を整えてもらったお礼というか、私の趣味っていうか」
私のいわんとしてる事がさっぱりわからず小首を傾げる騎士様を見上げて、すぱっと言った。
「髪型いじらせて下さい」
その言葉に面喰ったように、彼の目が驚きに見開かれる。
いえ、私は……と困り顔で辞退しようとする騎士様に、お願いしますと詰め寄る。
こんな素敵な騎士服に身を包んだ、体格のいい騎士様を見られる眼福を更に楽しみたいっていうか、あとはその髪型だけなんです!
と、彼にとってはよくわからない理由を述べて、逃げ腰な彼を逃げられないように服を掴んだ。
犬猫の触っていいよの空気を読むのと一緒で、押せばいけそうという雰囲気がある相手に関しては、がんがん押す。
私を動かす衝動はただ一つ、完全好みなコスプレが見たい。ただそれだけ。
「あの、自分は髪型には、興味は」
「そう言わずに、すぐ終わりますから」
立ったままでは、この長身の騎士様の髪型をいじるには難しい。
腕に力を込めて、ぐいぐいと彼の身体を自分が先程まで座っていた椅子へと押す。
やんわりと私を押しとどめようと、彼の手が私の肩にかかるけれど、戸惑いの方が強いみたいで、腕の力は弱い。
そんな力じゃ、欲望第一の女の力は止められないわよ…!
でもこのままじゃどうしても座ってくれ無さそうと思った私は、残念そうな顔を作ってぐいぐい押す腕の力を抜いた。
私が諦めたのかと、ほっと彼の身体からも力が抜けたのを見抜いた直後、どんっと椅子に向かって彼の身体を力いっぱい押す。
ごめんなさいね、女って結構したたかなのよ…って、ちょ!
勢いが着き過ぎたらしく、いきなりの事にぐらりと傾いた騎士様の身体が椅子の上に座ったと思ったら、そのまま後ろに体勢を崩した。
彼の体に力を込めて乗せていた私の腕も、その流れに逆らう事が出来ずに身体が滑る。
咄嗟という感じに、騎士様の腕が私の背中に伸びてきたのは感じた、次の瞬間にはガタガタッと椅子ごと二人して床に倒れこんだ衝撃にぎゅっと目を瞑った。
び、びっくりした……!
一日で二度も男の人の上に乗るなんて初めてだわ、なんて思ってる場合じゃなくて。
衝撃にまだびっくりしている身体は動かず(騎士様の腕が背中に回っているせいもあるけれど)そっと顔を上げて、かなりの近さにある騎士様の顔を見る。
彼もまた、痛みというよりも倒れた衝撃に驚いてるというような顔をして、私を見上げた。
「…大丈夫ですか?」
原因の私を責めずに、気遣うなんて流石。
それに私が、はいと答えようと口を開こうとした直後。
勢いよくドレッサールームの扉が開いた。
「……てめぇ、何してやがる」
低い、私の事が憎くてたまらないっていう、そんな低い声。
思わずびくりと揺れた体を誤魔化すように、そろそろと視線を上げれば、そこにいたのは、やっぱりというか、眼光鋭くこちらを睨む仁王立ちのジュレの姿があった。
こわっ!