赤い工具箱の女
雨上がりの夕方だった。
真琴は、赤い工具箱を持って駅へ向かっていた。
その日もトラブル対応で、会社への戻りが遅くなっていた。
彼女の工具箱は重い。
中にはテスター、絶縁工具、予備部品。
電気設備の保守点検に必要なものばかり。
いつも通りの重さだ。
だが駅へ向かう途中、妙なことに気づいた。
誰かが後ろを歩いている。
一定の距離を保ちながら。
足音だけが聞こえる。
振り返る。
誰もいない。
雨に濡れた歩道が、街灯を反射しているだけだった。
「疲れてるな……」
そう呟いて歩き出す。
すると再び、
コツ。
コツ。
コツ。
足音。
振り返る。
誰もいない。
だが今度は、別の異変があった。
工具箱の留め具が開いている。
確かに閉めたはずだった。
真琴はしゃがみ込み、中身を確認する。
何も減っていない。
その時だった。
工具箱の内側に、見覚えのない紙片が挟まっていることに気づく。
濡れて滲んだメモ。
そこには一行だけ書かれていた。
――返してください。
真琴は眉をひそめた。
誰かのいたずらだろう。
そう思い、紙を丸めて捨てた。
だが、その夜。
定時後の飲み会の席で、荷物を整理しようと工具箱を開いた時。
同じ紙が工具の隙間に挟まっていた。
――返してください。
さっき捨てたはずなのに。
気味が悪かった。
帰宅後、真琴は工具箱を徹底的に調べた。
隠し収納などない。
紙もない。
問題なし。
風呂に入り、寝た。
午前二時。
金属音で目が覚めた。
ガチャ。
ガチャ。
ガチャ。
玄関からだった。
真琴は息を止める。
泥棒か。
警察を呼ぶべきか。
音は続く。
ガチャ。
ガチャ。
まるで誰かが、工具箱の留め具を開閉しているような音だった。
恐る恐る廊下へ出る。
玄関には誰もいない。
だが、工具箱が置かれていた。
玄関の真ん中に。
朝はリビングに置いたはずだった。
背筋が冷たくなる。
その時。
スマートフォンが震えた。
知らない番号。
真琴は出た。
ザーッというノイズ。
その向こうで女の声が聞こえた。
「返して」
通話は切れた。
翌日、会社で同僚に相談した。
当然笑われた。
疲労だろう。
そう言われた。
真琴自身もそう思いたかった。
しかし、帰宅すると異変はさらに増えていた。
工具箱の中身が増えている。
見覚えのないマイナスドライバー。
古いペンチ。
錆びたレンチ。
どれも異常に古い。
昭和時代の工場で、使われていたような工具ばかりだった。
そして、一本一本に白いテープが巻かれている。
そこには黒い文字。
名前だった。
田中。
小林。
遠藤。
中村。
全て、違う名前。
気味が悪くなりネットで検索する。
すると、古い新聞記事が見つかった。
二十年前。
市内の廃工場で火災事故があった。
作業員四名死亡。
工具に書かれた名前と一致していた。
ひゅっ、と真琴の喉が鳴った。
記事の最後にある写真を見て、血の気が引いた。
焼け跡から回収された赤い工具箱。
それは今、自分が持っているものと同じだった。
翌朝、真琴は足早に会社の倉庫へ向かった。
古参社員なら何か知っているかもしれない。
定年間近の所長が、工具箱を見るなり顔色を変えた。
「それ、どこで手に入れた」
真琴は答える。
中古工具店で数年前に買ったこと。
所長はしばらく黙った。
やがて言った。
「その事故な……」
火災の原因は漏電だった。
だが、事故調査の結果には載らなかった事実がある。
点検担当者が手抜きをしていた。
異常を知りながら放置した。
結果、四人が死んだ。
担当者は責任を恐れて逃げた。
工具箱だけが現場に残った。
「その担当者の名前は?」
所長は答えなかった。
代わりに古い社員名簿を机に置いた。
焼けたように茶色く変色した紙。
ざらついた紙が心をひっかくようだ。
ページをめくっていて、真琴は言葉を失った。
名簿の余白に「次はお前」と書かれていた。
その夜。
真琴は、工具箱を抱えて事故現場跡へ向かった。
今は更地になっている。
風だけが吹いていた。
工具箱を地面に置く。
留め具が勝手に開く。
中にはあの紙。
何十枚も。
何百枚も。
全て同じ文字。
――返してください。
その瞬間。
真琴は理解した。
返してほしいのは工具箱ではない。
四人はまだ事故当日のままだった。
誰かが責任を受け取るまで、ずっと燃え続けているのだ。
真琴は震える手で言った。
「私じゃない」
沈黙。
「でも、終わらせる」
翌日、彼女は古い名簿を警察へ提出した。
事故の記録として。
隠されていた事実は報道された。
数週間後。
工具箱の中から紙は消えた。
電話も来なくなった。
足音も聞こえない。
すべて終わった。
そう思っていた。
ある雨の夜。
仕事帰り。
駅のホームで真琴はふと窓ガラスを見る。
自分の姿が映っている。
作業着。
赤い工具箱。
その後ろ。
知らない四人の作業員。
黒く焼け焦げた顔。
だが彼らは微笑んでいた。
電車が到着する。
振り返る。
誰もいない。
再び窓を見る。
今度は真琴一人だけだった。
ホームに風が吹く。
どこからか、金属製の留め具が静かに閉まる音がした。
カチリ。




