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赤い工具箱の女

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/06/26

雨上がりの夕方だった。


真琴は、赤い工具箱を持って駅へ向かっていた。

その日もトラブル対応で、会社への戻りが遅くなっていた。


彼女の工具箱は重い。

中にはテスター、絶縁工具、予備部品。

電気設備の保守点検に必要なものばかり。


いつも通りの重さだ。

だが駅へ向かう途中、妙なことに気づいた。


誰かが後ろを歩いている。


一定の距離を保ちながら。

足音だけが聞こえる。


振り返る。

誰もいない。


雨に濡れた歩道が、街灯を反射しているだけだった。


「疲れてるな……」


そう呟いて歩き出す。

すると再び、


コツ。

コツ。

コツ。


足音。


振り返る。

誰もいない。


だが今度は、別の異変があった。


工具箱の留め具が開いている。

確かに閉めたはずだった。


真琴はしゃがみ込み、中身を確認する。

何も減っていない。


その時だった。

工具箱の内側に、見覚えのない紙片が挟まっていることに気づく。


濡れて滲んだメモ。

そこには一行だけ書かれていた。


――返してください。


真琴は眉をひそめた。


誰かのいたずらだろう。

そう思い、紙を丸めて捨てた。


だが、その夜。


定時後の飲み会の席で、荷物を整理しようと工具箱を開いた時。

同じ紙が工具の隙間に挟まっていた。


――返してください。


さっき捨てたはずなのに。




気味が悪かった。

帰宅後、真琴は工具箱を徹底的に調べた。


隠し収納などない。

紙もない。


問題なし。

風呂に入り、寝た。


午前二時。

金属音で目が覚めた。


ガチャ。

ガチャ。

ガチャ。


玄関からだった。

真琴は息を止める。


泥棒か。

警察を呼ぶべきか。


音は続く。


ガチャ。

ガチャ。


まるで誰かが、工具箱の留め具を開閉しているような音だった。


恐る恐る廊下へ出る。

玄関には誰もいない。


だが、工具箱が置かれていた。

玄関の真ん中に。


朝はリビングに置いたはずだった。

背筋が冷たくなる。


その時。

スマートフォンが震えた。

知らない番号。


真琴は出た。


ザーッというノイズ。

その向こうで女の声が聞こえた。


「返して」


通話は切れた。




翌日、会社で同僚に相談した。

当然笑われた。


疲労だろう。

そう言われた。


真琴自身もそう思いたかった。

しかし、帰宅すると異変はさらに増えていた。


工具箱の中身が増えている。

見覚えのないマイナスドライバー。


古いペンチ。

錆びたレンチ。


どれも異常に古い。

昭和時代の工場で、使われていたような工具ばかりだった。


そして、一本一本に白いテープが巻かれている。

そこには黒い文字。


名前だった。


田中。

小林。

遠藤。

中村。


全て、違う名前。


気味が悪くなりネットで検索する。

すると、古い新聞記事が見つかった。


二十年前。

市内の廃工場で火災事故があった。


作業員四名死亡。

工具に書かれた名前と一致していた。


ひゅっ、と真琴の喉が鳴った。


記事の最後にある写真を見て、血の気が引いた。

焼け跡から回収された赤い工具箱。


それは今、自分が持っているものと同じだった。




翌朝、真琴は足早に会社の倉庫へ向かった。

古参社員なら何か知っているかもしれない。


定年間近の所長が、工具箱を見るなり顔色を変えた。


「それ、どこで手に入れた」


真琴は答える。

中古工具店で数年前に買ったこと。


所長はしばらく黙った。


やがて言った。


「その事故な……」


火災の原因は漏電だった。

だが、事故調査の結果には載らなかった事実がある。


点検担当者が手抜きをしていた。

異常を知りながら放置した。


結果、四人が死んだ。

担当者は責任を恐れて逃げた。

工具箱だけが現場に残った。


「その担当者の名前は?」


所長は答えなかった。

代わりに古い社員名簿を机に置いた。


焼けたように茶色く変色した紙。

ざらついた紙が心をひっかくようだ。


ページをめくっていて、真琴は言葉を失った。

名簿の余白に「次はお前」と書かれていた。




その夜。

真琴は、工具箱を抱えて事故現場跡へ向かった。


今は更地になっている。

風だけが吹いていた。


工具箱を地面に置く。

留め具が勝手に開く。


中にはあの紙。


何十枚も。

何百枚も。


全て同じ文字。


――返してください。


その瞬間。


真琴は理解した。

返してほしいのは工具箱ではない。


四人はまだ事故当日のままだった。

誰かが責任を受け取るまで、ずっと燃え続けているのだ。


真琴は震える手で言った。

「私じゃない」


沈黙。


「でも、終わらせる」


翌日、彼女は古い名簿を警察へ提出した。

事故の記録として。


隠されていた事実は報道された。


数週間後。

工具箱の中から紙は消えた。


電話も来なくなった。

足音も聞こえない。


すべて終わった。

そう思っていた。


ある雨の夜。

仕事帰り。


駅のホームで真琴はふと窓ガラスを見る。

自分の姿が映っている。


作業着。

赤い工具箱。


その後ろ。

知らない四人の作業員。


黒く焼け焦げた顔。

だが彼らは微笑んでいた。


電車が到着する。


振り返る。

誰もいない。


再び窓を見る。

今度は真琴一人だけだった。


ホームに風が吹く。

どこからか、金属製の留め具が静かに閉まる音がした。


カチリ。


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