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あすかの幸せについて  作者: こうた
第7章 新たなる夏

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第8話 名前にならない距離

距離には、名前がつく前の段階がある。



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あすかはそれを、八月下旬に理解し始めていた。



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八月下旬。



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夏はピークを越えたようで、まだ終わっていない。



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夜の湿度だけが、変わらずそこに残っている。



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「人生の交差点」



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夜。



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扉を開ける。



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カラン。



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マスターは軽くうなずく。



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「そろそろ夏も終わりだね」



---


あすかは小さくうなずく。



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「そうですね」



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それだけだった。



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席に座る。



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グラスが置かれる。



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今日は少しだけ穏やかな温度だった。



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冷たすぎず、熱くもない。



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中間の温度。



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悠真は来ない。



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その事実は、もはや背景の一部になっている。



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マスターは何も言わない。



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ただグラスを拭いている。



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しばらくして扉が開く。



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カラン。



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朝比奈 恒一だった。



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彼は軽く会釈する。



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「こんばんは」



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あすかも返す。



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「こんばんは」



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それだけで空気が整う。



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しかし今日は、少しだけ違っていた。



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朝比奈はすぐには座らず、


一瞬だけあすかの席を見たあと、


少し離れた位置に座る。



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その選択に理由はないように見えた。



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しかし、そこには確かな“配慮”があった。



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マスターがグラスを置く。



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朝比奈は静かに受け取り、すぐには飲まない。



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ただ一度だけ、店内を見渡す。



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あすかは視線を落とす。



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名前にならない距離。



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それは、近づこうとしていない距離ではない。



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ただ、まだ形を決めていない距離だった。



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朝比奈がふと口を開く。



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「ここ、落ち着きますね」



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あすかは少し間を置く。



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「変わらないからかもしれません」



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その言葉に、朝比奈は小さくうなずく。



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「変わらない場所って、少ないですよね」



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それだけだった。



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会話は続かない。



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しかし、途切れ方に違和感はない。



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マスターは何も言わない。



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ただグラスを拭いている。



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その音が、以前よりも静かに感じられる。



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時間が流れる。



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朝比奈はほとんど話さない。



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あすかも同じだ。



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しかし今日は、その沈黙に“安定”が混ざっていた。



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揺れない時間。



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それは、何も起きていないのではなく、


何も壊れていない時間だった。



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やがて朝比奈が立ち上がる。



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「失礼します」



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軽く会釈する。



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扉へ向かう。



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カラン。



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音はいつも通り。



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しかしその後の空気は、少しだけ違っていた。



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“関係にならないまま続いている何か”。



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あすかはグラスを見つめる。



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悠真はいない。



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それはもう、確認する必要もない。



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そしてその空白に、


名前のない距離が静かに積み重なっている。



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まだそれは関係ではない。



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しかし、ただの他人でもなかった。



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夏は終わりに向かいながら、


別の形を作り始めていた。



---


(第7章 第9話へ続く)

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