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あすかの幸せについて  作者: こうた
第1章 温もりを得た冬

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第2話 残り火のような日常

翌朝、あすかはいつも通りの時間に目を覚ました。


目覚まし時計の音は、昨日と何も変わらない。

部屋の空気も、カーテンの隙間から差し込む光も、すべてが同じ顔をしている。


ただ一つ違うのは、昨夜の記憶が、まだ胸の奥に残っていることだった。


「人生の交差点」


あの看板の文字が、ぼんやりと浮かぶ。


夢だったのか現実だったのか、境界が曖昧になるほど、あの空間は静かだった。



---


あすかはコーヒーを淹れながら、スマホを手に取る。


通知はない。


それを確認することが、いつの間にか習慣になっていた。


けれど今日は、少しだけ違う気持ちで画面を閉じた。


「また行くのかな、あそこ」


口に出した瞬間、自分でも少し驚いた。


昨日たまたま入っただけの場所。

本来なら、もう関わらないはずの空間。


それなのに、頭から離れない。



---


会社では、いつも通りの時間が流れていた。


資料、メール、会議、返答。


誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが流す。


あすかはそのすべての中で「問題のない人」として存在している。


それは安心でもあり、同時に透明でもあった。


昼休み、同僚が言った。


「昨日どこ行ってたの?」


何気ない質問。


あすかは一瞬だけ止まる。


「普通に帰って寝てたよ」


嘘ではない。

ただ、全部ではない。


その“全部ではない言葉”が、自分を少しずつ遠ざけていくのを感じていた。



---


夜になる。


街は昨日と同じように冷たい。


けれど足は、自然に昨日の路地へ向かっていた。


理由はない。

あるとすれば、「確認したい」という小さな衝動だけだった。



---


角を曲がる。


そこに、昨日と同じ光があった。


「人生の交差点」


看板は変わらない。

ただそこにあるだけで、少しだけ安心させる何かがあった。


あすかは一度立ち止まり、深く息を吸う。


そして扉を開けた。



---


カラン、と鈍い音。


中は昨日と同じ静けさだった。


マスターは顔を上げる。


「おかえり、とは言わないほうがいいかな」


少しだけ笑う。


あすかは小さく頭を下げた。


「また来ちゃいました」


「来ちゃった、でいいよ。ここはそういう場所だから」


その言葉は軽いのに、不思議と軽く流れなかった。



---


同じ席に座る。


昨日と同じように、グラスが置かれる。


ただ今日は、少しだけ香りが違って感じた。


「あの、お酒って毎回違うんですか」


「気分だよ」


「気分で変わるんですか」


「人もそうだろ」


その一言に、あすかは言葉を失った。



---


店の奥では、別の客が静かにグラスを傾けている。


誰も大きな声を出さない。


それぞれが、自分の時間を持っているようだった。


あすかはふと気づく。


ここでは「話さなくてもいい」という空気がある。


それが、こんなにも楽だとは思わなかった。



---


「昨日の夜、よく眠れましたか」


マスターが何気なく聞く。


あすかは少し考えてから答える。


「眠れた気がします。久しぶりに」


「それはよかった」


それだけで会話は終わる。


無理に深掘りされないことが、逆に不思議だった。



---


グラスの中の氷が、少しずつ形を失っていく。


あすかはそれを見ながら思う。


この店は、何かを変える場所ではない。

ただ、変わる前の自分を置いていける場所だ。



---


「ここって、ずっとこういう感じなんですか」


あすかは思い切って聞いた。


マスターは少しだけ間を置く。


「ずっと同じに見えるかもしれないけど、人は毎日違うからね」


「人が変わると、この場所も変わるんですか」


「さあね。ただ、そう見えるだけかもしれない」


曖昧な答え。


けれど、それが逆に真実のようにも思えた。



---


帰り際、あすかは少しだけ迷ってから言った。


「また来てもいいですか」


マスターは昨日と同じように答える。


「来たくなったらでいい」


その言葉は、昨日より少しだけ柔らかく感じた。



---


外に出ると、夜はまだ冷たい。


けれど昨日ほどの孤独感はなかった。


ポケットの中に、ほんの小さな熱が残っている。


それはたぶん、何かが始まる前の温度だった。



---


あすかは歩き出す。


同じ道。


同じ街。


それでも、ほんの少しだけ違う世界。


その違いの正体を、まだ彼女は知らない。


ただ一つだけ分かっているのは、


もう「昨日の自分」には完全には戻れないということだった。

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