もう疲れました、と告げたら、無表情な公爵が私を連れ去った
# もう疲れました、と告げたら、無表情な公爵が私を連れ去った
「君との婚約は破棄だ、エルディア」
王太子ノエルの声は、春の陽射しが差し込む応接室に響いた。
私は紅茶のカップを静かにソーサーに置いた。手は震えていなかった。むしろ、胸の奥で何かが、ほどけていくような感覚があった。
「……そうですか」
三年間、この言葉を待っていたのかもしれない。
「聖女リゼット様との真実の愛に、私は敵いません」
ノエルの青い瞳が僅かに揺れた。でも、すぐに決意の色に変わる。
「分かってくれるか。君は理解のある女性だ」
理解。そうだ、私はいつも理解していた。ノエルの望みを、王宮の都合を、周囲の期待を。
「では、七日で王宮を去ります」
「七日? そんなに早く——」
「もう、疲れました」
その言葉が口を突いて出た瞬間、ノエルの顔が強張った。
私は立ち上がり、深く一礼した。
「お幸せに、ノエル様」
振り返らずに扉へと向かう。もう、この部屋に戻ることはない。
廊下に出ると、窓の外に馬車が一台、止まっていた。黒い馬車。辺境公爵アルトリウス家の紋章が、銀色に輝いている。
「……レイヴン様?」
無表情な男が、馬車の傍らに立っていた。黒い髪、灰色の瞳。氷のように冷たいと噂される辺境の公爵。
視線が合った。
「エルディア・フォンテーヌ」
低い声で、私の名を呼ぶ。
「婚約破棄、おめでとう」
「……はい?」
「やっと自由になれますね」
その言葉の意味を考える前に、レイヴンは馬車に乗り込んでいった。
私は首を傾げて、自室へと向かった。
「お嬢様!」
部屋に戻ると、侍女のマリが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「本当に、お帰りになられるのですか?」
「ええ。七日後にはフォンテーヌ家に戻るわ」
「そんな……お嬢様がいなくなったら、王宮は……」
マリの言葉を、私は優しく遮った。
「大丈夫よ。聖女様がいらっしゃるもの」
三年間、私は王太子妃候補として王宮の雑務を一手に引き受けてきた。書類の整理、予算の管理、行事の調整。地味で目立たない仕事ばかり。
でも、その全てが「侍女の功績」として記録されていた。私の名前は、どこにも残っていない。
「お嬢様の功績を、誰も知らないなんて……」
「いいのよ、マリ。私は、もう頑張らなくていいの」
そう言って微笑むと、マリは声を上げて泣き始めた。
私は彼女の背中を撫でながら、窓の外を見た。
黒い馬車は、まだそこにあった。
三日が過ぎた。
王宮の廊下を歩いていると、騒がしい声が聞こえてくる。
「どうして今月の予算書が見つからないんだ!」
「先月提出したはずの報告書が、どこにもありません!」
「次の晩餐会の席次表は? 誰が作成したんだ?」
混乱の声。
私がいつも整理していた書類が、見つからないらしい。当然だ。私は三年間、自分の部屋で全ての書類を管理していた。王宮の書庫は雑然としていて、使い物にならなかったから。
「エルディア様!」
若い文官が駆け寄ってくる。
「お願いです、予算書の場所を教えてください!」
「私の部屋の三段目の引き出しです。月別に分類してあります」
「ありがとうございます!」
文官は走り去った。
私はため息をついた。こんなことが、あと四日続くのだろうか。
「お疲れのようですね」
振り返ると、レイヴンがいた。
相変わらず無表情で、私をじっと見ている。
「……公爵様。王宮に何か御用ですか?」
「辺境の報告書を提出に」
そう言って、レイヴンは分厚い書類を掲げた。
「ところで、エルディア様」
「はい?」
「あなたの日誌を、拝見してもよろしいですか」
「日誌……ですか?」
私は首を傾げた。
日誌。毎日つけていた、業務記録のことだろうか。何をいつ処理したか、誰がどの書類を必要としているか。三年分、几帳面に記録してある。
「なぜ、そのようなものを?」
「必要なのです」
レイヴンの灰色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。
「……分かりました。後ほど、お部屋にお届けします」
「ありがとうございます」
レイヴンは軽く頭を下げて、去っていった。
不思議な人だ。何を考えているのか、全く読めない。
五日目。
ノエルが私の部屋を訪ねてきた。
「エルディア、少し話がある」
疲れた顔をしている。目の下に隈ができていた。
「どうぞ」
私は椅子を勧めたが、ノエルは立ったままだった。
「……やはり、もう少し王宮に残ってくれないか」
「お断りします」
即答した。
ノエルの顔が驚愕に染まる。
「しかし、王宮が混乱している! お前がいないと、何も回らない!」
「それは、聖女様にお任せください」
「リゼットは、そういうことが苦手なんだ! 彼女は心優しい聖女で——」
「では、侍女の方々に」
「侍女たちは、お前ほど有能ではない!」
ノエルの声が大きくなる。
私は静かに、彼を見上げた。
「三年間、私の功績は全て侍女の手柄として記録されました」
「それは……」
「ですから、侍女の方々が有能なのです。私は無能ですから」
ノエルの顔が青ざめた。
「あれは、体裁というか……お前は王太子妃候補だから、雑務をしているように見えるのはまずいと——」
「もう、いいのです」
私は立ち上がった。
「私はもう、疲れました。ノエル様、どうかお幸せに」
「エルディア!」
ノエルの声を背に、私は部屋を出た。
廊下で、またレイヴンと出会った。
相変わらず無表情だが、どこか満足そうに見えた。気のせいだろうか。
七日目。
私は荷物をまとめ終えた。
王宮を去る日だ。
「お嬢様……」
マリが泣いている。他の侍女たちも、目を赤くしていた。
「みんな、ありがとう。元気でね」
一人一人を抱きしめて、部屋を出た。
玄関には、フォンテーヌ家の馬車が待っているはずだった。
でも、そこにあったのは、黒い馬車だった。
「……レイヴン様?」
公爵が、馬車の扉を開けて待っていた。
「エルディア・フォンテーヌ。これから、謁見の間へ向かいます」
「謁見の間? でも、私はもう——」
「国王陛下がお呼びです」
レイヴンの声は、有無を言わさぬ響きがあった。
私は戸惑いながらも、馬車に乗り込んだ。
謁見の間は、すでに多くの貴族で埋まっていた。
ノエルもいる。聖女リゼットも。
そして、玉座には国王陛下。
「エルディア・フォンテーヌ、参りました」
私が礼をすると、国王が頷いた。
「よく来た。アルトリウス公爵から、興味深いものを預かっている」
国王の手には、見覚えのある革装丁の本があった。
私の日誌だ。
「これは……」
「三年分の業務記録だ。実に詳細に記されている」
国王が日誌を開く。
「王太子の予算管理、年間行事の調整、外交文書の整理、貴族間の調停……全て、エルディア・フォンテーヌ、お前の筆跡だな」
「は、はい」
「ノエル」
国王の声が、冷たくなった。
「お前は、この三年間、婚約者に何をさせていた」
ノエルの顔が蒼白になる。
「父上、それは……」
「答えよ」
「……エルディアは、有能でしたので」
「有能な婚約者を、無能と記録させたのか」
謁見の間が、静まり返った。
「彼女の功績を侍女のものとし、彼女自身は何もしていないことにした」
国王の声が、響く。
「そして、用済みになったら婚約破棄か」
「父上! しかし、真実の愛が——」
「黙れ」
国王の一喝に、ノエルが口を閉じた。
「エルディア・フォンテーヌ。お前は、三年間よく王宮を支えてくれた」
国王が立ち上がり、私の前まで歩いてきた。
「礼を言う。そして、詫びる」
国王が、頭を下げた。
「陛下!」
私は慌てて膝をついた。
「お顔をお上げください! 私は、ただ——」
「お前は、誇りを持っていい」
国王は優しく微笑んだ。
「そして、好きに生きるといい」
その時、レイヴンが前に出た。
謁見の間の中央で、片膝をついた。
「国王陛下」
「何だ、アルトリウス」
「一つ、お願いがございます」
レイヴンの灰色の瞳が、私を見た。
「エルディア・フォンテーヌ様を、私に下さい」
謁見の間が、どよめいた。
私は息を呑んだ。
「レイヴン様……?」
「あなたは、三年間疲れ続けた」
レイヴンの声は、いつもの無表情な調子だった。
「でも、もう頑張らなくていい。私が、あなたを守ります」
「でも、私は——」
「あなたは、有能で、優しくて、誇り高い」
レイヴンが立ち上がり、私の手を取った。
「そして、疲れ切った笑顔が、あまりにも痛々しかった」
その瞬間、私の目から涙が溢れた。
三年間、一度も泣かなかった。
でも今、初めて泣いていた。
「……なぜ、私なんかを」
「あなただからです」
レイヴンは私の涙を、そっと拭った。
「エルディア・フォンテーヌ。私と、結婚してください」
謁見の間が、静まり返った。
私は、レイヴンを見上げた。
無表情な顔。でも、灰色の瞳は、優しかった。
「……はい」
小さく頷くと、レイヴンの口元が僅かに緩んだ。
笑っている。初めて見る、彼の笑顔だった。
背後から、ノエルの声が聞こえた。
「待て! エルディア、考え直せ!」
でも、私は振り返らなかった。
もう、振り返る理由がなかった。
「行きましょう、レイヴン様」
「ええ」
レイヴンは私の手を取り、謁見の間を出た。
外には、黒い馬車が待っていた。
「辺境は、寒いですよ」
馬車に乗り込みながら、レイヴンが言った。
「でも、静かで、美しい」
「……楽しみです」
私は初めて、心からそう思った。
馬車が動き出す。
窓の外、王宮が遠ざかっていく。
三年間、私を縛り付けていた場所。
でも、もう振り返らない。
前を向く。
隣には、無表情だけれど優しいレイヴンがいる。
「エルディア」
「はい?」
「これから、ゆっくり休んでください」
「……はい」
私は彼の肩に、そっと頭を預けた。
もう、疲れなくていい。
もう、頑張らなくていい。
ただ、幸せになればいい。
レイヴンの手が、私の髪を優しく撫でた。
「ずっと、見ていました」
「え?」
「三年前から。あなたが王宮で、一人で頑張っている姿を」
「どうして……」
「あなたの笑顔が、日に日に疲れていくのが分かった」
レイヴンの声は、静かだった。
「だから、日誌を見せてくださいと頼んだ。証拠が必要でした」
「証拠……」
「あなたを連れ去るための、正当な理由が」
私は顔を上げて、レイヴンを見た。
彼は相変わらず無表情だったが、耳が少し赤かった。
「ありがとうございます」
「いえ」
レイヴンは私の手を、ぎゅっと握った。
「これから、幸せにします」
「……はい」
馬車は、辺境へと向かう。
新しい人生へと、向かう。
窓の外、春の景色が流れていく。
私は目を閉じた。
もう、疲れていなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
疲れ切った令嬢が、静かに去ることを選ぶお話でした。
冷却系ざまぁと、無表情公爵の溺愛をお楽しみいただけたなら幸いです。
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