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もう疲れました、と告げたら、無表情な公爵が私を連れ去った

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/03

# もう疲れました、と告げたら、無表情な公爵が私を連れ去った


「君との婚約は破棄だ、エルディア」


 王太子ノエルの声は、春の陽射しが差し込む応接室に響いた。


 私は紅茶のカップを静かにソーサーに置いた。手は震えていなかった。むしろ、胸の奥で何かが、ほどけていくような感覚があった。


「……そうですか」


 三年間、この言葉を待っていたのかもしれない。


「聖女リゼット様との真実の愛に、私は敵いません」


 ノエルの青い瞳が僅かに揺れた。でも、すぐに決意の色に変わる。


「分かってくれるか。君は理解のある女性だ」


 理解。そうだ、私はいつも理解していた。ノエルの望みを、王宮の都合を、周囲の期待を。


「では、七日で王宮を去ります」


「七日? そんなに早く——」


「もう、疲れました」


 その言葉が口を突いて出た瞬間、ノエルの顔が強張った。


 私は立ち上がり、深く一礼した。


「お幸せに、ノエル様」


 振り返らずに扉へと向かう。もう、この部屋に戻ることはない。


 廊下に出ると、窓の外に馬車が一台、止まっていた。黒い馬車。辺境公爵アルトリウス家の紋章が、銀色に輝いている。


「……レイヴン様?」


 無表情な男が、馬車の傍らに立っていた。黒い髪、灰色の瞳。氷のように冷たいと噂される辺境の公爵。


 視線が合った。


「エルディア・フォンテーヌ」


 低い声で、私の名を呼ぶ。


「婚約破棄、おめでとう」


「……はい?」


「やっと自由になれますね」


 その言葉の意味を考える前に、レイヴンは馬車に乗り込んでいった。


 私は首を傾げて、自室へと向かった。



「お嬢様!」


 部屋に戻ると、侍女のマリが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。


「本当に、お帰りになられるのですか?」


「ええ。七日後にはフォンテーヌ家に戻るわ」


「そんな……お嬢様がいなくなったら、王宮は……」


 マリの言葉を、私は優しく遮った。


「大丈夫よ。聖女様がいらっしゃるもの」


 三年間、私は王太子妃候補として王宮の雑務を一手に引き受けてきた。書類の整理、予算の管理、行事の調整。地味で目立たない仕事ばかり。


 でも、その全てが「侍女の功績」として記録されていた。私の名前は、どこにも残っていない。


「お嬢様の功績を、誰も知らないなんて……」


「いいのよ、マリ。私は、もう頑張らなくていいの」


 そう言って微笑むと、マリは声を上げて泣き始めた。


 私は彼女の背中を撫でながら、窓の外を見た。


 黒い馬車は、まだそこにあった。



 三日が過ぎた。


 王宮の廊下を歩いていると、騒がしい声が聞こえてくる。


「どうして今月の予算書が見つからないんだ!」


「先月提出したはずの報告書が、どこにもありません!」


「次の晩餐会の席次表は? 誰が作成したんだ?」


 混乱の声。


 私がいつも整理していた書類が、見つからないらしい。当然だ。私は三年間、自分の部屋で全ての書類を管理していた。王宮の書庫は雑然としていて、使い物にならなかったから。


「エルディア様!」


 若い文官が駆け寄ってくる。


「お願いです、予算書の場所を教えてください!」


「私の部屋の三段目の引き出しです。月別に分類してあります」


「ありがとうございます!」


 文官は走り去った。


 私はため息をついた。こんなことが、あと四日続くのだろうか。


「お疲れのようですね」


 振り返ると、レイヴンがいた。


 相変わらず無表情で、私をじっと見ている。


「……公爵様。王宮に何か御用ですか?」


「辺境の報告書を提出に」


 そう言って、レイヴンは分厚い書類を掲げた。


「ところで、エルディア様」


「はい?」


「あなたの日誌を、拝見してもよろしいですか」


「日誌……ですか?」


 私は首を傾げた。


 日誌。毎日つけていた、業務記録のことだろうか。何をいつ処理したか、誰がどの書類を必要としているか。三年分、几帳面に記録してある。


「なぜ、そのようなものを?」


「必要なのです」


 レイヴンの灰色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。


「……分かりました。後ほど、お部屋にお届けします」


「ありがとうございます」


 レイヴンは軽く頭を下げて、去っていった。


 不思議な人だ。何を考えているのか、全く読めない。



 五日目。


 ノエルが私の部屋を訪ねてきた。


「エルディア、少し話がある」


 疲れた顔をしている。目の下に隈ができていた。


「どうぞ」


 私は椅子を勧めたが、ノエルは立ったままだった。


「……やはり、もう少し王宮に残ってくれないか」


「お断りします」


 即答した。


 ノエルの顔が驚愕に染まる。


「しかし、王宮が混乱している! お前がいないと、何も回らない!」


「それは、聖女様にお任せください」


「リゼットは、そういうことが苦手なんだ! 彼女は心優しい聖女で——」


「では、侍女の方々に」


「侍女たちは、お前ほど有能ではない!」


 ノエルの声が大きくなる。


 私は静かに、彼を見上げた。


「三年間、私の功績は全て侍女の手柄として記録されました」


「それは……」


「ですから、侍女の方々が有能なのです。私は無能ですから」


 ノエルの顔が青ざめた。


「あれは、体裁というか……お前は王太子妃候補だから、雑務をしているように見えるのはまずいと——」


「もう、いいのです」


 私は立ち上がった。


「私はもう、疲れました。ノエル様、どうかお幸せに」


「エルディア!」


 ノエルの声を背に、私は部屋を出た。


 廊下で、またレイヴンと出会った。


 相変わらず無表情だが、どこか満足そうに見えた。気のせいだろうか。



 七日目。


 私は荷物をまとめ終えた。


 王宮を去る日だ。


「お嬢様……」


 マリが泣いている。他の侍女たちも、目を赤くしていた。


「みんな、ありがとう。元気でね」


 一人一人を抱きしめて、部屋を出た。


 玄関には、フォンテーヌ家の馬車が待っているはずだった。


 でも、そこにあったのは、黒い馬車だった。


「……レイヴン様?」


 公爵が、馬車の扉を開けて待っていた。


「エルディア・フォンテーヌ。これから、謁見の間へ向かいます」


「謁見の間? でも、私はもう——」


「国王陛下がお呼びです」


 レイヴンの声は、有無を言わさぬ響きがあった。


 私は戸惑いながらも、馬車に乗り込んだ。


 謁見の間は、すでに多くの貴族で埋まっていた。


 ノエルもいる。聖女リゼットも。


 そして、玉座には国王陛下。


「エルディア・フォンテーヌ、参りました」


 私が礼をすると、国王が頷いた。


「よく来た。アルトリウス公爵から、興味深いものを預かっている」


 国王の手には、見覚えのある革装丁の本があった。


 私の日誌だ。


「これは……」


「三年分の業務記録だ。実に詳細に記されている」


 国王が日誌を開く。


「王太子の予算管理、年間行事の調整、外交文書の整理、貴族間の調停……全て、エルディア・フォンテーヌ、お前の筆跡だな」


「は、はい」


「ノエル」


 国王の声が、冷たくなった。


「お前は、この三年間、婚約者に何をさせていた」


 ノエルの顔が蒼白になる。


「父上、それは……」


「答えよ」


「……エルディアは、有能でしたので」


「有能な婚約者を、無能と記録させたのか」


 謁見の間が、静まり返った。


「彼女の功績を侍女のものとし、彼女自身は何もしていないことにした」


 国王の声が、響く。


「そして、用済みになったら婚約破棄か」


「父上! しかし、真実の愛が——」


「黙れ」


 国王の一喝に、ノエルが口を閉じた。


「エルディア・フォンテーヌ。お前は、三年間よく王宮を支えてくれた」


 国王が立ち上がり、私の前まで歩いてきた。


「礼を言う。そして、詫びる」


 国王が、頭を下げた。


「陛下!」


 私は慌てて膝をついた。


「お顔をお上げください! 私は、ただ——」


「お前は、誇りを持っていい」


 国王は優しく微笑んだ。


「そして、好きに生きるといい」


 その時、レイヴンが前に出た。


 謁見の間の中央で、片膝をついた。


「国王陛下」


「何だ、アルトリウス」


「一つ、お願いがございます」


 レイヴンの灰色の瞳が、私を見た。


「エルディア・フォンテーヌ様を、私に下さい」


 謁見の間が、どよめいた。


 私は息を呑んだ。


「レイヴン様……?」


「あなたは、三年間疲れ続けた」


 レイヴンの声は、いつもの無表情な調子だった。


「でも、もう頑張らなくていい。私が、あなたを守ります」


「でも、私は——」


「あなたは、有能で、優しくて、誇り高い」


 レイヴンが立ち上がり、私の手を取った。


「そして、疲れ切った笑顔が、あまりにも痛々しかった」


 その瞬間、私の目から涙が溢れた。


 三年間、一度も泣かなかった。


 でも今、初めて泣いていた。


「……なぜ、私なんかを」


「あなただからです」


 レイヴンは私の涙を、そっと拭った。


「エルディア・フォンテーヌ。私と、結婚してください」


 謁見の間が、静まり返った。


 私は、レイヴンを見上げた。


 無表情な顔。でも、灰色の瞳は、優しかった。


「……はい」


 小さく頷くと、レイヴンの口元が僅かに緩んだ。


 笑っている。初めて見る、彼の笑顔だった。


 背後から、ノエルの声が聞こえた。


「待て! エルディア、考え直せ!」


 でも、私は振り返らなかった。


 もう、振り返る理由がなかった。


「行きましょう、レイヴン様」


「ええ」


 レイヴンは私の手を取り、謁見の間を出た。


 外には、黒い馬車が待っていた。


「辺境は、寒いですよ」


 馬車に乗り込みながら、レイヴンが言った。


「でも、静かで、美しい」


「……楽しみです」


 私は初めて、心からそう思った。


 馬車が動き出す。


 窓の外、王宮が遠ざかっていく。


 三年間、私を縛り付けていた場所。


 でも、もう振り返らない。


 前を向く。


 隣には、無表情だけれど優しいレイヴンがいる。


「エルディア」


「はい?」


「これから、ゆっくり休んでください」


「……はい」


 私は彼の肩に、そっと頭を預けた。


 もう、疲れなくていい。


 もう、頑張らなくていい。


 ただ、幸せになればいい。


 レイヴンの手が、私の髪を優しく撫でた。


「ずっと、見ていました」


「え?」


「三年前から。あなたが王宮で、一人で頑張っている姿を」


「どうして……」


「あなたの笑顔が、日に日に疲れていくのが分かった」


 レイヴンの声は、静かだった。


「だから、日誌を見せてくださいと頼んだ。証拠が必要でした」


「証拠……」


「あなたを連れ去るための、正当な理由が」


 私は顔を上げて、レイヴンを見た。


 彼は相変わらず無表情だったが、耳が少し赤かった。


「ありがとうございます」


「いえ」


 レイヴンは私の手を、ぎゅっと握った。


「これから、幸せにします」


「……はい」


 馬車は、辺境へと向かう。


 新しい人生へと、向かう。


 窓の外、春の景色が流れていく。


 私は目を閉じた。


 もう、疲れていなかった。


お読みいただき、ありがとうございました。


疲れ切った令嬢が、静かに去ることを選ぶお話でした。

冷却系ざまぁと、無表情公爵の溺愛をお楽しみいただけたなら幸いです。


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