星空の下で
ヴェルトの中立地域の一軒家で、アリシアとケインは奇妙な平穏の中にいた。戦争の音が遠くに聞こえるだけのこの場所で、二人は敵同士という立場を超えて、少しずつ心を通わせ始めていた。暖炉の火が赤い土の冷たさを和らげ、簡素な家の中には穏やかな空気が漂っていた。
その夜、アリシアは再び浴室に足を踏み入れた。前日に煤を落としたばかりだが、ヴェルトの風が運ぶ赤い塵はすぐに髪や肌にまとわりつく。彼女はお湯に浸かりながら、戦場で過ごした日々を思い返していた。家族を失い、復讐だけを支えに戦ってきた自分。でも、ここに来てから、ケインとの何気ない会話がその冷たい心を溶かし始めていた。
「何だろ、この気持ち…」 アリシアは小さくつぶやき、濡れた髪をかき上げた。
風呂から上がると、彼女は再び連邦が用意した灰色の服に着替えた。煤のない顔は、13歳の少女らしい柔らかさを取り戻していた。リビングに戻ると、ケインがまた暖炉のそばでココアを淹れていた。湯気が立ち上るマグカップを手に、彼が笑顔で振り返った。
「お前、風呂好きだな。毎日入ってるじゃないか。」
「うっさい。戦場じゃ何日も水に触れなかったんだ。贅沢させてもらうよ。」 アリシアは軽く睨みつつ、少し笑いながらマグを受け取った。
二人は暖炉の前に並んで座り、ココアを飲み始めた。甘い香りが部屋に広がり、火の音が心地よいリズムを刻む。アリシアがふと口を開いた。
「なあ、ケイン。お前、地球ってどんなとこだった?」
ケインはカップを手に持ったまま、少し考えるように目を細めた。
「俺は81地区の『ジャパン州』の生まれ。ジャパン州は連邦の中でも特に緑が多かったよ。ヴェルトみたいに赤い土ばっかりじゃなくて、ヴェルトのとは比べ物にならないぐらいでかい森とか川とか湖とかがある。夏はヴェルトなんか比べ物にならないぐらい蒸し暑くて、冬は極寒で雪が降る。家族とよくキャンプに行ったな。」
「へえ…家族か。」 アリシアの声が少し低くなった。
「私も、昔は父さんと畑仕事してた。ヴェルトじゃ作物育てるの大変だったけど、楽しかったよ。」
ケインは彼女の横顔を見た。煤のない顔に映る暖炉の光が、彼女の瞳を優しく照らしていた。彼は小さく息をついて言った。
「俺、ずっと連邦が正しいと思ってた。でも、お前の話聞いてると、ヴェルトの民が何で戦ってるのか、少し分かってきた気がする。」
アリシアは驚いたようにケインを見た。
「お前…それ、本気で言ってる?」
「ああ。本気だよ。英雄になるって夢見てたけど、こんな戦争で誰かを殺して手に入れるものじゃないって、アリシアに会ってから思うようになった。」
アリシアは目を伏せ、ココアを一口飲んだ。甘さが喉を通り抜け、胸の奥に温かいものが広がった。彼女は小さく笑って言った。
「お前、ほんとバカだな。でも…悪い気はしないよ。」
「何だよ、それ。褒めてんのか?」 ケインも笑い返した。
二人はココアを飲み干し、マグをテーブルに置いた。暖炉の火が弱まり、部屋が少し暗くなった時、アリシアが立ち上がって窓に近づいた。外を見上げると、ヴェルトの赤い空に彦星が輝いていた。
「この星、地球から見るともっと綺麗なんだろ?」
「そうだな。地球じゃ、彦星って恋人たちの星って言われてたよ。」
ケインも窓際に立ち、彼女の隣で空を見上げた。
アリシアはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「なあ、ケイン。戦争が終わったらさ、一緒に地球見てみないか?」
ケインは驚いて彼女を見た。敵同士だった二人が、そんな約束を交わすなんて想像もしていなかった。でも、彼は笑って頷いた。
「いいよ。アリシアと一緒なら、悪くないな。」
窓の外で、彦星が静かに瞬いていた。一軒家の小さなリビングで、二人の間に初めて小さな希望が生まれた瞬間だった。