ココアの温もり
ヴェルトの中立地域に立つ一軒家は、戦争の喧騒から切り離された静かな場所だった。森に囲まれた古びた木造家屋は、簡素ながらも暖炉と水道・そして電気が使える最低限の快適さを提供していた。アリシアとケインがここに移ってから3日が経ち、互いに銃を向け合う緊張は薄れつつあった。とはいえ、二人の間にはまだ見えない壁が残っていた。
その日の夕方、アリシアは一軒家の小さな浴室に足を踏み入れた。連邦軍に捕まる前、戦場で何日も風呂に入っていなかった彼女の体は、煤と汗で汚れきっていた。浴室の鏡に映る自分の顔を見て、彼女は小さく息をついた。
「こんなきったない顔だったのか…」
お湯を張ったバスタブに浸かりながら、アリシアは髪を洗い、顔の煤を丁寧に落とした。水が黒く濁るほど汚れていたが、洗い流すたびに彼女の素顔が現れた。13歳の少女らしい白い肌と、美しい瞳、華奢な体が際立つ。長い黒髪が濡れて肩に張り付き、戦場で見せていた冷たい表情が少し和らいでいた。
風呂から上がると、アリシアは連邦軍の支給品の簡素な服――灰色のシャツとズボン――に着替えた。足首の電子タグがわずかに重かったが、戦闘服よりは軽く感じられた。リビングに戻ると、ケインが暖炉のそばで何かを準備していた。
「ケイン、何してるの?」 アリシアが怪訝そうに尋ねた。
「ココアだよ。基地から支給された物資にあったから、淹れてみた。」 ケインは少し照れくさそうに言って、湯気の立つマグカップを差し出した。
アリシアは一瞬ためらったが、マグを受け取り、暖炉の前に座った。カップを両手で包み込むと、温かさが指先に染みてきた。彼女は一口飲んで、目を細めた。
「甘い…何?これ?」
ヴェルトでのカカオを使った食品・飲料は、土壌や降雨量の関係からココアの原料であるカカオの生産はオアシスのある一部地域に限られており、上流層でなければ一生口にする事さえ出来ない高級品であった。
「俺もだよ。火星じゃよく飲んでたけど、こっちに来てからは初めてだ。」 ケインは自分のカップを持ち、彼女の隣の椅子に腰を下ろした。
暖炉の火がパチパチと鳴り、部屋に柔らかい光を投げかけた。アリシアの濡れた髪から水滴が落ち、煤のない顔が火の光に照らされて穏やかに見えた。ケインは思わず彼女をじっと見てしまった。
「お前、煤落とすと全然違うな。戦場で会った時と別人みたいだ。」
「戦うしかなかったんだから、仕方ないでしょ。」 アリシアは恥ずかしさの余り顔を背けたが、口元に小さな笑みが浮かんだ。
沈黙が流れ、二人はココアを飲みながら暖炉の火を見つめた。やがて、ケインがぽつりと口を開いた。
「なあ、アリシア。お前、家族を殺されたって言ってたよな。どんな人たちだったんだ?」
アリシアの手が一瞬止まった。彼女はカップを見つめ、カップをテーブルにコン、と置き、静かに答えた。
「父さんと母さん、それに歳の離れた兄がいた。郊外で農場やっててさ。連邦が資源を奪いに来て、抵抗したから爆撃された。それで両親は死んで、その後の戦いで兄も死んだ。兄は19歳だったよ。」
ケインは目を伏せた。彼の故郷でも、連邦の命令に従わない者は見せしめにされた話を聞いたことがあった。
「俺は…別の惑星で、暴動鎮圧の際に死んだ親父の無念を晴らす為に志願したんだ。連邦が正義だと思ってた。でも、ここに来てから分からなくなった。お前みたいな奴と会うまでは、敵はただの的だった。」
アリシアはケインを見た。彼の声には迷いと後悔が混じっていて、それが彼女の胸に響いた。
「お前、バカだな。復讐なんて、誰かを殺して晴らすもんじゃないよ。私だって、同じだがw…ここに来て、少し考えるようになった。」
「何を?」
「戦争が終わったら、どうなるのかって。こんな毎日がずっと続くのかな。」
「さあね、上層部から聞いた話、地球連邦の本土はここ3世紀攻撃も受けてないし内紛もないんだってさ」
「ふぅん…」
二人は互いの言葉に耳を傾け、ココアを飲み干した。暖炉の火が小さくなり、部屋に静けさが戻った。アリシアが立ち上がり、空になったマグをテーブルに置いた。
「お前、ココア淹れるのうまいな。また作れよ。」
「へえ、命令かよ?まあ、いいけどな。」 ケインは笑って応じた。
ヴェルト独立軍の兵士と、地球連邦軍の兵士。本来なら水と油の関係である両者は、この家の中ではお互いを人として見ていた