貧しさと逞しさ
今回はアリシアの回想になります
火星のラルニアで新居に落ち着いた夜、アリシアは小さなドーム型の家の窓辺に座り、赤い空を見上げていた。運河の対岸に広がるスラム街の光景が、彼女の胸に重く残っていた。ケインがキッチンで物資を整理する音が聞こえる中、アリシアの視線が遠くに漂い、11歳の頃の記憶が鮮やかに蘇った。
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ヴェルトの赤い土に覆われたスラム街は、暴動の爪痕が色濃く残る場所だった。アリシアは11歳。両親を連邦の爆撃で失い、妹とも生き別れ、孤児として細い体を引きずっていた。煤と汗にまみれた顔、ぼろぼろの服が彼女の全てだった。スラム街の路地はゴミと泥に埋まり、鉄くずや廃材でできた小屋が密集していた。
生きるためには、どんな屈辱も耐えるしかなかった。ある朝、アリシアは古い食品にあたったのか、路地の隅でしゃがみ込んだ。まともなトイレなどなく、彼女は仕方なく野外で大小便を済ませた。羞恥心よりも、空腹と寒さが彼女を支配していた。終わると、汚れた手で顔を拭い、立ち上がった。
「みっともないなんて、考えてる余裕もないよ…生きなきゃ。」
アリシアは自分に言い聞かせ、小さな缶に集めた水で手を洗った。
彼女の生きる術は、靴磨きだった。スラム街の外れに立つ市場で、アリシアは古い布と自作のワックスを持ち、通行人の靴を磨いて小銭を稼いだ。得意の笑顔と器用な手つきで、彼女は客を呼び込んだ。
「おじさん、靴磨くよ!安くするからさ!」 アリシアは声を張り、市場を歩く男に近づいた。男が渋々靴を差し出すと、彼女は素早く磨き上げた。煤で黒ずんだ靴が光を取り戻し、男は驚いた顔で小銭を渡した。
「へえ、上手いな。毎日来るなら、また頼むよ。」
「ありがとう!また来てね!」 アリシアは笑顔で答え、稼いだコインを握り潰した。
その日の稼ぎで、パサパサの干しパンを買い、路地裏でかじった。空腹が少し和らぐと、彼女は空を見上げた。赤いヴェルトの空に輝く彦星が、唯一の希望だった。
「いつか…まともな暮らしがしたいよ。家族が欲しい…」 アリシアの小さな願いは、風に消えた。
そんなある日、スラム街に三人の親子が現れた。背の高い男と優しそうな女、そして少し背の高い男の子。男は市場で物資を交換し、女は子供にパンを分けていた。アリシアはいつものように靴磨きを売り込み、男に近づいた。
「おじさん、靴磨くよ!安いよ!」
男はアリシアを見下ろし、煤だらけの彼女に目を留めた。
「お前、親は?こんなとこで何してんだ?」
「親?何それ?兎も角私は靴磨きで生きてるだけ。」 アリシアは平然と答え、布を手に持った。
男は女と目を合わせ、子供がアリシアに近づいた。女の子が無邪気に言った。
「お前、汚ぇねな。でも、笑顔は可愛いな。」
アリシアは驚き、言葉に詰まった。女が優しく微笑み、男に囁いた。
「この子、連れて帰らない?私たちで育てられるよ。」
男は少し考え、頷いた。そして、アリシアに手を差し伸べた。
「お前、名前は?俺たちと一緒に暮らすか?まともな飯と寝床くらいはあるぞ。」
アリシアの手が震えた。孤児として誰にも必要とされなかった彼女に、初めて温かい言葉が向けられたのだ。
「……アリシア。私、アリシアだよ。本当にいいの?」
「ああ。俺はトーマ、こっちは妻のエリン、息子のエリックだ。家族になろうぜ。」 トーマは笑い、アリシアの手を取った。
その日から、アリシアはトーマ一家に引き取られ、スラム街を離れた。農場での暮らしは貧しかったが、家族の温もりが彼女を支えた。しかし、数年後、連邦の襲撃でその家族も失い、アリシアは再び一人になった。あのスラムの記憶と家族との短い時間が、彼女の心に深く刻まれていた。
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火星の新居に戻ったアリシアは、窓からラルニアのスラム街を見つめた。ケインがキッチンから近づき、彼女の肩に手を置いた。
「お前、どうした?さっきから黙ってるけど。」
「…昔のことを思い出したよ。ヴェルトのスラム街で、家族に会う前の私。あんな暮らしだったんだ。」 アリシアは目を伏せ、小さく笑った。「ケイン、お前がいてくれてよかったよ。」
ケインは彼女の手を握り、静かに頷いた。
「俺もだよ。お前がいるから、ここまで来れた。」
窓の外では、火星の赤い空に星が輝いていた。アリシアの回想は過去の痛みを呼び起こしたが、ケインとの今が新たな希望を灯していた。




