二章7話 初めての感情
「フジガサキ様ですね。リデッサス大聖堂へよく来てくださいました。歓迎します」
またしてもリュドミラから言葉が発せられた。そのことに圧倒されそうになるも、自分を強く持つ。
「ああ、いえ、その……ありがとうございます。その、聖女様……と呼ばれていましたが、ええっと、その聖導師様の上位のような、あの聖女様ですか……?」
十中八九そうであろうことが分かっている確認の言葉。それ自体に意味は無いが、少しでも言葉を作り、会話をしようと試みなければ、本当に魂までもっていかれそうになる。だからこそ、意味が薄い会話でも続ける必要がある。会話に意識を割き、そこから得られる情報に意識を向ければ、少しは自分を保てそうだと思えるからだ。
「一年ほど前に福音を賜り、聖女と呼ばれるようになりました。ですか、在り方としては聖導師と何ら変わりはありません。ですから、そう身構えないで下さい。できることなら、あなたとは仲良くなりたいと思っていますから」
こちらの緊張を見て取れたのか、リュドミラは柔らかな雰囲気を作り、穏やかに語りかけてきた。その雰囲気や仕草にまたも飲み込まれそうになる。
「な、仲良く……それは、その、とても光栄ですが……なぜ、その、自分と……?」
今度は普通に疑問に感じた事を舌に乗せた。リュドミラが自分と仲良くなりたいと感じたのは意外だったし、何より理由が思い至らなかったからだ。しかし、俺の疑問に対して、リュドミラは微笑むと、予想外の言葉を返してきた。
「仲良くなるのに理由が必要でしょうか?」
穏やかな表情を崩さずに、けれど声音はどこか楽し気だ。
これは…………? 本気で言っているのだろうか?
いや、確かに、理由は必要ない。なんとなく仲良くなることだってあるし、『理由がないと仲良くしてはいけない』という方がおかしいと言えばおかしい。でも、なんだろうか? いや、これは完全に偏見なのだが、リュドミラは行動に理屈や理由を求めるタイプのように思えたのだ。
何と言えばいいんだろうか、『流れ』や『ノリ』では決めない、計画的と言えばいいんだろうか。とにかくそういうタイプに思えたのだ。そう思った明確な理由はない。敢えて言うと、話の順番を意識していたり、自己紹介が簡潔だったからだろうか……あまり大した理由ではない。もしかしたら、単に『自分がそうだから、相手もそうだ』と思っているに過ぎないのかもしれない。
「え、あ、いえ……」
考えているばかりでは結論が出ず、その上彼女の端正な顔を正面から捉えてしまい、意味のなさない言葉ばかりが漏れてしまう。
「ふふっ、勿論、理由はあります。ただ、その前に一つ謝罪したいことがあります。さきほど、お二人の会話が少し聞こえてしまいました。聞き耳を立てていたわけではないのですが、私は耳が良いもので……それで、クリスクからいらしたという話が聞こえてしまったものですから。その上、贖罪日にも参加したとか。私はあの街に行ったことがないものでして、良ければクリスクの街や教会の事を教えていただきたいと思ったのです。仲良くなれば教えて下さるかと思ったので」
どうやら理由はあったようだ。
しかし、なぜ最初にあんな言い回しをしたのだろうか。揶揄われたのだろうか。その事に僅かに疑問が生じるが、今は大きい方の疑問が解決したので満足する。
つまり、リュドミラはクリスクの情報を聞きたかったようだ。まあ、それはそれで少し疑問もあるのだが……仲良くならないと情報を教えないタイプに俺が見えるのだろうか。それともリュドミラの価値観として一般的に仲良くないと情報を教えることは無いと思っているのだろうか。後者だとしても、多くの人はリュドミラ相手ならば、多くの事を進んで話してしまう気がするが。下世話な話になってしまうが、これほどの美少女、何かを聞かれたらできる限り答えようとしてしまうのではないだろうか。とすると、前者だろうか? まあ、俺は内気に見えるだろうし、他人への情報開示も少ない方だから、ある意味その認識は正しいのかもしれない。
いや、別にたいした情報でもないし、クリスクの事程度は誰に聞かれても基本的に教えてしまうと思うけれど。
「ああ、そういうことでしたか。それでしたら全然、大丈夫です。ああ、とはいっても、自分もあの街にはあまり長くはいなかったですが、できる限りはお話しできると思います」
情報が増え、考えるペースが上がったためか、今度は落ち着いて話すことができた。よし、まだ少し惹かれてしまうことはあるが、良い状況だ。このまま冷静さを取り戻していきたい。
「ええ、では、早速、贖罪日の事をお聞きしたい所ではありますが……その前に。ゼシル侍祭、礼拝堂の補修についてラド助祭が探していましたよ。急いでいるようでしたので、一度会いに行った方が良いでしょう」
話の途中で、リュドミラがオットーへと言葉を振る。どうやら仕事上の伝達事項のようだ。話しかけられたオットーの方は僅かに目線を伏せた。
「……かしこまりました。カイさん、すみませんが案内はここまでということでお願いします」
オットーは少し眉をひそめた後、俺の方へ顔を向け謝罪の言葉を告げた。彼の無表情は相変わらず読みにくかったが、それでも、どこか気まずさや申し訳なさのようなものを彼からは感じられた。
「ゼシル侍祭。安心して下さい、案内は私の方で引継ぎますので」
リュドミラもその事に気付いたのか、オットーを励ますような言葉を口にするが、オットーはそれを聞くと益々気まずそうに目を伏せた。
「ああ、ええっと、それはありがとうございます……ゼシル侍祭もここまでありがとうございました。カールマンさんにもよろしくお伝えください」
俺の言葉にオットーは頭を下げると、そそくさと、この場を離れた。案内をしている最中は落ち着いてた彼であったが、リュドミラが現れてからは、どこか居心地が悪そうで、離れる時もなぜか安心したように見えた。
もしかしたら、苦手意識があるのかもしれない。その気持ちは分からなくもない。これほどの他者を惹きつける存在、相手との距離感を一定に保ちたいであろうオットーからすると不得意なのかもしれない。
オットーの後姿を確認した後、再びリュドミラへと向き直ると彼女はゆったりとした雰囲気のまま、頬を緩めた。その僅かな仕草にまた胸が高鳴る。些細な事なのに、体が強く反応してしまう。
「正門からいらしていたんですね。そうしますと、正門から入って真っすぐ本堂に来たといったところでしょうか?」
「はい。そうです」
リュドミラの正確な読みに頷きながら、彼女の様子を窺う。どこか嬉しそうに見えた。
「それでしたら、まだまだ聖堂内で案内できる場所がありそうです。もしよろしければ今から回りませんか? 歩きながらクリスクでのお話をお聞きできればと思っています」
そう提案するリュドミラの表情はにこやかで、さきほどの『仲良くなりたい』という言葉を証明するかのようだ。
彼女の美しさに当てられて僅かに視線を逸らす。非常に美しく、それでいて友好的な物腰。この二つを前にして、その提案を断ることは難しいだろう。いや、まあ、そもそも 特に拒絶する理由は――拒絶する明確な理由はないのだが。
「そう…………ですね。ただ、その……すみません、実は一度ギルドに戻る必要がありまして、ちょっと言うタイミングを逸してしまって……なので、今日はこれ以上は…………すみません」
だが、俺の口から出たのは拒絶の言葉だった。拒絶する明確な理由はない。ただ、これ以上、この場所にいるのは、いや、リュドミラといるのは危険かもしれないと思ったからだ。
勿論、これは別にリュドミラが俺に危害を加えようとしているだとか、そういう理由ではない。ただ、俺が、これ以上リュドミラと一緒にいると、俺が俺でなくなるのではないかという心配があったからだ。たぶん俺は――
「そうでしたか。とても残念ですが、予定があったのでしたら仕方がないことですね。また機会がありましたら、ぜひ聖堂へと来てください。どのような時でもあなたを歓迎します」
リュドミラは俺が突然拒絶の言葉を吐いても、笑顔を崩さなかった。しかし一方で、少しがっかりとした雰囲気を彼女から感じた。その事に申し訳ないと思いつつも、ようやく彼女から離れられる機会を得て、僅かに心が安らぐ。
「本当にすみません。また機会があれば、その時はぜひ……それでは、少し急いでいるので、自分はこれで」
挨拶もそこそこに、彼女に頭を下げ、背を向き歩き出す。本堂から出たあたりで、早歩きになり、聖堂を完全に出てからは走るようにギルドに向かった。
走りながらも様々な思いが頭の中を駆け巡った。
――リュドミラの姿、表情、声、雰囲気、言葉遣い、彼女の全てが何度も何度も記憶の中で反復し、そのたびに胸は高鳴り、魂に彼女の存在が刻み付いて行く。ただ一度だけ会い、そして少しだけ話をした、それだけの相手だ。それなのに、こんなにも、自分を抑えられなくなるほどに彼女に惹きつけられて――恋焦がれてしまった。
そう、俺はたぶん、リュドミラに、初めて見ただけの相手に恋をしてしまったのだ。きっとこれは一目惚れと言うのだろう。