一章69話 リデッサス遺跡街へと行く準備①
三層を探索した次の日の朝。
いつものように、スイとの雑談をしに『ヘルミーネ礼拝堂』に来たのだが、今は少し困ったことになっている。
「ダメです! 認めませーん。お兄さんはスイちゃんの話し相手を辞めるなんて、ダメです……!」
可愛らしく頬を膨らませたスイが俺の膝の上に乗りながら、猛烈に抗議してくる。
こんなことになってしまった原因は数分前に遡る。
※
この日も、いつも通り眠そうなスイと話をしていた。日々の雑談からスイの個性的な話まで、中身は色々だった。そして、そんな雑談が一区切りついたあたりで、俺はスイに伝えるべきことがあった。
「そういえば、スイさん。私事ですが、ちょっといいですか」
「いいよー。何かな~、お兄さん」
いつものように、余裕がある表情でスイは俺に答えた。
「近々、北方遺跡群――リデッサス遺跡街に行こうと思っているんです」
「ほうほう。観光かなー。あそこは、きらきらしてるから、楽しいかもね~」
「まあ、観光という面もありますが……どちらかというと仕事? 探索ですね。クリスクで色々経験を詰めたので、リデッサス遺跡街の方に場所を移したいと思っているんです」
「んー? リデッサス遺跡……北方遺跡群はどれも危険だよ。お兄さんにはまだちょっと早いんじゃないかなー?」
スイは少し不思議そうな顔をしながらも、こちらを諭すように言葉をかけてきた。
「いや、まあ調べた感じ低層ならそこまで心配はないかと思っています。スイさんに選んでもらった防具もありますし、多分大丈夫だと思います」
一応、潜る時は遺跡ごとに危険度を調べて、ガチガチに固めていくので、なんとかなると思っている。
「むむむー。まあ、お兄さんがそう言うなら大丈夫だと思うけど……ん! お兄さん、ちなみに聞くけど、どのくらい北方にはいる予定なの?」
分からない。一応目標的には冬ごもりできるようにある程度資金を稼ぐことだ――なので、数日から数週間といったところだろうか。長くて二か月くらいか……? ただ、俺の『感覚』はまだ分からないこともあるだろうし、確定的なことは言えないな。
「それが、まだ決まってなくて。状況次第ですね。数日で諦めるかもしれないですし、一か月以上かかるかもしれないですし」
「ちょいちょい、お兄さん、お兄さん。朝の礼拝はどうするのー? 今更止めるなんてできないよー」
え。駄目なの?
「えっと、まあ、一旦休止と言いますか……それにスイさんも最近は、初めて礼拝した時よりも眠そうではないですし、これを気に一旦、朝の礼拝が無い状態というのを経験してみるのも、どうでしょうか?」
「聖導師に朝の礼拝をサボらせようとするなんてー、お兄さんもなかなかのワルだねー」
……? ツッコミ待ちか……?
「えっと、とりあえず、ルティナさんが今ここにいなくてよかったです」
「そうだねー。もしルティナがいたら、悪いお兄さんは床に正座させられて、長々とお説教をされることになってたよー」
悪びれることなくスイは言葉を口にした。
「……? 悪いのは自分なんですか?」
たぶんルティナが聞いたら、正座させられるのはスイだろう。あ、いや、俺とスイの両方かもしれない。
「そうだよー、お兄さんは聖導師に礼拝を捨てよ! なんて言ったんだからねー。時代が時代なら異端審問だったよー。教会の地下室に連れてかれたよー。そうでなくても他の聖導師だったら、お兄さんにお仕置きしてたよー。今、お兄さんの目の前にいるのが、優しい優しいスイちゃんで良かったね」
スイは怖い事を口にしながらも、両手を彼女自身の胸に当てた。よく分からないが、たぶん優しいアピールのつもりだろう。話の内容からしてあまり優しい感じはしないが……
「いえ、礼拝を捨てよとまでは言ってないですよ。まあ、雑談はなくてもやっていけるんじゃないですか。スイさんなら」
「ぶーぶー、話のすり替えだー、悪いのはお兄さんだー、責任を取って話相手を続けろー」
「ええっと、話を戻しますが……まあ、朝の礼拝はスイさん一人か、またはこれを機に『ティリア礼拝堂』の方でやってもらっても良いかもしれませんね。ユリアさんもきっとスイさんがあちらの礼拝堂で参加するようになったら喜びますよ」
とりあえず、俺がいなくなった場合の利点を説くことにする。
「それはできない相談だよー、お兄さん」
が、スイには通じなかった。どれだけサボりたいのやら……まあ、色々と事情があるかもしれないので、その辺は深くは追及しないけれど。
「なるほど? まあ、朝の礼拝はスイさん一人でということで」
とはいうものの、俺もリデッサス遺跡街に行きたいので主張をゴリ押しする。
「えー。そんなの無理だよー。眠くなっちゃうよー。それに今、お兄さんが抜けたらユリアやルティナ、それに司祭様が口うるさくなっちゃうよー。お兄さんはちゃんと責任を取って、私がクリスクにいる間はしっかり話相手をしてもらわないと。これは、お兄さんの義務だよー」
「え、いや、義務だったんですか?」
「そうだよー、義務だよー。まあ、スイちゃんは優しいので、数日のサボリは許しちゃいます。だから、どーしても観光に行きたかったら、リデッサスに行っても良いよー。でも長期の抜けはダメです! スイちゃんは認めませんよー」
いや、認めないって……
「そこをなんとか。一応、まあ、リデッサスである程度活動したらクリスクに戻るつもりなので、その後、再開という形ではダメですか?」
「ダメだよー、お兄さん。お兄さんがいなくなったら誰がスイちゃんにのんびりとわくわくを提供するのー? お兄さんみたいな立場の人は中々いないし、絶対退屈だよー。眠くなるよー。それにユリアたちが面倒だよー」
スイが次々と俺の必需性を説いた。なんとなくだが、最後のが一番気持ちが入っていた気がする。そこまでユリア達の攻勢が嫌なのか。諦めて真面目な方の礼拝に参加すれば良い気もするが……
「まあ、そこはなんとか頑張っていただく感じで」
「やだよー。私は、のんびりしたいよー」
その気持ちは分からなくも無いが……
「それは、まあ、なんというか……あ、でも、自分が来る前はどんな風にやってたんですか?」
「んー、そだね。一人で黙々と祈りを捧げてたよー。前にも言ったかもだけど、スイちゃんくらい信心深い聖導師になると、あんまり人目につくのはダメだからね~」
信心深い……? いや、よそう。信仰の定義は人それぞれだ。
「なるほど? まあ、それでしたら、その時と同じような形でやっていけばいいんじゃないでしょうか?」
「いやいやー。それだと眠いままだよー。一日を目覚めよく健やかに過ごすには、もうお兄さんとのお話が必要不可欠だよー。責任とってよー」
そう言いながら、スイはこちらに体を寄せ、しなだれてきた。特有の甘い匂いが漂ってきたような気がした。
「責任……うーん……」
その責任は俺には無さそうなんだよな……
ただ、何と言うか、少し思考が……
「お兄さん、お兄さん、スイちゃんと一緒に礼拝を続けて下さい……! ちゃんと礼拝を続けないとスイちゃんは『闇堕ちスイちゃん』になってしまいます……!」
悩む俺に対して、スイは深刻そうな表情で、けれどもどこかふざけた口調だ。
いつもならそこまで気にしないが、今は体の距離がだいぶ近いので、少し気になってしまう。
「うーん。でもリデッサスには行ってみたいので……」
気になる心を抑えて適当な言葉を口にする。
俺がふざけたスイに反応しなかったためか、彼女は少しだけ頬を膨らませてた。
「そんなに行きたいの? お兄さん」
「結構行きたいです」
「お兄さんがリデッサスで遊んでる間に、スイちゃんは一人寂しくお祈りをすることになるんだよー。本当にいいのー?」
こちらの肩にしなだれながら、スイが言葉を発する。距離が近いからか無駄に心臓が高鳴ってしまう。
「『ティリア礼拝堂』の方を使えば少なくとも一人ではなくなりますが……」
体の強張りを抑えながらも声を作り、スイの要望に対して遠回りな拒否を示す。
そして俺の拒否の言葉を聞くと、こちらにしなだれていたスイは一度長椅子から立ち上がり、座っている俺の正面に立つ。膝と膝がぶつかりそうになる距離だ。
「むー。割とスイちゃんに甘いはずのお兄さんが、頼みを聞いてくれないなんて……! お兄さん。スイちゃんとのお話と、リデッサス、どっちが大事なの……!?」
至近距離でスイが問い詰めてきた。スイの美しい顔が目の前にある。緊張してしまうが、冷静に自分を保つように努力する。そうすることで、目の前の状況に左右されずに、より良い結論を出せるような気がする。
うん、よし……どちらが大事と言われたら、リデッサス遺跡街かな……? 『感覚』に関係してくるし。まあ、スイとの繋がりも大事と言えば大事だが、それは別に雑談を常にするというわけではない。それに、まさか恒久的に朝の時間をスイだけに割くわけには行かないのだし、適度に距離を置くことも偶には必要だと思う。
「ええっと、スイさんの事は、その、色々と親切にしてもらっているので、とても大事な縁だと思っていますよ。ただ、やはり探索者だからでしょうか。行ったことのない遺跡というのには興味があります。どちらが、上というわけではないですが、今はリデッサスに行きたい、という気持ちが強いですね」
いつも通り、嘘を言わないように言葉を作れたと思う。
「お兄さんがクリスクを離れたら、もしかしたら、ユリアがスイちゃんを無理やり『ティリア礼拝堂』に連れて行くかもしれないんだよ。もしそうなったら、お兄さんがクリスクに帰って来ても、楽しくお話できなくなっちゃうんだよー。本当に、本当にいいのー? お兄さんは寂しくないのー?」
もしそうなったら……少し残念に思う気持ちもあるが、たぶんユリアの方が正しいので、しょうがないことだと思うだろう。
「まあ、その時は、諦めるしかない、かもしれませんね」
俺の対応に対して、スイは「むむむ」と唸り声を上げ始めた。表情も少し怒っているように見える。
「むむむむー。友達であるスイちゃんではなく、みだりのユリアを選ぶなんて―。さては買収されたなー、お兄さん。言えー、いくらユリアから貰ったんだー、吐けー」
スイは両方の人差し指で俺の両頬をそれぞれ突きながら、尋問してきた。まさかの実力行使だ。
「貰ってないですよ。というか、なんか最近、ルティナさんにもこんなことされたような……」
まあ、ルティナは実力行使はしてこなかったけれど。
「ああー。あれか~。凄かったよ~。ルティナが凄い形相で部屋に入って来てさー。ユリアが壊したドアがまた壊れるところだったよー」
そう言いながら、スイは俺の頬が気に入ったのか、人差し指で突き続けた。俺は両手でスイの手を掴み止めさせようとするが、力の差から無駄に終わる。相変わらずの超人パワーだ。
「とりあえず、ユリアさんからは何も貰ってないです。あと、頬を突かないで下さい」
俺の頼みの言葉を吐くと、スイは邪悪な笑みを浮かべた、彼女がよく浮かべる可愛いけど悪く見える表情だ。怒ったり笑ったり表情がコロコロ変わっていく。
「ふっふっふ。『リデッサスには行きません。スイちゃんの話し相手を続けます』って言ったら止めてあげよー。言わなきゃ拷問は継続だよー」
そう言いながらスイは楽しそうに俺の頬を突きまくる。加減されているので、特に痛くは無いが、あんまり長時間されると、頬がたるみそうだ。
「心優しき聖導師様が拷問とかしてたら不味いですよ。あと、なんか頬がたるんできそうなので、このくらいで許して下さい」
頬をたるみから守る為、スイの立場と良心に訴えてみる。
「ダメですー赦しませんー。それに聖導師は神罰の代行者だから、不味くないよー。悪魔憑きとか相手には拷問もやってるからね~、お兄さん。あと加減してるから頬は大丈夫だよ。それに、もし頬が変になっても『癒し』で治してあげるよー」
治せれば壊していいのか……?
頬を突かれながらも思わず思考を回してしまう。
「ほらほら、お兄さん。言わないと、頬がたるんじゃうぞー」
脅しかけて来るスイに対して、こちらも両手の力を強めて抵抗するが、びくともしない。
「あの。ユリアさんからお金貰ったってことにしたら、とりあえず、止めてもらえますか?」
スイの最初の要求であるユリアにいくら貰ったかについて供述してみる。いや、貰ってないけど。
「ダメです! もうそっちの証言は締め切りです。今は『スイちゃんの話し相手を続けます』以外は受け付けてないよ~」
「じゃあ、スイさんとの話し相手を続けます」
あと数日くらいは……と内心思いながら言葉を吐き出す。俺の言葉を聞くと、スイは直ぐに頬を突くのを止めた。そして、今までのような悪戯気な笑みではなく、純粋に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ほほおー。ようやく説得が上手くいって嬉しいよ~、お兄さん。また明日から私の話相手をちゃーんと務めるんだよー」
俺は両手で頬をがっちりと守り、少し間を置いてから、考えていた言葉を放った。
「まあ、とりあえず、今日明日に出発するということではないので、明日からも数日くらいはご一緒できると思いますよ」
俺の言葉に対して、スイは素早く、そして器用に俺の両膝に乗りかってきた。確かな暖かさと重みが膝から股にかけてまで広がった。密着したためか、先ほどよりも強く甘い香りを感じた。
「ぶーぶー、お兄さんが嘘吐いたー。さっき私の話し相手になるって言ったのにー」
脚部に跨りながらスイが抗議の声上げた。さらに彼女は両方の人差し指で今度は俺の頬を守っている両手の甲を突っついてきた。
「まあ、リデッサスに行こうと思っているので、とりあえずは朝のお話は一旦中止ということで。あ、あと嘘ではないです。あと数日くらいはスイさんの話し相手はできると思いますが……」
頬を守りながらも、同じ主張を繰り返した。正直、こんなに難航するとは思わなかった。スイのことだから、特に気にせず送り出してくれると思ったが……思ったより気に入られていたのだろうか? まあ、どちらかというと、ユリアとスイの複雑な関係性の方が理由として大きい気もするが。
「ダメです! 認めませーん。お兄さんはスイちゃんの話し相手を辞めるなんて、ダメです……!」
可愛らしく頬を膨らませたスイが俺の膝の上に乗りながら、猛烈に抗議してくる。
「いや、でも……そこをなんとか。今後の為にも一度行っておきたいので」
少し、いやかなり困る態勢なため、彼女を俺の膝から移動させるための言葉を作る。
「今後の為~?」
スイがこちらを訝しむように陰のある視線を送ってきた。