三章41話 ユリアさえ、いなければ……!
屋敷に戻って少しすると、リーシアが帰って来た。どうやら朝から工房の方へ行っていたようだ。リーシアはどこかほのぼのとした空気を纏いながら、いつもの暖炉がある広間でうさぎと触れ合っている。時折、ぼんやりとした表情で彼女が話しかけてくれるが、どうにもこれからのこと――リーシアたちとのお別れのことが頭に過ってしまい、会話に集中することができなかった。
このままでは良くないと考え、俺は切り出すことにした。
「リーシア。その、ちょっといいかな……話したいことがあるんだ」
「うん……いいわよ、ロラン……どうしたの……?」
「ああ、うん、その、ちょっと大事な話でね……」
「大事な話なの……?」
リーシアは俺の態度から何かを読み取ったのか不安そうな顔をした。
「そうなんだ。実は、そろそろ、テチュカの街を出ようと思ってるんだ。ほら、最近、雪が止んで、交通も良くなったみたいだから……」
勇気を持って切り出した。
リーシアは、ぼんやりとしたまま首を傾げた。数秒ほどして、彼女は何かを理解するような顔になり――
「え……?」
――驚愕の表情で俺を見た。
「う、うん」
俺はとりあえず頷いた。
「……どうして……? そんな、突然よね……」
「う、うん。その、実は前々から、旅を続ける必要があると思ってて、雪が止んだのはいい機会だと思ってね……」
「で、でも……その、そしたら、私たち、離れ離れになっちゃうのよね……?」
「そうなるね……」
「――嫌よ」
リーシアの鋭い声が俺に突き刺さった。驚く俺を見て、リーシアも自身の声に驚いたのか、再びあわあわとしながら、言葉を続けた。
「……まだロランと一緒にいたいわ……この家でずっとほのぼの暮らしましょう……いいでしょ……?」
「それは、その……俺も、できれば、そうしたいけど……」
「だったら……いいでしょ……」
リーシアが懇願するように俺を見た。すまない。
「ごめん。本当にごめん。どうしても、俺は旅を続けないといけない。今まで言っていなかったけど、俺には旅をしなければいけない理由があるんだ。そして、もうテチュカを出る時なんだと思う。これ以上はいられないんだ……」
俺が言葉を進めるたびに、どんどんとリーシアの顔色は悪くなっていった。深い絶望と苦痛に苛まれるかのようだった。リーシアの苦しむ顔を見ると、俺まで苦しくなってきた。ユリアさえ、いなければ……!
「……どうしても、だめなの……? 私、まだ、ロランと一緒にいたいわ……」
「本当にごめん。どうしてもダメなんだ……」
「……どうしてもだめなのね…………あ、……旅、……私も……?」
そう呟くと、リーシアはぼんやりと虚空を見つめた。そして、絶望の中から僅かに希望を見つけたような顔になった。
「ロラン、いつ行くの? そんなにすぐじゃなくて大丈夫よね……? 冬が明けてからはどうかしら……? 春は暖かくていいわよ……ほのぼのする季節よ……旅日和よね……」
「いや、リーシア、その言いにくいんだが、明日か、明後日には出ようと思う。冬が明ける前に旅に出たいんだ」
「――そんな」
俺の言葉を聞き、光の希望のさなかにあったリーシアは再び深い絶望の闇へと堕ちていった。
「ごめん……」
「明日……明後日……? 早すぎるわ……そんな、それは無理よ……どうして……? 春でもいいじゃない……?」
「その、春は遠すぎて……早くテチュカを出たいんだ」
「なんで……?」
ユリアが来るからだが、それは流石に言えない。
「早く旅がしたくて……」
「今は凄く寒いのよ……? 暖かくなってからの方がいいと思うわ……それに、冬が明ければ……私だってっ……!]
リーシアが懸命な顔でこっちを見た。
「リーシア……?」
「ロラン、あのね、待ってほしいの……ロランが旅をしたいなら、それでいいと思うの……でも、待ってほしいの。冬が明けるまで……春になれば、私もこの街を出れるからっ……! 私もロランと一緒に行きたいのっ……! お願いっ……! 春まで待ってっ……!」
一生懸命に、リーシアとしては有り得ない程に、はっきりと、強い言葉でリーシアはたたみかけた。
強い想い――彼女が俺に抱く強い熱量を持った恋心が深く深く籠っていた。雪のような少女が持つ、その巨大な恋の熱量は、万物を溶かしてしまほどの大きかった。
「リーシア……本当にごめん。春までは、待てないんだ……俺も、本当は、リーシアと旅をできればと、そんな風に思っていた。危険な旅になるかもしれないが、それでも君を誘いたい気持ちはあった。でもやはり危険だし、何より、冬のうちに出発しなくてはいけないんだ。本当にすまない、リーシア」
「危険な旅……? 大丈夫よ、私、ロランと一緒なら危険じゃないわ。どんな危険な旅でもロランと一緒にいるなら、怖くないもの……」
「そう言ってくれるのは凄く嬉しいけど、俺はリーシアにずっと幸せでいてほしいし、何より冬のうちに、明日か明後日までにはテチュカを出ないといけないんだ。ただ、もし――」
リーシアとの別れの言葉を口にしていたはずなのに、気づけば俺は意味の分からない言葉を口にしていた。
「――ただ、もし、リーシアが明後日までに、一緒に来れるなら、一緒に行こう。凄く危険な旅になるかもしれないが、それでもできる限り君が不幸にならないような選択にしよう。もし、君に明後日までにテチュカの街を出ることができるならば、一緒に行こう」
そして、そのまま、頭がふらふらと、口もふわふわとよく分からない言葉を口にしてしまった。
言ってしまってから思う。
自分は何を言っているのだろうと。
いや、頭では分かっているのだ。リーシアを誘うべきではないと。だって、危険な旅だ。もしユリアが追いかけてきているならば、俺は推定悪魔憑きとして捕まるか、最悪の場合死ぬ。近くに親しい人がいれば、その人も酷い目にあうかもしれない。リーシアを俺の近くに置くべきではない。でも、それでも、俺の事を好きと言ってくれた少女を、こんなにも懸命な少女を置いていけないという思いが俺の中にあったんだろう。
だからか、変な言葉を口にしてしまった。
リーシアは必死に言葉を作るように口を動かしていたが、声は出ていなかった。必死に口を動かし、何か言葉を作ろうとしては、けれど声は出ずに、無言のまま十数秒が経ち、そして、ついに言葉を声に乗せた。
「……行きたいわ。私も、ロランと一緒に行きたいわ……、でも、テチュカでは仕事があって……その、もう少しだけ待ってほしいの……あと少しで終わると思うの……冬が明けるまでには……」
絶望と希望の間にいるリーシアが懇願するように、こちらを見た。彼女を、絶望から救い出し希望へと導きたいと思った。たとえ、それが死に近づく道であったとしても……
けれど……
「ごめん。やっぱりだめだ。どうしても明後日には出発したい」
「そんな……」
そう呟くとリーシアは両手で顔を抑えて俯いた。嗚咽が漏れた。最初は小さかったそれが少しずつ大きくなる。
そのまま、俺はリーシアが泣いているのをただただ見守ることしかできなかった。
数分間ほど、泣き続けたリーシアは、震えながらも小さく口を開いた。
「ぅ……わ、分かったわ……う、ぅ……、悲しいけど……ぅう……ロランが決めた事、……だものね……」
「うん……その、本当にごめん、リーシア……」
「……いいのよ、ロラン……でも、明後日までの間、旅立つまで、……せめて、一緒にいて欲しいの……」
「分かった。もちろん、明後日まで、ずっと一緒にいよう」
「……ありがとう、ロラン」
リーシアは泣き顔のまま、それでも精一杯の喜びの気持ちの籠った笑みを俺に向けた。彼女の真の幸せを俺は奪ってしまった。リーシアは、そんな俺にも、このような顔を向けてくれる。彼女の善良さと、恋心の大きさをはっきりと強く感じる。それ故か、深くずっしりとした悲しみが俺にも伸し掛かった。ユリアさえ、来なければ……