三章40話 ピンクブロンドの髪のあの人
音楽会を楽しんだ後も、リーシア屋敷でのほのぼの日常は続いていた。屋敷の中では、心地よい静けさと温もりが漂い、時間がゆったりと流れていった。暖炉の火が部屋を温め、三人でソファに腰を下ろしてまったりとした時間を過ごす。ボードゲームで笑い合い、読書に没頭し、面白い部分を共有しては会話が弾む。料理の香りが漂い、美味しい食事を楽しみながら、昔話や最近の出来事について語り合う。
そんな風に、この穏やかなひとときは、特別な宝物のような時間だ。屋敷で過ごすこの日々は、安らぎと幸せに満ちていた。
――だが幸せというのは、いつまでも続かない。
まったりと過ごしている間に、テチュカに降り積もった雪は少しずつ消えていった。寒さは相変わらずだが、それでも雪は溶けていく。
それはつまり、テチュカ近郊における交通網が回復しつつあるということでもあった。
そう、ついにテチュカに入ってからの悩みであった交通網が回復するのだ。よって、俺はその気になれば、テチュカから離れることができる。
俺は大いに悩んだ。
本来のヒストガ横断計画からすれば、交通網が回復したならば、すぐにでも出発するべきだ。
だが……まあ、何と言うか、リーシアやルミと別れることを惜しんだのだ。彼女たちとほのぼの日常を謳歌するのはとても心地が良い。だから、出発しにくいと思ったのだ。実際、ユリアが追いかけてきているかなど分からない。全部俺の妄想で、別にユリアは追いかけてきていないかもしれないのだ。もしそうならば、動くのは損だ。
しかし、ユリアが追いかけてきている可能性も十分あるわけでは、もしそうならば、動くべきだろう。だが、しかし……今まで、ユリアどころか聖導師の噂すらない。この街は平和すぎる。
これで、聖導師の噂一つでも聞いたのならば動く決心がつくものだが……ああ、いや、勿論、聖導師の噂など聞きたくもないし、聞かないのが理想ではあるのだが……うーむ。
一応、テチュカを出る準備はしておこう。何かあった時にすぐ旅立てるように……ただ、そうだな、もし何事も無ければ、この冬が終わり春になるまではテチュカにいてもいいかもしれないな。
俺はそんな風に問題を――いつか来てしまうであろう、リーシアとの別れを先送りにするのだった。
※
そうして、ほのぼのしたり、悩んだりする日々を過ごしたある日のことであった。
その日は朝からリーシアがどこかへ行ってしまい、ルミも買い出しに出かけるとのことだった。ルミの手伝いになれればと思い、彼女と共に街へと向かったのだ。なお、ルミには、屋敷でほのぼのして欲しいと言われたが、流石に、ルミにお世話になりすぎなので、少しでも何か返したいと駄々をこねた結果、随伴する栄誉を授かることができた。
何となくルミを手伝っている雰囲気を出しつつ、彼女とともに行動をしているとき、不吉な言葉が街中を賑やかにしていた。
曰く、
――カテナ教の聖導師がこのテチュカの街にやってくる、とのことだ。
それを聞いた時、俺はすぐにユリアだと思った。そして、同時に不味いと思った。のんびりしている場合じゃないと。すぐに脱出しなくては……! と、そこまで思い至ったあたりで、いや、本当にユリアか? とも考えた。もしユリアじゃなければ、変に動くのはよくないのではとも思う。いや、いや、いや、仮にユリアでなくとも聖導師は危険だし避けるべきか。
「あ、あの、ロランさん、大丈夫ですか?」
悩んでいるとルミが声をかけてきた。彼女は心配そうにこちらを見ている。しまった、ちょっと険しい顔になっていたかもしれない。
「ああ、いや、うん、大丈夫だよ。ごめん、なんか、ぼーっとしてた……」
「そ、そうですか? それならいいんですけど、……でも何か大変だったら、一旦屋敷に戻りますか? なんか、その~、今はちょっと街がざわついちゃってますし……」
気遣うようにルミが言葉を選んだ。彼女は俺がカテナ教を苦手としているのを知っている。それ故だろう。
しまった。手伝いに来たつもりが、気遣わせしまったな。
「いや、大丈夫だよ。ごめんごめん。えっと、次はどのお店だったっけ?」
ルミに手間をかけさせるわけにもいかないし、それに、このまま街を回った方が情報も手に入るだろう。街回り続行だ……!
「えっと、ライゼハンデ商会です……! ここで買ってくるようにって、リーシア様が言ってました」
おや、ライゼハンデ商会か。この商会は俺がテチュカに入ることになった馬車を運用している商会であり、またテチュカに来た時に大変親切にしてくれた商会だ。個人的には好感度が高いが……うーん、なぜリーシアが……?
もしかして、以前、俺がライゼハンデ商会を褒めたことを覚えていたとかだろうか……? いや、それは流石に自意識過剰か? 単純に良い物を売っているのかもしれないな。
「ああ、ライゼハンデ商会ね。あそこは商会の人が親切でいいよね。いこっか」
「はいっ! 行きましょう!」
それからルミと二人で少しだけ雑談しながらもライゼハンデ商会へと向かった。
しかし、ライゼハンデ商会は以前俺が来た時は別物になってしまっていた。
商会の建物には大きな横断幕が掲げられており、そこには『ミハウ様御用達商会:ライゼハンデ商会』『聖導師様来訪大歓迎』などと書かれていたのだ。前者はいい。後者が問題だ。
歓迎してはいけない……というか、どういことだ。カテナ教と仲が良い店だったのか……少しショックなんだが……ああ、いや、親切な商会だったし、宗教的な面があってもおかしくはないか……? んーでも、なんか急じゃないか? それなら俺が以前来た時や、普段からもっとカテナ教アピールしても良いと思うんだが……? もしかして、聖導師が来るって聞いてたから急に聖導師アピールしてるだけか……? というか、この商会に近づくにつれて聖導師が来るという声が大きくなっている気がする。噂の発生源はここだったり? ん? だとすると……うーん? 駄目だ、よく分からない。
よく分からないが、周りの声は聖導師が来ることに対する歓迎の声だ。聖導師は来てくれると病気とか怪我とか無料で治してくれるらしい。へー、いい人だなぁと歓迎できればどんなに幸せだっただろうか。
「え、ええっと、とりあえず、入っちゃいますかっ!」
どんよりとしていた俺にルミが明るく声をかけてきてくれた。たぶんカテナ教を苦手としている俺に配慮してくれたのだろう。優しい。
「……そうだね」
俺はルミと一緒に人ごみを掻き分け混雑する商会へと入っていく。あたりの話声や商会員さんの演説が耳の中へ入ってくる。
――聖導師様がまもなくいらっしゃる!
――ミハウ様が記念としてパンとスープを振る舞われる。
――当商会も筆頭お抱え商人に抜擢された栄誉を祝して、来たる日の祝宴祭で酒を無償で振る舞う。
――聖導師様がご愛好される紅茶を新しく入荷した。
最後のやつ、聞き捨てならないんだが。
なぜなら、ユリアは紅茶を好いているからだ。そして、さらに恐ろしい話が聞こえて来た。
――偉大な聖導師様を模したぬいぐるみが出回っているとのことだ。しかもそのぬいぐるみは、随分変わった色合いらしい。
俺は『変わった色合い』というところに強い恐怖を覚えた。
すぐに辺りを見回した。そして、ぬいぐるみを持っている人を見つけた。その人が持っているぬいぐるみを俺はまじまじと見つめた。
ぬいぐるみはどう見てもユリアだった。デフォルメされているが、ユリアの特徴をだいぶ捉えていた。聖導師が来ている黒いローブ風の服にピンクブロンドの髪。あえて違う点を挙げるとすれば、目つきが剣呑としていて、なんだか睨んでいるように見えるところだろう。本物のユリアはもっと穏やかで優しそうな感じだ。なのでその辺りは偽物感がある。
しかし、ピンクブロンドの髪というのが、ユリア以外で見たことがないので、ぬいぐるみの髪がピンクの時点でユリアの可能性が非常に高いだろう。そしてこの状況で出回るぬいぐるみ。どう考えてもユリアがここに向かっているのだ……! 怖い……!
俺は、ごくりと唾を呑んだ。その音は思った以上に大きかった。いや、違う、音は二つ聞こえた。俺は隣にいるルミを見た。彼女もユリアぬいぐるみを見て険しい顔をしていた。
ん……? ああ、いや、そういうことか。俺が苦手としている聖導師――そのデフォルメぬいぐるみを見たから、共感性や仲間意識が強いルミも険しい顔になったのだろう。ルミはいつも俺やリーシアに配慮してくれているし納得だ。何とも優しく献身的な少女である。
しかし、困ったな。いや、困るも何もないか。兎に角この街から逃げ出さねばならない。ユリアが来るならば、目的は俺のはずだ。いや、まあ極々僅かな可能性として、『ユリアは俺の事を特に気にしてはいないけれど、それとは関係なくテチュカの街に用がある』というケースも有り得なくはないが……まあ、そこは考慮しなくていいだろう。つまり逃げなければいけない。
準備の方はそこまで問題ない。馬車だけは確保しなくてはならないが、それくらいだろう。むしろ……気持ちの方が問題だ。リーシアやルミとお別れすることになってしまうのだから。