三章幕間 リュドミラとうさぎ
ユリアとルティナが楽しく料理をしている時とほぼ同時刻。
ヒストガ王国のヴィアダクタの街から少し離れた森にて。
街から少し離れた森は、深い雪に静かに覆われていた。人の気配はなく、木々は一面白銀の静寂に包まれ、その枝には重々しく雪が積もり、時折風に揺れてかすかな音を立てていた。
森の奥深く、木々の間を縫うようにして一人の美しい少女が静かに歩いていた。彼女の姿は、あたり一面の白い景色の中で不思議と際立っていた。長い髪は月光のように銀色に輝き、風にふわりと揺れている。どこか人間離れした美しさを持つその姿は、見る者に神秘的な印象を与え、彼女の存在がこの森の中に突然現れた幻のように思えるほどだった。
しかし、彼女が一歩踏み出すたびに、森の中の小動物たちは緊張したかのようにざわめき始めた。雪の上を軽やかに踏みしめる彼女の足音が響くと、近くに潜んでいた栗鼠が急に動き出し、木々の上へと駆け上がっていく。茂みの中でじっとしていた小さな兎も、彼女の足音に気づくと、慌てて雪の中に跳び込み、白い毛並みが一瞬だけ揺れたかと思うと、あっという間に視界から消えていった。
少女が進むたびに、まるで森全体が反応しているかのようだった。小鳥たちは一斉に羽ばたき、木々の上へと逃げ、雪に隠れていた鼠たちも、その気配を感じ取って我先にと地下へと潜り込むように姿を消していく。森の静けさは徐々に破られ、少女が歩くたびに命のざわめきが瞬く間に遠ざかる。その動物たちが逃げ去る様子には、ただ単に人間に対する恐れだけではない、何か底知れぬナニカが漂っていた。
少女の周囲には、どこか冷たい静寂が広がり、まるで自然の一部でありながら、その中心には立ち入ることを許さない存在であるかのように見えた。彼女の美しさが、人を魅了する一方で、何か異質で恐ろしい力を秘めているかのように、森の中にいるすべての生き物は本能的に彼女を避けようとしていた。
その美しい少女、いや絶世の美少女――リュドミラは逃げ狂う小動物たちを見て小さく微笑んだ。
小動物たちはリュドミラの笑みを見て、さらに怯え逃げる勢いを増していった。
けれど、そんな中で、僅かながら鈍い個体がいた。
ある小さな白い兎はリュドミラから逃げ遅れた。周りの小動物たちが逃げているのを少し遅れてから気付き、慌てて逃げ出した。リュドミラは、その愚鈍な白い兎を微笑みながら見守った。
その時、不思議なことが起こった。
リュドミラから逃げるように駆けていた愚鈍な兎が急に何かにぶつかったのだ。先程まで何もなかった場所。そこに急に人影が現れて、兎がぶつかってしまったのだ。
衝撃から白い兎は、ぐるぐると目を回した。その隙に、柔らかな両手が兎を包んだ。
兎は目を回しながらも、慌てて逃げ出そうとしたが、両手が兎を抑え込んだ。
両手の持ち主――フード付きの外套を深く被った人物は、兎を抑えたまま、ゆっくりとリュドミラの方に近づいた。外套から漏れ出る銀色の髪が、美しく輝いた。
リュドミラは外套の人物に微笑み両手を伸ばした。
フードを深く被っているため、顔は見えない。けれど、その人物はゆっくりとリュドミラに近づくと、抑えていた兎を、丁寧にリュドミラに差し出した。
小さな兎が外套の人物からリュドミラへと渡された。
リュドミラは手の中の兎を見て柔らかく微笑んだ。兎は恐怖に体を震わせた。
「ふふっ……偶には、小動物と触れ合うのもよいものですね。導師ユリアも小動物で愉しんでいたようですし……愛くるしい小さなふわふわ、こういったモノを好きになるのが、やはり巷の少女のあり方なのでしょうか」
リュドミラが急に語り出した。それは独り言のようにも、目の前にいる外套の人物に話しかけているようにも見えるものだった。
外套の人物は、無言でリュドミラの言葉を聞いていた。
目の前の人物から返事は来ずとも、リュドミラは言葉を続ける。
「――私はどちらかというと、潰したくなる性ですが」
そう言ってリュドミラの手に力が入った。僅かな圧迫を感じ兎は、懇願するようにリュドミラを見た。リュドミラは兎に微笑むと、手に込める力を緩め、ゆっくりと優しく丁寧に兎を撫で始めた。
暴力的なモノが慈悲的なモノに変わり、兎は戸惑った。
それらの様子を外套の人物はただただ無言で見守った。
「導師ユリアと遊ぶのも、従士ルティナで遊ぶのも、どちらも楽しいものです。小動物を潰したり撫でたりするよりも、楽しい気がします。やはり私は真面目な人物が好きなのかもしれませんね。カイ様を気に入っているのもそれが理由の一つかもしれません。ですから、今の状況は少し悩ましいです」
独り言のように、相談のように、リュドミラは喋り続ける。そして喋りながらも優しい手つきで手の中の兎を撫で続ける。兎は恐怖で体を震わす。
目の前の外套の人物はただただ無言でそれを聞き続ける。
「カイ様がいらっしゃるテチュカに置いていた『見張り』が消されました。私の『見張り』を倒すとは、相当の手練れです。カイ様がお持ちの悪魔の術でしょうか? それとも協力者がいるのでしょうか? どう思われますか?」
リュドミラは、既に藤ヶ崎戒の居場所を掴んでいた。しかし、その重要な情報をユリアをはじめフェムトホープのメンバーには共有していなかった。
「…………」
外套の人物は、リュドミラに問いかけられても無言を貫いた。けれど、リュドミラは、
「やはり協力者ですが……劣化したとはいえ『見張り』を一撃で、知覚する間もなく消したのは見事。上位の聖導師と同じ程度の力量はあるでしょう。もしかしたら、僅かに聖女の足元程度には届くかもしれませんね。どちらにしろ、導師ユリアには厳しい相手でしょう。導師ユリアに死んでほしくはありませんし、私が始末するべきなのですが……」
まるで、外套の人物が何かを答えたかのように話を続けた。勿論、手の中の兎を優しく撫でるのも忘れない。兎は溶けることなく、ただただ恐怖で体を強張らせていた。
「…………」
「おや? 私が導師ユリアを心配するのが意外ですか? 驚くかもしれませんが、私は導師ユリアを気に入っています。真面目で健気で、慈悲深く、けれど、どこか残虐な面を持っている。容赦なく弱者を踏みにじれる。そういった導師ユリアに興味を持っています。いえ、もっと言うと、端的に好きです。友人になりたいと思っているんです。なぜだか、嫌われてしまっていますが……」
「…………」
「導師ユリアにカイ様の居場所を教えない理由ですか? そんなことをしたら、カイ様が捕まってしまいます。カイ様のことはいずれ捕まえますが、それは今ではありません。もう少しカイ様を泳がした方が、きっともっと面白いことが起こります。かの偉大な使徒様と再会できるかもしれませんしね。ふふっ……」
「…………」
「ええ。しばらくは、ここで交通網が回復しない理由を盾に、導師ユリアと一緒に従士ルティナで遊ぼうかと思います。勿論、並行して、追加の『見張り』をテチュカの周囲に送ります。テチュカには入らずにその外周を監視させます。カイ様がテチュカを出てくれば、後をつけ、今まで通り監視を続けましょう。もし出てこなければ……その時次第ですが、私が直接テチュカに入り協力者を倒す、ということもあるかもしれませんね」
「…………」
「心配はいりません。『見張り』を倒した程度では私には及ばないでしょう。ふふっ……むしろ協力者をどう処するかの方が悩ましいです。その協力者はカイ様とどんな関係なのでしょうか? 友人なのでしょうか? それともただの傭兵なのでしょうか? カイ様の前で協力者の首を刎ねたら、カイ様はどんな風に反応するのでしょうか? 悩ましい限りです」
リュドミラはそう言って微笑んだ。
ふと小さな風が流れた。リュドミラの銀色の髪と、外套の人物のフードから漏れ出る銀色の髪が揺らいだ。二種類の髪は、全く同じ色の輝きを放っていた。
「そろそろ、戻ります。導師ユリアたちの休憩も十分でしょうから」
そう言うと、リュドミラは兎を外套の人物に返した。兎はずっとリュドミラに撫でられていたが、最後まで気を許すことなく、溶けることはなかった。ただただ恐怖だけが兎を支配していたのだ。
そんな兎の様子を満足気に見たリュドミラは、外套の人物に背を向けて仮拠点があるヴィアダクタ街へと向かったのだった。
去り行くリュドミラの背中を見ながら、外套の人物は無言で兎を解放した。
兎は一目散に逃げ去った。その背中を、外套の人物の瞳――紫色の瞳がじっと見つめていた。




