三章幕間 あの頃の思い出
これは、まだ藤ヶ崎戒がクリスク遺跡街にいたときの話だ。
その日も、スイの朝の雑談に呼び出された戒は、彼女のためにクリスク聖堂のヘルミーネ礼拝堂へ訪れていた。
礼拝堂の中で二人はいつものように雑談を繰り返した。
ただ、この日は、いつもと少しだけ違うことがあった。それは、スイがいつも以上に眠たそうにしていたのだ。スイは朧気な頭を回しながら、『とりあえずお兄さんのせいということにして、お兄さんの膝の寝心地を検証しよう』と考えた。
さっそくスイは行動に映った。
「お兄さん、お兄さん。今日のお話は面白味に欠けるよ~。これは『がんばり』が足りないんじゃないのかねー。『がんばり』が、ばんばん」
『ばんばん』という言葉に合わせて、スイが戒の膝を叩いた。
「…………頑張り、ですか? ちょっと自分としてはまあまあ頑張ってるつもりなんですけど……スイさん判定的にはアウトですか?」
「うむー、だめだー。これは賠償を請求するー。ということで、お兄さんにお膝を接収します……! 膝枕っ! 膝枕っ!」
スイは流れるような動きで長椅子に座る戒の膝に抱き着いた。そしてそのまま、ごろんと体を転がし、長椅子に仰向けになり、自身の頭を戒の膝の上に乗せた。
「うむ……! 接収完了! 今日はもう鐘が鳴るまで、お兄さんはスイちゃんの枕係です……!」
「……え? この状態維持するんですか?」
「そうです……!」
「……うーん……まあ凄く嫌というわけではないんですが、でも――」
「――枕が喋っちゃダメ~」
戒が全て言い切る前に、スイが、カイの唇を突いた。
「では、スイちゃんはお休みに入ります~。鐘が鳴るまで枕よろしく~」
そう言うとスイは目を閉じてしまった。内心でおろおろする戒であったが、すぐにスイが気持ちよさそうに寝息を立てると、しょうがないかとばかりに諦め、小さく溜息を吐いた。
それから十数分後、戒が足の痺れを少し感じ始めたあたりで、クリスク聖堂の鐘が鳴った。朝の礼拝の終わりであり、それは戒とスイとの雑談の終わりを意味していた。
鐘が鳴ると、スイはその音で目を覚ました。スイは、ぱちくりと瞼を上下させた。そして、戒の方を不思議そうに数秒程眺めた。そうすると、何かに気付いたような顔になり、一度、戒へ向かって穏やかに微笑むと再び瞳を閉じた。そして、そのまま動かなくなった。
戒は、スイが自身の膝を解放する気配が無いことを感じ取った。
「あのー、スイさん。スイさん。鐘鳴りましたよ」
「…………」
スイは動かない。穏やかな表情で目を閉じている。
「……スイさん。スイさん?」
戒は試しにともう一度声をかけた。
「…………」
スイは動かない。穏やかな表情で目を閉じている。
「あの、ユリアさんとの約束があるので、今日はこれで。起きてもらう感じで良いですかね?」
「ぐーぐー、ぐーぐー。寝てるぞ~」
『ユリア』という言葉に反応したのか、スイは僅かに穏やかな表情を崩し、抗議の声を上げた。
「起きてるじゃないですか」
戒は少し呆れたような顔をした。
「ぐーぐ、ぐーぐー。これは寝言だー。ぐーぐー、すやすや、すやすや」
「いやいやいや。ちょっとそろそろ時間なので、これにて……」
戒は、スイの頭をどけようとした。しかし、それよりも早くスイの両手が動き、戒の動きを妨害する。
「すやすや、すやすや。寝かせろ~」
「いやいや、いやいや。起きて下さい」
戒は、絡みついてくるスイの両手を動かそうとするが、スイの束縛が強くぬけられなかった。
そうして十数秒ほど、戒とスイと取っ組み合いをしたところで、スイは目を開いた。
「むむむ~。気持ちよく寝ていたところを~。まったく。そんなにユリアのところに行きたいかね?」
スイは不満そうな目で戒を見た。戒は少し困ったような顔をした。
「行きたいと言うか、一応約束みたいな感じなので? いや、まあ厳密には約束では無いので、習慣と言った方が良いかもしれませんが」
「偶にはこのままスイちゃんとのんびり過ごすのはどうかね……どうかね。かね、かね」
スイはうきうきとした表情で提案を口にした。たまにはお兄さんとお昼寝でもしようかと思ったのだ。
「それはそれでまあ悪くは無いんですけど、それをするとすると事前にユリアさんに伝えておく必要があるような気がするので、いきなりと言うのはちょっと……」
「むむー。律儀な事を言いおって~」
「いや律儀というか……まあ、そんな感じなので、ここは一つ」
戒の困り顔を見て、スイは「うむむー」と不満げな唸り声を上げた。
「スイちゃんに構わずにユリアにばかり構いおって。まったく……! まったく……! もう眠気も覚めちゃったし行って良しだ。ほらっ、もうっ! お兄さんは行って良し。ユリアのところに行って良し!」
そう言って、ようやくスイは絡みつけた両手を戒から放した。
「えっと。どうも? じゃあ、これで……」
「明日もちゃんと朝の礼拝に来るのだぞ……!」
「ああ、はい」
「うむむ~」
明日の予約をしっかりとりつけたことに満足したスイは笑顔で藤ヶ崎戒が礼拝堂から出ていくのを見守ったのであった。
※
そして、また別の日、ヘルミーネ礼拝堂にて。
朝の雑談の最中、スイはこんなことを口にした。
「昨日ユリアがスイちゃんの安眠を妨害してきたよー、安眠妨害だよ~。ユリアは悪い奴だよー」
「何かあったんですか?」
「安眠妨害されました……! これはきっとユリアの陰謀ですっ! きっとスイちゃんがお兄さんと仲良くお話する朝の礼拝の時間を潰すのがユリアの目的ですっ……!」
「えっと……? どうして、ユリアさんに安眠妨害されると、朝の礼拝の時間が潰されるんですか?」
「スイちゃんが眠くなって、眠っちゃうからですっ……! これではお兄さんとお話しできません……!」
「……それは、……あの、たぶんですが、教会のルールを守って早く寝れば、全部解決するのでは?」
少し気まずそうに戒が言葉を口にした。スイは無言で、じっと戒を見た。プレッシャーをかける作戦であった。
戒もまた無言でスイを見つめ返した。戒はスイとは違いプレッシャーをかける気はなく、ただただスイやユリアの人間関係について、頭の中で考えを巡らせていたのだ。
数秒間の無言が続いた。何となく気まずくなってしまったスイは不満げな顔をした。
「今日はもう寝ます……!」
「え?」
困惑する戒をよそにスイは言葉を続ける。
「というわけで、お兄さん、枕」
そう言ってスイは長椅子に横になり、戒の膝に頭を置こうとした。
しかし、この件に関して、戒は一歩先を行っていた。
「どうぞ」
戒はそう言いながら、迫りくるスイの頭から膝を隠し、その代わりとばかりに枕を長椅子とスイの頭の間に挟みこんだ。ぽふっと音がして、スイの頭が枕に食い込む。
「うむ……?」
スイは予想外の感触に、不思議そうな声を上げた。
「枕です。以前似たようなことがあったので、準備しておきました」
「うむ……」
そう言ってスイは黙り、目を瞑る。しばらく無言のまま時が過ぎた。
そして一分程度経った後、スイは急に目を開いた。そのまま、むくりと起き上がり、戒の方を見た。
「これはダメな枕です」
そう言うと、枕を手に持ち、長椅子の端の方へと置いた。それから、スイは戒の膝を叩きながら口を開いた。
「こっちの枕を接収します」
「え、折角買ったのに?」
「ダメです。ダメな枕はユリアにあげてください。スイちゃんはお兄さん枕を使います。では、ごろん」
そう言ってスイは再び横になると、戒の膝に頭を置いた。そして素早く、どこからともなく毛布を取り出し、それを自身の体の上に乗せた。戒が抗議する間もなく、スイは目を瞑ると、すやすやと寝息を立て始めた。
戒は内心で、この枕どうしようと呟いた。
なお、この枕は最終的にスイへと渡された。どのような経緯でそうなったかと言うと――藤ヶ崎戒がクリスク遺跡街を出る前に、スイが「せっかくだから、もらっておいてやろう。やろうっ……! やろうっ……!」と彼に迫ったからであった。
※
そうして、時間は今へと戻る。
クリスク聖堂、ヘルミーネ礼拝堂、長椅子の上で、スイは寝息を立てていた。
「うぐ……うぐ……お兄さん……」
寝息を立てながらも呟く名前――その相手である藤ヶ崎戒がクリスク聖堂を出て一か月以上が経過した。既に彼はリデッサス遺跡街を出て、ヒストガ王国に入り、テチュカの街で暮らしている。勿論、スイはそんなことは知らない。ただただ、来ることが無い彼の事をヘルミーネ礼拝堂で待ち続けているのだ。
「うぐ、うぐぐ……」
自身の呟きで目が覚めたのか、スイは起き上がった。そしてきょろきょろと辺りを見回した。寝ぼけた頭で期待した男の姿は周囲には無かった。スイは少しだけ寂しそうな顔をした後に、まくらをぽんぽんと叩いた。
「むー、やっぱりこの枕はいまいちだな~。はやくお兄さん枕を手に入れなけば……! 今度お兄さんが帰ってきたら、遅刻罪と手紙遅延罪とスイちゃんほっぽいた罪と、あとユリアとイチャイチャした罪なんかを追加して、お兄さんを『枕終身刑』に処さなければなっ……!」
ぐぬぬと唸り声を上げた後、スイはヘルミーネ礼拝堂で必要な儀式を行い、今日も鏡の奥の銀髪の美少女と対話した。
そして、休憩の時間となり、うきうきとした足取りで郵便物置き場を見に行く。今日は郵便物は来ているか、自分への手紙はちゃんと来ているか、そういう思いを持ってリデッサスからの郵便物を確認し、カイ・フジガサキからのものが無いと分かると、頭に疑問符を浮かべながらも、「もしやっ!」と閃き、他の全ての街からの郵便物を片っ端から見て回り、やはり他の街からもカイ・フジガサキからの手紙が無いと分かると、今度は目に見えてがっかりとした風に郵便物置き場から立ち去るのであった。
これが最近のスイの日常なのだ。郵便置き場にいた教会関係者を毎日のように困らせているのは言うまでもないことである。
「ぐぬぬ……おかしい……お兄さんが手紙をサボっている……! これは有罪……! 手紙遅延罪さらに追加……! 加重手紙遅延罪で、懲役1000年……! 許さん……!」
怒りに震えたような声を出しつつも、心の大部分は、怒りよりも別の感情が多くを占めていた。寂しさ、不安、悲痛、恐怖、様々な感情がスイをかき乱した。
スイはまだ知らない。自分がいない所で、藤ヶ崎戒をめぐる重大な事件が発展していることに……