二章幕間 慈悲深く執念深い
「ミーフェちゃんは、フジガサキさんにいっぱい迷惑かけたよね……」
ゆっくりと這って逃げるミーフェと同じ速さでユリアも歩く。二人の距離は決して離れない。
「フジガサキさん、困ってたよ……」
ユリアの語りかけを無視してミーフェは懸命に這う。這うたびに彼女に激痛が走る。一方で、無傷のユリアは何の苦もなくミーフェの後をゆっくりと追う。
「良くないと思うんだ……」
そこで一度ユリアは言葉を切った。そしてミーフェの反応を窺う。数秒ほど待ち、ミーフェが無視を続けている事を確認すると、ユリアは再び右手に持った鞭を振るった。空気を押し潰す音、肌と肉を抉る音、そして幼い少女の絶叫が路地裏に響いた。
悶え苦しむミーフェを一通り観察し、彼女の苦痛の歪む声が小さくなりはじめたあたりで、ユリアは再び口を開いた。
「ミーフェちゃん。私ね、ミーフェちゃんにお願いがあるんだ。フジガサキさんにもう迷惑かけないで欲しいの、お願い聞いてくれるかな……?」
不安そうな口調に反して、地を這うミーフェを見下ろすユリアの淡い赤色の瞳からは感情の色は窺えない。
ユリアはミーフェに『お願い』と言っているが、第三者がこの様子を見れば『お願い』には到底見えないだろう。ユリアは未だに鞭を右腕に持っている。いつでも鞭を振るう事ができる状態なのだ。そして四肢を潰されたミーフェはそれを防ぐことも避けることもできない。二人の力関係は明らかであった。
故に、ミーフェは無言になりユリアの言葉を考えた。しばらくして結論が出た。ミーフェはまた動き出した。ユリアから少しでも逃れるために腕を使って少しずつ這う。この狂った化物と話をすることに意味がないとミーフェは判断した。
この狂った化物はきっとミーフェを見逃す気はないのだ。ミーフェを散々痛めつけて最後は殺す気だろう。それに、ここで歩みを止めればきっともう動けなくなってしまう。ミーフェは相手のことも自分のこともよく理解している。少なくともミーフェ本人はそう思っていた。
しかし、仮にその理解が正しかったとしても、そして正しくなかったとしても、ミーフェの行動をユリアが許すかどうかは別の話であった。
ユリアは右手を器用に振るい、三度鞭を打った。風を抉る音が三度重なり、まるで独特な音色を奏でる楽器のように路地裏に響き渡る。その直後に肉を刻む音や少女の絶叫を伴うところが、この楽器を不気味で悍ましいものにしている。三度の追加の鞭打ちでミーフェの背中は赤く染まっていた。しかし、その傷の深さは四肢に刻まれたモノほど酷くは無かった。ユリアが加減したのだ。簡単には死なないようにするために。
「ミーフェちゃん、ずっと這ってると大変だよね。そんなに無理しなくていいんだよ」
激痛で苦しむミーフェを見ながら、ユリアは場違いな事を言った。そして、さらに残酷にも二度鞭を振るった。今度のそれは背中ではなく左右の腕にそれぞれ一発ずつ命中した。背中への三発と違いこちらの威力は絶大だった。左右の腕は防具とともに削ぎ落とされた。骨の一部も露出するほどの酷さであった。ミーフェの腕は完全に使用できなくなった。
もはや、ミーフェは這って逃げることすらできなくなった。
「これで、お話――あ、その前に、顔は、お互い見えた方がいいよね。ミーフェちゃん、こっちを向いて欲しいかな……あ、でも、寝返りを打つの大変だよね……大丈夫、手伝ってあげるね」
両腕、両足、背中、様々な部位から尋常ではない程の激痛を味わうミーフェにユリアは優しく声をかけた。そしてユリアはミーフェを蹴り転がし、無理やりうつ伏せの態勢から仰向けへと入れ換えた。
「ミーフェちゃん、これで私の話を聞いてくれるかな」
慈愛に満ちた表情でユリアをミーフェを見つめた。今までユリアの表情は、ミーフェには見えていなかった。鞭で打たれてからずっと地に伏せていたからだ。今、ミーフェはユリアの表情を見て、いやらしくて気持ちの悪い顔だと思った。
「話って……ミーフェの、こと、殺す気、でしょ」
もはや逃げることは不可能だ。仕方なくミーフェは口を開いた。強い痛みから言葉が途切れ途切れになってしまう。
「そんなことないよ。私はミーフェちゃんを殺したりしないよ。どうしてそんな事言うのかな……?」
ユリアは、少し驚いたような視線でミーフェに問いかける。
「……はっ、じゃあ、こんな、に、痛めつけて、楽し、い……?」
慈悲深いと自分の事を評価しているミーフェも、時には嗜虐に心を躍らせることもある。しかし、これほどまでに残虐なことをしたことはなかった。ここまで嗜虐性が強い相手をミーフェは見たことがなかった。
「楽しくもないよ。私はね。ミーフェちゃんと話をしたいんだよ。ミーフェちゃんに私の話を聞いて欲しいし、ミーフェちゃんの話も聞きたいな。お話すれば、一緒に楽しくなれるかもしれないよ」
真剣な表情で言葉を紡ぐユリアにミーフェは体を震わした。
「は……? 何、言ってる、の? 頭、おか、し、い」
「ミーフェちゃん。まずはミーフェちゃんのことを知りたいな。ミーフェちゃんは昨日遺跡に潜ったよね。どの遺跡に潜ったのかな? どんな魔獣と戦ったのかな? 明日はどの遺跡に潜るのかな?」
ユリアは優し気にミーフェに質問をしていく。彼女にとってこれは挑発ではなく必要な行動だった。しかし、ミーフェはそうは取らなかった。
「遺跡、は?、……こんな傷、治るわけない。遺跡にも、いかない。ミーフェ、のこと、潰して、満足? 性悪女、鬼畜、悪――ぐっ」
ミーフェの悪態は途中で無理やり止められた。ユリアがミーフェの口を踏みにじったからだ。僅かに苛立ったような表情で、ユリアはミーフェを睨んだ。ミーフェは、初めてユリアがまともな表情をしたと思った。
「ミーフェちゃん、『悪魔』なんて人の事言ったらダメだよ。それは絶対にやったらダメだよ。聖導師の中には本気で怒って、ミーフェちゃんの事を許さないって思う人もいるからね。私も、ミーフェちゃんにそんな風に言われたくないよ……」
そう言ってユリアは足をミーフェの口から離した。力強く踏みつけたからか、ミーフェの頬と口元には、ユリアの靴跡がしっかりと刻み込まれた。自分が刻んだ跡を見て、ふとユリアは以前ミーフェとの間にあったことを思い出した。
「――ぺっ」
ユリアが、可愛らしくも慣れない仕草で唾を吐いた。唾はミーフェの頬に当たった。そして、ユリアはもう一度足を上げると、唾が当たった部分――ミーフェの頬を踏みにじった。執拗に足を動かし、唾をミーフェの頬全体に塗りたくっていく。
十数秒ほどそれを続けてから、足をミーフェの頬から離した。唾液と靴裏の汚れによってコーティングされたミーフェの頬を見て、ユリアは、達成感と虚無感に苛まれた。一度小さく溜息を吐いた後、ユリアは、先程と同じように優し気な表情を作った。そして、右手に持っていた鞭を腰に着けているホルダーに納めた。
「ほらっ、ミーフェちゃん、これでどうかな? 鞭しまったよ。これでお話できるよね」
まるで気遣うような言葉にミーフェは苛立ちを感じた。鞭をしまう事に意味などないからだ。ユリアの技量であれば一秒以内に再度鞭を持ち、そして無抵抗な相手に打つことができるだろう。そもそもミーフェへの最初の鞭打ちもそうだ。鞭を持ち、打つところをミーフェは捉えることができなかった。両足を打たれた後にようやく鞭の存在に気付いたぐらいなのだから。
「ミーフェ、の、言って、ること、聞いてた? これだけ、痛めつけ、て、話し合い、とか、この傷で、どうやって遺跡に」
「ミーフェちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。ほら、治してあげる、左肩触るよ」
腕を潰されたときに巻き込まれて生じたミーフェの肩の傷、ユリアはその傷を包むように右手で触れた。
「うぅ……」
「痛いよね。でも我慢して、すぐ痛いのはなくなるから……ほら、これでどうかな? 肩の傷は治ったよ」
呻き声を漏らすミーフェに、ユリアは優しく声をかけながら、主の奇跡である聖なる術『癒し』を発動させた。温かく柔らかい何かがミーフェの肩の傷を包み込み、癒す。ミーフェの痛みが引いていく。肩の痛みだけではなく、他の傷の痛みも少し和らいだようにミーフェには感じられた。
「……癒し手だった、の? こんな癒し手、いない」
驚きの表情でユリアを見る。以前ミーフェを治療した癒し手は、これほどの腕が良くなかった。何人もの光の魔術師を見て来た経験から、こんなにも素早く、傷と痛みを無くすことができる存在がいるとはミーフェには思えなかった。
「ミーフェちゃん、聖導師の『癒し』を見るのは初めてかな……聖導師は、こんな風に傷を直ぐ治せるし、痛いのもなくせるよ」
ミーフェはユリアから顔を背けた。ユリアが、ミーフェから見て、いやらしく気持ちの悪い表情を作ったからだ。しかも、その意味をミーフェは理解した。
「ね。ミーフェちゃん、痛いのは嫌だよね。いいんだよ。体は正直だもんね。ミーフェちゃんが私とお話してくれるなら、体の傷、全部治してあげるよ。明日から遺跡だって潜れるよ」
ミーフェの心を読んだかのようにユリアが、さらに言葉を重ねた。そうユリアはその気になれば、ミーフェの傷を治せるのだ。もはや遺跡への復帰は無理だと思われた傷。四肢を壊され獅子ではなくなったミーフェが再び五体満足になることができる。獅子に戻れる、いや、獅子のままでいられる。ユリアが治療すれば。
ミーフェはユリアの感情を完全に理解したと思った。圧倒的優位な立場でミーフェに強要するつもりだ。それ故のいやらしい表情だ。ミーフェはギュッと唇を結んだ。数秒ほどそうした後に、屈辱に耐えながら口を開いた。
「……わかった、わかった。もうカイには迷惑かけない。だから、体、治して」
獅子が頭を下げるなど本当ならば許されないことだ。
しかし、ミーフェは賢い獅子だ。これからのことを考えれば少しは我慢できた。ユリアの望みは獅子の子を奪うことだ。賢いミーフェは完全に理解していた。だが、それだけではなかった。鋭い知性を回しながら、ミーフェはさらに一歩先を読んだ。力だけが自慢な化物とは違うのだ。
――約束など、あとで破ってしまいえば良いのだ。いや、そもそも自分は今まで一度もカイに迷惑をかけたことなどない。よってミーフェは何も払わずに治療だけを受けれる。この怪物は頭がおかしいから、この後、自分がカイと関われば再び暴れ出すだろうが、それも計算済みだ。体を万全の状態にしたら、カイと一緒にこの遺跡街から逃げれば問題はない。この化物は尋常じゃなく強いが頭は悪い。最後は賢い者が勝つ。
「ありがとう、ミーフェちゃん。お話聞いてくれて、凄く嬉しいよ。肩と背中の傷はすぐに治すね」
ユリアは安心したような表情で喜んだ。馬鹿め、とミーフェは内心嘲笑する。表情には出さない。一方的にやられて、逆らえない、そんな表情をミーフェは作って見せた。癪だが、化物を騙して優位に立っていると思い込めば、納得できた。そう、自分は圧倒的な優位な立場なのだとミーフェは思いこんだ。
ユリアはミーフェの右肩も同じようの癒した。痛みが引き、苦しみが遠ざかる。妙に体が安らいだ。まだまだ体は傷だらけなはずなのに、二度『癒し』を受けたミーフェは心地よさそうな表情をした。
一瞬、本当に一瞬だが、この化物が自分のパーティーにいれば、かなり役立つとミーフェは思ってしまった。化物のような力と技量、そして尋常ではない癒しの能力。しかし、賢いミーフェはすぐに有り得ないと気づいた。
この化物は性格が最悪だ。凶暴で嗜虐性が強く、何より終始いやらしく不気味な表情をしている。絶対にパーティーに入れてはいけない類の人間だ。こんなやつをパーティーに入れるのはせいぜい二流止まりのパーティーだとミーフェは思った。強さに目がくらみ本当に大切なものに気付かない。ミーフェはそんな愚かなパーティーをいくつも知っていた。
安らぎに浸りながらも軍略を練るミーフェの体が急に転がされた。ユリアがまたミーフェを蹴り転がしたのだ。その事にミーフェは苛立つ。
しかし、すぐに背中の傷に『癒し』がもたらされて、痛みが引いていき、苛立ちも同じように消えていった。何度も鞭打たれボロボロになった背中をユリアは念入りに『癒し』ていく。あんなに激痛を発していた背中からは、もはや安らぎしか感じられなかった。ミーフェは安心したように目を閉じながら残った部位――両腕と両足の治療を待った。
されど、いくら待とうとも四肢への治療はなかった。気付けば背中への治療も終わり、安らぎに包まれていたはずのミーフェに対して、再び苦痛が忍び寄ってきた。『癒し』が終わり、四肢の激痛がゆっくりと、じわりじわりとミーフェを侵しはじめた。
苦痛から耐えられずミーフェが苦悶の声を上げる。先ほどよりは体全体の痛みは少ないはずなのに、ミーフェには今までで一番痛いように感じた。うつ伏せのまま、ミーフェは顔を後ろに向け、ユリアに治療を促そうとする。しかし、ミーフェが声を上げるよりも早く、ユリアが口を開いた。
「手と足は、後で治してあげるね」
優しく――いやらしい表情のユリアを見てミーフェは鳥肌が立った。
「後で……? なんで……?」
にっこりとユリアは笑い、腰に吊るしていた鞭を再び持った。びくりとミーフェは強く体を震わした。
「ま、待って、なんで……?」
おかしな事だった。先程の取引で終了したはずだった。ミーフェにとって非常に優位な取引。それでミーフェは体を完治させ、そしてカイの所へ向かいリデッサスを離れる。頭の悪い化物は後で悔しく呻き声を上げる。ミーフェにとって完璧な計画であった。それが急に崩れ始めた。
「三十七回。ミーフェちゃんはこの数が何かわかるかな……?」
意味不明な事を化物が言い出した。
「これはね、ミーフェちゃんが昨日までの三日間でフジガサキさんに迷惑をかけた回数だよ。私、ずっと見てたんだ」
そこで言葉を切ると、ユリアは鞭を振るった。それはミーフェの体の傍に当たった。地面を抉る音がミーフェを恐怖に誘った。
「だから、あと二十五回……大丈夫、一緒にがんばろうね」
ユリアが鞭を振り下ろし、絶叫が路地裏に響き渡った。




