二章幕間 Casus belli
藤ヶ崎戒、アストリッド・ヴィディン、マリエッタ・バーセル、ルティナ・カールトンの四人が談笑しているのとほぼ同時刻、リデッサス遺跡街の大通りから離れた路地裏で、ミーフェ・ホフナーと聖導師ユリアの二人が向かい合っていた。
しかし、それは前者四人ほど和やかなものではなかった。
朝方ではあるが、周囲の建造物により路地裏には光がまばらで、暗く陰鬱な雰囲気がある。空気も淀んでおり、治安も悪いこの場所に態々好んでくる人物は少ない。
実際、対峙する二人の人物の片方――聖導師ユリアが、このような場所に足を運ぶことは稀であった。けれどユリアは今日、さる理由があってここに入り込んだ。慈愛の笑みを浮かべながら、対峙するミーフェを見つめる。対するミーフェ・ホフナーは不快さを隠そうともしない表情でそれを応じた。
「ミーフェちゃん。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
笑みを深めながら、流暢に話すユリアの声音には、緊張や不安といったものは一切無かった。もし、ここに藤ヶ崎戒がいれば、彼は不思議に感じただろう。
「は? ミーフェ様でしょ。雑魚面。頭が高い。まずはそこにひれ伏せ」
ユリアを鋭く睨みつけ、ミーフェは地面を指差した。
「ミーフェちゃん、聖導師は主の前以外では跪いたりしないんだよ」
純粋な笑みを浮かべたまま、ユリアが自然な態度でそれに応じた。柔らかい物腰とは裏腹に、ミーフェの要求を完全に無視した態度であった。
「はぁー、分かってないなー。もしかして、ミーフェが赤いのにビビッて手を出さないと思ってる? 言っとくけど、ミーフェが雑魚面に手を出さなかったのは、ミーフェは慈悲深いだけだから。何か勘違いしてるみたいだけど、今日のミーフェはいつもみたく甘くないよ。ほら、さっさと土下座しろ」
低い声で威嚇するミーフェに対して、ユリアは慈愛の笑みを浮かべたまま口を開いた。
「ミーフェちゃん。あのね、本当はね。奇遇じゃないんだよ。ミーフェちゃんがここに入っていくのが見えたから、お話しようと思って来ちゃったんだ」
優しい笑みを向けているが、その実、ミーフェの言葉などまるで聞いていないかのように、ユリアは言葉を告げた。
「さっさと土下座しろ。雑魚面――っぺ」
一向に警告に従わないユリアに苛立ち、ミーフェは慣れた仕草でユリアの顔めがけて唾を吐いた。しかし、それをユリアは僅かに体を動かし避ける。以前、ミーフェの唾を無防備に二度も受けていたとは到底思えないような自然な避け方だった。
「ミーフェちゃん。人に唾を飛ばしたら、ダメだよ……?」
少し困ったような表情でユリアがミーフェを注意する。
「――っ!」
唾が避けられるとは思っていなかったからか、それとも直ぐ後のユリアの注意が気に入らなかったのか、それとも今までの溜まりに溜まった怒りが抑えられなくなったのか、ミーフェは声にならない、怒りを伴う音を出した。
そして、ミーフェはナイフを抜いた。右手に持ったナイフをユリアに見せつけるように僅かに揺らした。
「雑魚面、これが最後。言う通りにしないなら、今から雑魚面をコレで分からせる。一応言っておくけど、ミーフェ、もう数えきれないほど路地裏でボコボコにしてるし……何人か殺してるから」
殺人経験、それを告げるときミーフェの唇は歪な形を作った。強い嗜虐心に彩られたその中には仄かな躊躇いがあった。
「ミーフェちゃん。ナイフなんか出したら危ないよ」
しかし、ユリアはミーフェを安心させるように優しい声音で諭すような言葉を口にした。その態度はミーフェの事をまったく警戒していないし、脅威にも感じていない。そんな風にミーフェには見えた。
ミーフェは動いた。独自の走法で瞬時に距離を詰め、ユリアの首元にナイフを軽く当てる――これをするだけで半分は命乞いを始める。ギルドではできないが、路地裏ではできる。ミーフェの使い慣れた技だった。
ただ、今回は違った。当てるだけであったはずのナイフはユリアの首に深々と食い込んだ。ミーフェは今まで目測を誤った事は一度も無かった。今回もそうだ。しかし、ユリアがミーフェが距離を詰めると同時に少しだけ距離を詰めたのだ。結果ナイフはユリアの喉元を抉り、彼女に致命傷を与えた――はずであった。
「え……? ……! は……?!」
ユリアの首にナイフが食い込んでしまい、ミーフェは困惑の声が漏れ、そしてすぐに二つの異常に気づいた。
一つは自分がユリアの動きに全く気付かず合わせられなかったことだ。ナイフを当てようとするとき、相手が避けたり抵抗したりすることは今までもあった。ただ、それでもミーフェは瞬時にナイフの軌道を補正し、確実に首元にナイフを当ててきた。
それなのに、今回は全く合わせることができなかった。ユリアが半歩距離を詰めた事に気付けなかったのだ。ユリアがミーフェの認識できる速さ以上の速さで距離を詰めたのだ。だからミーフェはナイフをユリアの首元に食い込ませてしまったのだ。いや、違う食い込ませてなどいない。それがミーフェの二つ目の気付きだ。
ミーフェのナイフは既に壊れていた。ユリアの首にあたりナイフの刀身は割れていた。ユリアの首には傷一つなかった。そして今になって、ミーフェの手が痛んだ。ナイフが割れてしまうほどの硬いものを切ろうとして失敗したのだ。当然、ナイフと同じようにミーフェの手もダメージを受けていた。柔らかそうに見えたものは十五層に生息する魔獣の皮より硬いものだった。
「ミーフェちゃん」
困惑して動けずにいるミーフェに対してユリアが優しく名前を読んだ。ミーフェは、得体の知れない化物に名を呼ばれたような、そんな錯覚を受け、びくりと体を震わせ、ゆっくりとユリアを見た。ユリアは会った時と変わらずに慈愛を込めた表情でミーフェを見下ろしていた。肉薄していたこともあり、二人の身長差がミーフェには強調されているように思えた。
「先に手を出したのはミーフェちゃんだからね」
その言葉と同時に、ミーフェの体に衝撃が走った。後ろに強く体が飛ばされる感覚をミーフェは不思議に思い、直後に猛烈な痛みに襲われる。同時に強い息苦しさを感じた。痛みは腹部から来ていた。息苦しさと腹部の猛烈な痛み。ミーフェは何が起こっているかを理解した。水月を殴られたのだ。
痛みに堪えながら、裏路地の建物を使い受け身を取る。着地と同時に足に衝撃が走り、それとほぼ同時に空気を切り裂く音が聞こえた。ミーフェの視界の端から伸びる黒い縄状のものを捉え、今何をされたかを理解したところで、
「――アァ! アァァ!!」
ミーフェは絶叫した。尋常じゃない程の痛みがミーフェの足元から体を駆け巡った。崩れ落ちるミーフェの両足は既に破壊されていた。履いていた靴や足回りの装備は破壊され、露出した足には生々しい傷ができていた。肉の一部はめくれ、さらには骨の一部は砕けてた。
「一回、二回」
先ほどまでと違い淡々とした声で、ユリアが独り言のように数を数えた。その言葉の後にユリアは手に持った鞭を二度振るう。最初の打撃がミーフェの右手を捉えた。硬い魔獣の皮で作られた手袋を難なく破き、そのままミーフェの右手も足と同じように破壊した。衝撃で、手の肉は剥がれ、指は折れ、爪は剥がれた。そして即座にミーフェの右手は赤く染まる。さらに次の打撃がミーフェの左手を打ち抜き、右手と同じようにした。
これで合計四度ユリアは鞭を振るった。最初、左拳でミーフェを殴り飛ばした後、即座に距離を詰めながら右手で鞭を操り、受け身を取ったミーフェの着地と同時に彼女の足を破壊した。四度の鞭打ちで両手両足を打ち抜いたのだ。四肢を破壊されたミーフェはぐったりと地面に横たわった。
「これで四回」
淡々と冷たい声を漏らすと、ユリアは右手に持った鞭を左手に持ち替え、そして、ふと何かに気付いたような顔をして、再び右手に持ち替えた。ミーフェが突き飛ばされ、そして鞭で打たれる間、様々な音が路地裏に響いていたが、ユリアが攻撃を止めてピタリと音が静まった。ただミーフェの荒い息遣いだけが路地裏に消えていく。
「ミーフェちゃん。痛かったかな? ごめんね。でもミーフェちゃんが先に手を出したんだよ」
先ほどと一切変わらぬ優しい声色のまま、ユリアはミーフェに語りかける。ユリアが慈愛の笑みを浮かべているため、表情だけ切り取れば多くの人は『子供を安心させようとしている』と思うだろう。
しかし、ユリアの右手には先程までミーフェを痛めつけ四肢を破壊した恐ろしい鞭が握られていた。装飾などは無く、ただただ黒く染められている無骨な造りの鞭は、ミーフェの血と肉片に汚れ、より凶悪に見える。
ミーフェは荒く呼吸しながら、彼女自身の体の様子を見る。酷く無惨な状態だった。両足ともに肉が抉れていた。左足に至っては露出した骨が砕かれているのが見えてしまっている。両手も同じようにぐちゃぐちゃにされた。戦えないとミーフェは感じた。走って逃げることもできない。素早く動き、瞬間的に必殺の刃で動くミーフェにとって、これは致命的だった。傷は深く複雑だ。もしここを生き延びても、ミーフェは今までのようには暮らせないだろう。遺跡探索など二度とできないかもしれない。四肢を失ったミーフェは獅子でなくなったのだ。
ただ、ミーフェはまだ死ぬわけにはいかなかった。ミーフェにとってつまらなかった日々が、ようやく変わろうとしているのだ。もう少しで変わるはずなのだ。ミーフェは腕を使い這った。這ってユリアから逃げ出した。うつ伏せのまま、腕と脚を使いもぞもぞと動く。
それは、とても惨めな動きだった。もし、ミーフェに痛めつけられた探索者たちがこれを見れば、半数は暗い愉悦を感じ、残りは哀れに思うだろう。
両手と両足を破壊されたミーフェは常に痛みに苦しむが、這うことで、より大きな痛みがミーフェを襲う。激痛に悶えながらも、それでも這って少しでもユリアから遠ざかろうとした。
「ミーフェちゃん。両手も足も潰しちゃったから、たぶんそうやって動くと凄く痛くて、苦しいと思うよ。無理しない方がいいよ」
這って逃げるミーフェの後ろからゆっくりとユリアが距離を詰めた。ゆっくりとした動きでも、這うミーフェの倍以上速い。あっという間にミーフェが激痛に耐えて稼いだ距離が埋まる。
「追いついちゃったね。ミーフェちゃん。私ね。ミーフェちゃんとお話したくて、ここまで来たんだ。こっちを向いてくれたら嬉しいな」
優しく語りかけるユリアはミーフェに慈愛の笑みを再び向けるが、うつ伏せになり地を這うミーフェにはその表情は見えない。
ミーフェは、ユリアの言葉を無視し、そのまま少しでもユリアから逃れようと苦しみながら腕を使い這った。
ユリアはそんなミーフェの動きを見て、一瞬だけ無表情になった後、再び慈愛に満ちた表情を浮かべ、鞭を二度振るった。這って逃げるミーフェの背中に×印を刻むように左右の肩から腰まで傷をつける。絶叫を上げるミーフェを優し気な表情でユリアは見届ける。
「ミーフェちゃん。お話しよっ。ねっ」
先ほどよりも明るい口調でユリアはミーフェに話しかけた。背中を鞭で打たれたミーフェは荒い息で呼吸を繰り返す。そうやって何度か呼吸を整えて、ミーフェは再び這って動き始めた。ユリアはそれを見て明るくした表情を崩した。そして哀れむように逃げるミーフェを見てから、小さく溜息を漏らした。




