二章37話 梯子を外す
俺は、思わず反射的に立ち上がった。
「お待たせいたしました。どうやら、皆様、お揃いのようで……ふふっ」
リュドミラは部屋内にいる人物を一人ずつ流し見た後、最後に俺の方をじっと見た。そしてなぜか、意味深に、妖艶な笑みを向けてきた。リュドミラの圧倒的な美しさに、思考と感情が滅茶苦茶に破壊されそうになる。リュドミラの美しさは変わっていないはずだが、前回から少し時間を置いていた分、強烈に感じてしまう。
意識をリュドミラに持って行かれないようにするために周囲に感覚を向ける。俺が気付かぬうちに『フェムトホープ』の面々も立ち上がっていた。
ユリアは緊張しつつも敬意を払うように、ルティナな複雑そうな表情で、アストリッドは礼儀正しくリュドミラに向き合っていた。三者三様の態度に疑問と納得感を覚えていたところで、ホフナーが馬鹿にしたようにリュドミラを鼻で笑った。
思わずホフナーの方を凝視する。ホフナーだけは座ったまま、嘲るような表情でリュドミラを見ている。そのことに確かな不快感を覚えつつも、それを抑えていると、リュドミラがさらに口を動かした。
「申し訳ありません、準備に時間がかかってしまって」
その何気ない言葉とともに急に部屋の中に緊張が走った。部屋の中の雰囲気が一瞬で変わった。ぴんと張り詰めたような感覚がする。なんだ……?
顔は動かさずに近くを見る。ユリアは緊張している。いや彼女はリュドミラが来てから緊張していたが、今のリュドミラの言葉で、より緊張を強くした。ルティナもユリアほどではないが緊張している。そしてホフナーも緊張しながらルティナを見ている。アストリッドだけは平然とした顔でいた。
「あの……では……準備は終わったんですね……?」
ユリアがおずおずと口を開き、何かをリュドミラに確認した。
「……ええ、終わりましたよ導師ユリア」
紫色の瞳が妖しく輝いた。
そして、リュドミラの言葉で空気がさらに張り詰めたような気がした。何故か分からないが皆、妙に緊張している。いや、勿論、俺もリュドミラの美しさや存在感の強さに緊張しているが、しかし、俺の緊張と他の人の緊張は違う気がする。なんだ……?
「リュドミラ様、私も……いつでも大丈夫です――!」
「――ふふっ、そうですか、では食事をお楽しみ下さい」
その言葉と同時に、フードを深く被った人が台車を押して入ってきた。パンや肉・チーズ、スープ、果物など軽食が中心だ。スープやパンからは湯気が出ていて作り立てであることが分かる。果実は張りがあって色つきも良い。燻製された肉やチーズからは、香辛料の香ばしい匂いが漂っており食欲をそそる。どれも美味しそうだ。さっきホフナーと昼飯を食べたばかりだが、それでも少し食べてみたくなってしまう。
フードの人物が食事をテーブルに並べていく。フードを被っているため顔は見えなかったが、フードから零れて見える美しい銀髪はリュドミラのものと同じ色に見えた。珍しい。リュドミラのような目立つ髪色は中々にいないので、こんな狭い空間で二人目を見つけると不思議に思ってしまう。
「え、……あの、準備は……?」
困惑の表情を隠せないでいるユリアが、リュドミラに問う。それと同時に、カチャカチャと食器が動く音がする。音のする方を見るとホフナーが何も告げずに食べ始めていた。すごい胆力だ。呼ばれてもいない集まりに来て真っ先にタダ飯を食らう。臆病な俺には決してできない勇敢さだ。
「ええ、ですから、軽食の準備です。先程、必要と仰っていたと思いますが。他に何か?」
リュドミラは当然の事を告げるような口調でユリアに答え、逆に問いを返す。確かに、ユリアは『昼飯はまだ』と言っていた。そう考えると、教会が軽食を用意してくれたというのはしっくりくるし、ありがたいことだ。準備とはこの事だったようだ。少なくともリュドミラの中では。
ユリアや他の皆は別の事を考えていたのだろうか……? 何か他に頼み事をしていて行き違いでもあったとかだろうか……あー、なんとなくだが、もしかしたら、活動資金とかかもしれないな。うん、それはちょっと追求しにくいやつだな。
「い、いえ……」
俺の予想が当たったのかどうかは分からないがユリアは、怯んだように口を沈める。リュドミラはそんなユリアから視線を外すと、なぜか俺の方を一度見てから、さらに視線を先ほどから熱心に食事をしているホフナーに移す。一瞬どきりとした後、俺もホフナーを見る。ホフナーは俺とリュドミラの視線を気にもせずに飲食に夢中だ。
「折角の暖かい料理です。皆様、冷める前にお召し上がりください」
もう既に食べているホフナーを注視しながらも、皆に食事をするように促した。リュドミラも何も言わずに食べ始めたホフナーに思うところがあるのかもしれない。
「リュドミラさ、あ、リュドミラ様。お食事、ご用意していただきありがとうございます。冷める前にいただきたいと思います」
変な人を連れてきてしまい申し訳ないという思いが湧き、リュドミラに謝罪の意味も込めて食事に関して感謝して、俺も手を付ける。実は、ちょっと食べてみたかったという気持ちもあった。
俺が手を付けると、アストリッドもリュドミラに感謝し、食事に手を付け、それから数十秒ほどして、ようやくルティナとユリアもしぶしぶといった風に食事を始めた。なんとなくだが、張り詰めたような雰囲気が緩んだ気がした。
皆の緊張が収まり安心した気持ちでスープを飲む。美味しい。暖かいし、肉系の出汁がよく効いている。さらに小さなパンをチーズと共に食べる。こちらも美味い。教会って精進料理みたいなイメージがあったが普通に美味しいんだな。
「カイ、これ美味いしタダだからしっかり食べておきなよ」
俺が料理に舌鼓を打っていると、ホフナーから世俗的な助言が送られてきた。ここは本来、宗教的な場所なのだが……
ホフナーに助言に適当に感謝しつつ彼女の様子を観察する。もう既にかなり皿は汚されていて、食べるのも速い。表情も緩んでいる。ホフナーはタダで美味いメシを食えてご満悦のようだ。さっきメシ食ったばかりでよくこんなに食べられるな。体格から考えて、俺より胃は小さいはずなんだが。
「ミーフェ様、お食事の方はお気に召していただけましたか?」
ふとリュドミラの美声が耳を撫でた。何となく彼女の方に目を向ける。リュドミラは特に食べたりはしていない。食事を用意してから、ただただ椅子に座り、軽食を食べる他の五人を確認するように見ている。
あ、いや、食事を用意したのはフードを被っていた銀髪の人か? ちなみにその人は気付いたらいなくなっていた。素早く配膳し素早く消えたのでお礼を言いそびれてしまった。教会の信者さんとかなのだろうか……?
「ん。結構良いかな、あ~、でもさっきのパンは少し固かったなー」
ホフナーは食べることを止めることなく、雑にリュドミラに返事をした。
「ミーフェ様、申し訳ございません。以後このような事が起きないように気を付けます」
リュドミラは一度椅子から立ちホフナーの方に丁寧に頭を下げた。なんだか、とても申し訳ない気持ちになり、胸が苦しくなる。
ホフナーは頭を下げるリュドミラを一瞥すると、
「いいよ。ミーフェ器デカいから、こっちの銀色は雑魚だけど、ちゃんと分かってる。そっちの雑魚面とは大違い」
などと口を回し、再び食べるのに集中した。自分の中で、確かな怒りが起こり、胸が苦しくなる。思わず、口を開きかけてしまうが、それよりも早くルティナが声を上げた。
「その雑魚面って呼び方止めてよ」
鋭く指摘するルティナの表情からは、不快感や怒りの感情が読み取れた。ルティナのその態度に僅かに胸がざわめきが和らぐ気がして、二人の会話に耳を傾ける。
「別に赤いのの事を呼んでるわけじゃないよ。そっちのボソボソ煩い雑魚のこと言ってるから」
そういってホフナーはスプーンでユリアを指す。
「だからユリアちゃんのこと雑魚面って言うの止めてよっ」
「は? 何で? 事実でしょ」
常識が分からない相手を見たかのような不快感を持った表情で、ホフナーが応じる。
「ユリアちゃんは雑魚じゃない。むしろ逆、尋常じゃなく強い。ミーフェから見ると実力差がありすぎて分からないんだろうけどっ」
ルティナもルティナで必死に物事の道理を説くようにホフナーに語りかける。お互いが相手を『そんなことも知らない』と断言し合っている。どちらが正しいのだろうか……ルティナとホフナーの振る舞いやユリアと他の人たちの関係性、こちらに来てからの様々な情報収集を考慮に入れると、俺の予想としては、なんとなくルティナが正しいのではないかという気がしてきたが……
話題の的になっているユリアをチラリと見る。困ったような顔で二人を見守っている。
「はぁー、赤いのは目が悪いの? どう見ても雑魚でしょ。というか、ミーフェ、ミーフェより強いと思った相手に会ったことないし、まあ赤いのは結構やるとは思うけど」
最初は強気に、そしてなぜか後半の方は少し小さな声でホフナーが言葉を口にした。
「ああっ! もうっ! じゃあ、分かりやすく言うけど、ユリアちゃんは聖導師で、リュドミラ様は聖女なんだよっ! ミーフェじゃ何やっても勝てないよ。二人とも優しい人だから、気にしてないけど、本当ならミーフェなんか片手で捻れちゃうから、そういう事を言うのは止めなって言ってるのっ!」
片手……俺の時は小指だったはず、とすると、ホフナーの強さは俺の五倍程度なのか? 俺の五倍ってあんまり強くない気が……ああ、いや? でも成人男性五人分と考えれば無茶苦茶強いか。いや、そもそも小指と人差し指って戦闘力同じでいいのか? なんか人差し指の方が強そうな感じがする。いやいや、待て待て、指五本=手ではない。掌の部分がある。とすると何倍だ……? 適当に二十倍くらいか? 成人男性二十人分か。やっぱりルティナから見ても、ホフナーはだいぶ強いみたいだ。
ただ、まあこの仮定が全て成り立つとすると、ユリアはどんだけ化物なんだって話になるけど……
「はぁ~。聖導師でしょ、そんくらい知ってるから。教会でイキってる口だけの雑魚集団でしょ。その雑魚面が聖導師っていうのはしっくりくる。口だけだから。ミーフェ、赤いのと違って、目が良いから一瞬で分かったよ」
そう言ってホフナーは肉を嚙みちぎり、汚く嗤った。
聖導師が口だけの雑魚……? 駄目だ、全然分からない。ユリアの身体技能はかなり高かったはずだが、ホフナーはそう思ってはいないのか?
それともそれを承知の上で、雑魚と呼んでいるのか。分からん。でも何だか、やはりルティナが正しいのではないかと思ってしまう。たぶんユリアやスイの超人的な動きを目にしているからだろう。ホフナーの動きは初めて会った時に見たが、ユリアやスイ程の超人さを感じなかった気がする。
「全然分かってない……ミーフェ、聖女どころか聖導師に会ったことすらないでしょ」
ルティナの読みは、『ホフナーがそもそも聖導師を見たことが無く知ったかぶりをしている』のようだ。なんとなくそんな気がしないでもない。でも、僅かに疑問が残る。ホフナーは相手の実力を読む能力が高いような気がするのだ。俺のことも読んでいたし、たぶんルティナの事も読んでいる。
「は? あるけど。教会でイキってたの何度か見たし……まあ、聖女っていうのはよく分からないけど聖導師の親玉みたいな奴のことでしょ。ミーフェがガチになったら瞬殺だから。まあ、この銀色は『分かってる』奴みたいだからボコらないけど」
ん? あれ、ホフナーってリデッサス遺跡街で結構活動してるんだよな……リュドミラもある程度前から大聖堂にいるみたいだから、少し変な気がする。いや、まあ、ホフナーのことだから教会関係とは繋がりが薄いのかもしれない。故に教会の実力者であるリュドミラのことは全く知らないのだろう。
「ああっ、もう……」
「ご寛大なお心に感謝いたします。ミーフェ様」
話が通じないとばかりに言葉に詰まるルティナと代わるようにリュドミラがホフナーに感謝を示す。ユリアとは違い会話に参加することを選んだようだ。
リュドミラの声音や態度からは怒りや不快感を抑えている感じはしないし、ユリアのように困惑している感じもしない。ただただ礼儀正しくホフナーに対応している。
ユリアのような立派な人でさえホフナーの事は少し嫌そうな顔をしていたのに、そういったものを一切感じさせない。リュドミラは容姿だけではなく、その内面も人間としても完熟しているのかもしれない。勿論、内心怒っていて、俺が読み取れていないだけなのかもしれないが……
「ん。ここ悪くないね。またカイと一緒に来てやってもいいよ」
礼を尽くすリュドミラに対して、ホフナーは相変わらず雑な態度で応じた。そのことにまたしても不快感を覚えホフナーを見るが、彼女は相変わらず食事に夢中のようだ。
自分の中で上手く消化できない感情に悩んでいると、ふと視線を感じ、恐る恐るそちらを窺う。リュドミラが薄っすらと笑みを浮かべて、こちらを見ていた……いや、注視していた。俺がその視線に気付くと、彼女は小さく含み笑いをした。
瞬間、体の芯のようなところが急に冷えた気がした。心臓もどくどくと鳴り響く。リュドミラの今の視線と笑みは何だろうか。なんとなくだが……
――リュドミラはホフナーではなく俺に不快感を持っているのではないかと、思ってしまった。
なぜ、という気持ちと、当然かもしれないという考えが頭の中で混ざり合う。
ホフナーはもうしょうがない人だから早々に諦めていて、一方で俺はそんなホフナーを連れて来たということでマイナス評価なのかもしれない。
どくどくどくと心臓から熱いような渇いたような血が体の芯から末端へと流れていく。末端は冷たく、熱い血が届いていないような、そんな不思議な感覚がする。喉が渇いている。俺はリュドミラに嫌われてしまったかもしれない。
「あ、あの、リュドミラさん、今日は、その、突然来てしまって、人数が増えてしまって申し訳ないです。それに、食事も余分に用意して下さったみたいで、本当に、すみません」
今更かもしれないが、少しでも謝罪のような言葉を伝える。緊張と恐怖から口がいつも以上に回らない。なんとなくだが、もう駄目かもしれないと思ってしまった。胸が苦しい。
「フジガサキ様。そのような事を仰らないで下さい。むしろ、私はまたフジガサキ様にお会いできて嬉しいです。こんなにも、――ふふっ、こんなにも素晴らしい日はとても珍しいです。ありがとうございます、フジガサキ様」
リュドミラは安心させるように穏やかな表情で、そんな言葉を俺にくれた。彼女の言葉は謙遜や気遣いではなく本心のように感じられた。勿論、俺がそう解釈したいだけなのかもしれない。だけれど、そのことに救われたような気持ちになった。
それから、皆で軽食を食べつつ談笑し、親睦を深め、気づけば時間が過ぎていった。




