【エッセイ】無差別ブロック反対派の主張
自分が傷つくのを前もって防止するために、批判的な感想を書いて来そうなユーザーさんを予めブロックしておくという考え方があるらしい。
自分が何をされたわけでもないのに、このユーザーさんにはいつか自分も何かされそうだと感じた時点でブロックしてしまうというわけである。
わからないわけではない。車の中で休憩していて、挙動の不審な人が歩いているのを見かけたら、何をされたわけでもなくてもドアのロックをかけるみたいなものだ。
それが本当に挙動不審者ならば当然のこととして、挙動不審者かもしれない程度であってもドアをロックするに越したことはないであろう。
ロックされた側も、ロックされたことに気がつかなければ、特に傷つくようなこともなく、お互いにウィンウィンである。
これがロックされていることを相手に伝えるのならば、それは『私はあなたを挙動不審者だと見做しています』という意思表示となる。
同様に、『なろう』における、そうした予防ブロックというのはつまり、『私はあなたを挙動不審者だと見做しています』という意思表示なのではないかと考える。
あるいは主観的な表現なら『私はあなたが嫌いです』、客観的な表現なら『あなたは荒らしである』。ブロックするというのは、そういう意思表示なのである。そしてブロックされた相手も、偶然にしろ必然にしろ、それを知り得るものである。
もちろんそれが本当に荒らしレベルであるなら、予防ブロックされるのは当然のことであろう。
しかし、『この人の考え方が嫌い』程度のことで、簡単にブロック機能を使ってしまう人が多いように思う。
考え方はそれぞれ自由である。確かに、そうである。
しかし、だからといって自由に他人を傷つけてよいわけではない。自由であるからには筋を通す必要がある。
『あなたの考え方が嫌いだからブロックする』に相対する考え方とは何か?
それは『あなたの作品の考え方は間違っているから批判する』である。
これらは同じ感情の裏表なのだ。
ただ、黙ってそういう意思表示だけをしているか、積極的に伝えて来るかの違いだけだ。
ネットだから、リアルとは違って気持ちよくやりたいから、と相手を傷つけて自分だけ気持ちよくなっているというところにおいて、この2つは同じようなものなのである。
ネットもリアルも同じ、とはよく言われることだ。
もちろんリアルでも差別主義者であるのなら筋が通っていると思う。そこまで行かなくともリアルでも『なんかこのひと嫌い』という相手とは、利害関係がないなら話をしないことぐらい普通によくあることだと思う。
しかし、自分を批判されることは認めないのに、他人のことは黙って批判の意思表示をするというのは、果たして筋が通っているのだろうか?
お互いに気持ちのよい解決法を取ったほうが楽しいと私は思うのだが、なぜ『やられたらやり返す』どころか『やられる前にやり返す』みたいな方法をとるのだろうか?
この話は取り下げると宣言していたので失敗作品集に収めるが、私の考え方は以上のようなものである。
無差別ブロックは不要に他人を傷つける行為であり、通り魔のようなものだと思っている。
それが『良いこと』『仕方のないこと』だとする人は、リアルでもそういうことをしているのだろうかと想像してしまう。
以上、走り書きであるが、『主張のある文章は断定口調で書くべし』と習ったので断定口調で書いたが、ほんとうは自信などない(ドキドキ)