【連載100回記念】まともは数で決められる
「ごめん、高橋さん!」
血相を変えてそう言いながら、細川さんが飛び込んできた。
待機室でスマホゲームをしていたあたしが顔を上げると、細川さんはいつもの気弱そうな表情で、しかし笑顔はまったく浮かべずに、報告した。
「バックで高橋さんの車にぶつけてしまった」
駐車場は路上だ。つまり路上駐車。
あたしたち『有限会社クマラー』の社員は皆、それぞれ乗って来た車をディーラーさんの建物の裏に路上駐車する。
そこに二階建てのキャリアトラックで帰って来た細川さんが、車と車の間に縦列駐車で停めようとしていたところ、後ろにあったあたしの軽自動車にぶつけてしまったということだった。
急いで見に行くと、現場はぶつかった状態で保持されていた。細川さんのトラックの後ろのバンパーが、あたしの軽自動車のフロントバンパーに、ちょこんと触れていた。グシャグシャになっているのを覚悟していたので、ちょっと気が抜けてしまった。
「離してみるよ?」
そう言って細川さんがトラックを前に少し動かすと、傷の程度がはっきりと確認できた。ライトブルーのバンパーに、点ほどの小さな白い傷がついていた。
トラックのエンジンを止め、細川さんが降りてきた。ぺこぺこと謝ってくれる。
「ごめん。修理に出したら見積もりを見せて? 全額、僕が負担するから」
あたしは笑顔の前で手を振った。
「いいですよ〜、このぐらい。気にせず修理せずに乗りますから」
「いや、それじゃ僕の気が済まない。是非修理に出して、修理前より綺麗なバンパーにしてやって」
前からそこまで傷だらけなバンパーだったわけではないが、確かに修理に出せばピカピカだった新車の頃に戻るだろう。それはまぁ、嬉しいかなと思えた。
でも正直この程度で修理に出すのは面倒臭いし、何より細川さんにお金を出させるのが申し訳ないと思った。この程度でもたぶん3万円とかはするだろう。
「いいですって〜」
笑顔で何度か断ったが、細川さんは引かなかった。
「高橋さん、このクルマ大事に乗ってるでしょ? ドレスアップとかもしてるのに、申し訳ないよ。だめだよ、僕の気が済まない」
確かに、この傷を見るたびに細川さんの心が傷ついちゃうんだろうな。そう思うと、修理することですべてがうまく行くような気がして、あたしは遂に折れた。
「じゃ、帰りに修理工場に見せて、見積もりもらいますね?」
「うん。そうしてよ」
ようやく細川さんが笑顔になった。
あたしもほっこり笑顔になった。
自動車を運ぶ仕事は暇が多い。
暇な時はディーラーさんの敷地内に構えた小さな待機室での待ち時間が一日のほとんどを締める。
仕事が入ったらすぐに戻れるように、お昼ごはんはいつも近くのお弁当屋さんで買う。車の中でそれを食べ、少しだけ休憩してから待機室に戻ると、専務がいた。
「あっ。高橋さん、お帰り〜」
優しく作ったような声でそう言う熊田専務は社長の息子で27歳。背の高いイケメンだ。
はっきり言って、あたしが苦手とする人種である。
待機室のパイプ椅子にあたしが座ると、いつものように専務がちょっかいをかけてくる。
「あっ! 高橋さん……」
あたしにその端正な顔を近づけてきて、クンクン匂う。
「ニンニク食べた?」
「あっ、はい。『ニンニクまみれ豚焼肉弁当』を食べました」
口臭を消すお菓子で匂い消しはしたつもりだし、裏の洗面所を使わせてもらって歯磨きもしたし、マスクもしてるのに、鼻が鋭いなぁ……と思っていると、専務が「ひゃっ、ひゃっ、ひゃ!」と大笑いをはじめた。
「高橋さん、ニンニク臭ぁい! ニンニク臭ぁ〜い!」
何が面白いのかわからなかったが、愛想笑いを「うふふっ」と返してあげた。
どうにも専務のことは、あたしより2つ年上なのに、小学生の子供みたいに幼く見えてしまう。容姿は端麗だしお金もあるみたいなので浮いた噂をよく聞く人だが、小学生の男の子が女遊びをしている話を聞くようで、いつもどうにも気持ちが悪くなってしまう。
「ねぇ、今度ドライブ行こうよ!」
また始まった。
「えーっと、いつですか?」
「明日とか」
「あ、すみません。明日はちょっと予定があって……」
「じゃ明後日とか」
「明後日もちょっと……」
「じゃあさ、明々後日の夜とか」
「えっと、友達と約束がありますので」
「じゃ来週とか」
「すみません。彼氏がいるので、そういうのはちょっと」
「じゃ、今夜とかさ」
「今夜はちょっと……」
「じゃ、明日からさ」
「いえ、しばらくはちょっと忙しいですので」
「じゃ、じゃあさ、今週のどこかならいいよね? 日曜日は? 日曜の夜空いてる?」
しつこい。
「あの、ごめんなさい。無理です」
きっぱりと断ると、専務は急に表情を変えた。
「いいじゃん。たまには付き合ってよ」
声色が変わって、あたしは思わずびくりとした。
「いいじゃない。そんなに断らなくても。いいじゃないか。俺だっていい男だと思うけどな。高橋さんなんて、ニンニク臭いくせに」
専務がずいっと顔を寄せてきた。
「やめてください」
「じゃあ、ドライブぐらい行ってもいいだろ? いいだろう」
専務はあたしの腕を掴んできた。
「困ります。離してください」
「いいだろう。デートしようぜぇ〜」
専務はあたしの肩に手をかけてくる。
「痛いです。離してください。お願いします。もう許してください」
専務はあたしの耳元で囁いてくる。
「いいだろう。いいだろう。いいだろう」
専務はあたしの体を抱きしめるようにして、腰に手を回してくる。
「い、嫌です! 本当に止めて下さい! 警察呼びますよ!!」
「いいだろう。いいだろう。いいだろう」
「誰か! 助けて!! 誰か来てくださぁ〜〜〜〜〜〜い!!!」
あたしが叫び声を上げると、待機室にいた社員たちが全員こちらを見た。
皆、驚いている。
専務はあたしの体からぱっと離れると、「ちっ」と舌打ちをして待機室を出て行った。
あたしはその場にへたり込んだ。
他の人たちが寄ってきてくれて、「大丈夫か?」と言ってくれたり、「あいつマジで最低だよな」と怒ってくれたりしてくれた。
あたしは専務のことを怖がっていることを悟られないように、精一杯笑顔を作って見せた。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
それからしばらく、専務はあたしに話しかけてこなかった。
仕事が終わると、細川さんがいつものように送ってくれた。
「高橋さん、本当にごめんね。修理代は必ず払うからね。僕に請求してくれれば良いからね」
「だから、気にしないでくださいってば〜」
細川さんは心配そうな顔をしていた。
「高橋さんの車、バンパー傷だらけだね」
「はい……。でも、このクルマで良かったと思っています」
「どうして?」
「この傷を見ると、事故のことを思い出すんです。そしてこの傷を見るたびに思うんですよ。あの時もっとうまく運転できてたら、あんなことにはならなかったんだろうなって。そのことばかり考えちゃうんです。だから、このクルマでよかったなと思うようになりました」
「そっか……」
「それに、こんな風になっちゃったけど、まだちゃんと走ってくれていますし」
「そうだよね。高橋さんが頑張ってくれてるんだよな」
「そうです。頑張らないと、ですね」
「うん。お互い、頑張ろう!」
「はい!」
あたしがそう返事をすると、細川さんが笑みを浮かべた。
「それじゃ、お疲れ様でした!」
「お疲れさま!」
細川さんが手を振るので、あたしも手を振った。
「高橋さん、気をつけて帰ってよ! また明日!」
「は〜い! また明日!」
あたしは家に向かって歩き始めた。
夜の国道を走る。夜風が気持ちよく感じるようになってきた。
ふと、後ろからヘッドライトの光が近づいてきた。
振り返ると、一台の軽自動車が後ろにいた。
運転席にいる若い男の人が、あたしを見てウィンクしているような気がする。
「もしかして……、さっきの……?」
まさかと思いながら、あたしは家に急いだ。
翌朝、会社に行くと、駐車場で熊田専務と会った。
「おはようございます」
あたしが挨拶をしても、専務は無言だった。
あたしの横を通り過ぎて、自分の車の方に歩いて行く。
助手席のドアを開けると、専務は中に入っていった。
「あ……」
思わず声が出てしまった。
専務の車に、大きな蜘蛛がいたのだ。それも1匹ではなく、何匹もいる。
専務はクモが嫌いなのか? それとも虫全般がダメなんだろうか? あたしは専務の車が動く前に急いでその場を離れた。
その日の昼休みのことだった。
スマホを見ながら、コンビニのおにぎりを食べていると、隣の席に座っている細川さんがあたしに声をかけてきた。
「高橋さん! 見てみて! これ! すごいよ!!」
興奮気味に言うので、何かと思ったら、SNSに投稿された動画を見せてくれた。
それは、ある芸能人夫婦が投稿したものだった。
『子供が産まれました! 女の子です!』というコメントと一緒に、生まれたばかりの赤ちゃんの写真が載っていた。
「可愛いですねぇ〜」
あたしが感想を言うと、細川さんは嬉しそうに言った。
「そうだろ? 可愛いだろ? もうさ、ほんっとに天使みたいだよな!」
「はい。可愛らしいです」
「もうさ、見ているだけで幸せになれるっていうかさぁ〜」
「はい。わかります」
「俺さ、子供ができたら絶対に結婚して、絶対絶対ぜぇーったいに子供を大事にするんだ! 子供が生まれたら、毎日一緒に遊んで、いっぱい写真撮ってさ。そんで、パパと結婚する! とか言われたいよな〜!ああ〜、早く結婚したいな〜! 相手がいないけどさ〜!」
「はいはい」あたしが適当に相槌を打つと、
「高橋さんはどう思う?」と聞かれた。
「えっ?」
「だから、もし自分が女の子を産んだとしたら、誰と結婚してもらいたい?」
「えっ?」
「俺はやっぱり、お父さんかなぁ?」
「……」
「だって、子供の一番身近な存在だし、やっぱ父親が一番じゃない?」
「そうかもしれませんね」
「そうだよな! 高橋さんは、誰がいいと思う? ほら、例えば会社の人でもいいから、誰かいないの?」
「えっと、そうですね。専務がいいと思います」
「専務!?」
「はい。専務が一番いいと思います」
細川さんは声をひそめて、あたしの耳元で言った。
「やっぱりイケメンが好きなの?」
あたしはふつうの声で、答えた。
「将来安泰ですから」
かなりの程度、AIのべりすと様に手伝っていただきました。