一話 契約<壱>
零
白地にカッターシャツに青色のネクタイ、紺色のスラックスの上に膝下まである白衣を身に纏った青年が窓越しに口元をイビツに歪める。
その屈曲した視線の先には仲睦まじそうに肩を並べている少女が二人病院から遠ざかって行く。
ブラインドが音を立てながらもとの形に戻っていく。そして円卓状のアンティーク調のディスクに散らかっているカルテを一枚取り上げて鋭い眼光で睨みつける。
視線を外してもう一度窓の外を見ると少女達の姿は先程よりも進んでいた。
「………西明寺、渚……。」
それだけ言うとカルテをファイルに全てしまいこみ左手でそれを持つとドアを開けて部屋を出た。
テーブルの上には八雲涼と書かれた紙が一枚落ちていた。
壱
朱に染める夕焼けが空を一色に仕上げる。廊下がそれに伴ってゆっくりと色を鮮やかに影と色を共有している。
染まりきっていない病室への扉に小さな手のひらがドアのノブを優しく包み込む。
そして木製のかごに入ったリンゴが揺らされながら赤みがかった茶髪をつれて妹である西明寺 澪のいる病室に渚は足を踏み入れた。
「あ、お姉ちゃんだ。い、やっほーう。」
淡いピンクのパンダ柄のパジャマを着た少女、澪は病院に不相応の笑顔を振りまきながら備え付けのイスをベッド横に寄せ付けた。
渚はありがとう、と言ってそれに腰を落とした。
カバンを足元においてリンゴを片手に持つと澪は子供のように笑顔を輝かせ早くと急かす。
(これで高校一年生になったって言うのだから本当私の妹っていうのが信じられないわ。)
「形はいつもみたいにウサギさんでもいいかしら。」
苦笑交じりに渚が言うと頬を膨らませて可愛らしくお願いします、と顔を背けた。
渚はテーブルからフルーツナイフと皿を取り出すとリンゴを洗うために洗面所に向かう。
「ねぇ澪。最近調子はどうなの。昨日の検査でなにか言われたりした?」
ナイフで切れ込みを入れながら背中越しに渚がいつものように聞く。
「お姉ちゃんしつこいよ。特に何もなかったよ。いつもみたいに注射器を挿されていっぱい血を抜かれて…。あっでもね。なんか知らないけどかなりかっこいい研修医さんがいた。」
いつもよりも生き生きとした声に思わず振り返るとそこには楽しそうに顔を赤らめている澪の姿が映し出されていた。
「はいはい。かっこいいのはわかったからとりあえずは私のリンゴ食べてくれるかな。」
渚が困ったように言うと澪はリスを思わせるようにリンゴを口いっぱいに頬張る。
(……でも澪がかっこいいなんて言うことは本当にそうなのかな?)
渚は思考しながら手を休めることを知らない妹の幸せそうな横顔を眺める。
澪の顔の好みはおもしろいくらいに決まっており、上げるとすれば八頭身、美麗、包容力のある雰囲気、それと手先が綺麗、という四点である。
澪が付き合ったという話は聞いたことがなかったがテレビや雑誌でいつも見ているのは上記したような要点の当てはまる人間ばかりだった。
澪自身が童顔で百五十センチにも満たない小柄な体格のためそういった、いわゆる大人の雰囲気を醸し出している人に憧れを抱くのは仕方のないことかもしれない。
「そういえばお姉ちゃん、この前言ってた新書持ってきてくれた?今日お姉ちゃんに来てもらったのはそれだけのためと言っても過言ではないんだからね。」
酷く心外なことを言われて内心泣かせてやりたい衝動を抑えつつお姉さんとしての理性がそっと学校指定のスクールバッグからブックカバーに守られたそれを手渡す。
澪は嬉しそうにブックカバーに優しく頬擦りしながら眼を細める。
「私もさきに読ませてもらったけれど、良いお話だけど、なんていうか切ないね。」
「勝手に読まないでよ、お姉ちゃん!でも本当に切ないんだよね、この作者の書くお話って……。前の本もとっても悲しいお話だったしなぁ。」
澪は何かの余韻に浸っているのか胸元に本を押し付け、眼を瞑っている。
『second locus』。
それが今二人の話している小説の名前。物語の大筋は主人公の女子高生は勉強を担当教師の紹介で同級生の男子生徒に教えてもらうことになる。主人公の友達たちと時間を共に過ごし、やがてその生徒に恋心を芽生えさせる。
ある日、告白すると返事を待って欲しいと言われ、それに従った。そしてそれから数日後に主人公の親友とその人が付き合うと教えられる。悲しみながらも今までどおりに過ごすが、関係が元通りになることはなくてその二人は次第に友人を失っていく。
そして結局主人公の親友とも別れて、夏休みになる前に転校したと教師に告げられる。
それから主人公達が大人になったある日その人が既に死んでいることが分かり、理由を聞くと自殺を試みようとして脳死になった。そして、脳死になったその日に主人公の親友の心臓移植のドナーとなっていたと教えられる……。
ハッピーエンドとは言いがたくて、バッドエンドと答えることができるかといえばそうとも言えず、友情と恋と死が描かれた作品で、少し前巷でうわさになった、その程度の作品。
「そうそう、そういえばさ、漣君がお見舞いに来てくれたよ。パイナップルパイを持って。」
澪が意味深に笑うとそれまでメールを打っていた渚の手が動きを止める。不自然なくらいの首の動きに加え、先ほどよりも更に色を染め上げた頬が僅かにぐらつく。
「そ、そう。良かったね。ミー、漣君の作ってくれるパイナップルパイ大好きだもんね。」
不自然だった動きも次第に鎮静化されていき、再びメールを打つときのプッシュ音が病室一杯に鳴り響く。
「うん。大好きだよ。………特にお姉ちゃんがね……。」
後半はプッシュ音よりも小さかったにも拘らず、ちゃんと届いていたらしく慌てた渚の手からパールピンクのケータイは滑り落ち、豪快な音と共にバッテリーカバーはベッドの下に、ケータイ本体はイスの真下、バッテリーはその双方の中間地点に飛び跳ねてしまった。
それを見た澪はベッドの上であることも忘れて盛大に笑い転げている。
からかわれた悔しさからか上にあるそれを睨むも意味はなく、仕方なしにスクールバッグをイスに置き憐れなケータイを助ける為にベッドの下に潜り込んだ。
「でもさぁー。早いうちに漣君と付き合ったら良いのにね、お姉ちゃん。」
「ひゃん!お姉ちゃん何してるの?嫌がらせとか?」
あながち冗談とも思っていない言葉を口にすると澪のお尻のあたりに衝撃が襲った。自分の言ったことに対するあてつけかと思いベッドの下を覗き込むとそれが見当はずれだったことを思い知った。
「………お姉ちゃんってさぁ、本当に教科書に書いたような通りの天然さんだよね…。」
あきれ半分、あきらめ半分の澪の視線の先には頭を抑えながら涙目になりつつも痛みに堪えている実姉、渚の姿が映し出されていた。説明するまでもなく、『きっと』とつけても差し支えのないように澪の言った言葉に過剰反応してベッドに頭を激突させたらしい。
涙を振りまきながら必死に首を上下左右に動かしながら否定している渚に呆れながらも手を差し伸べるとその手に掴まり姉妹による救助活動終了。
「…………痛くないもん……。……グズッ…。」
救助から五分経った今でも渚は痛みに耐えており、澪はそんな姉を慰めているシュールな絵が出来上がっていた。結局渚が泣き止んだのはそれからさらに半時間後であった。
「今日はごめんね。明日は何かリクエストしたいものあるかな?時間があればもって来るけど…。」
姉としての威厳を出したいらしいがそんなものはさきのことでパラメーターを振り切ってしまい、今となっては微塵も存在しない。
それにすら気付いていない渚は懸命に努力している。
人はそれを足掻き、と言う……。
「何言ってんの、お姉ちゃん。明日検査も終わりなんだからいらないよ。」
「でも、明日お昼前に学校抜け出してくるからお昼ご飯は一緒に食べようね。」
(生徒会長が堂々とサボりを予告するのはどうかと思うよ、お姉ちゃん。)
内心、苦笑しながら自分に優しい姉、渚がゆっくりと立つ姿を見送る。
「検査が終わったらここで待ってるからね。お弁当よろしく。おかずはちゃんと出し巻き卵ときんぴらゴボウは入れておいてね。」
先ほどまでの泣き顔はどこかにいき満面の笑みで頷くとスキップで出ていった。