愛子の人生
長い年月が過ぎた。日本はあの高度成長期の夢から覚め、政権も代わり新しい時代を模索している。
俊之は一人で東京にいた。32年ぶりの日本だった。冷たい冬の風が、白髪交じりの俊之の長髪を乱している。
俊之は大きく変わった日本に驚きながらも、渋谷に向かっていた。
最初に行きたい場所は愛子と出会ったあの酒場である。それ以外は何も考えていない。
大きく変わった渋谷の街に戸惑いながら、昔の場所にたどり着いた。奇跡的にその酒場は存在していた。
何度も改装したのだろう。やや雰囲気が変わった店内に入る。店はまだ時間が早く客はまばらだった。
ステージもピアノもあったが誰も演奏していない。俊之はカウンターに座り、バーボンのロックを頼む。
もしかしたら愛子に会えるかもしれないという夢みたいな事を考えていた自分に可笑しくなった。
しかし、この場所に来た事は一つの区切りになった。俊之の頭の中に今後の生活の計画がやっとわいてきた。
九州の実家に戻り暮らす事を思いついた。バーボンを飲み干し、カウンターを離れた時、背後からピアノの音色が聞こえてきた。
リベルタンゴだった。思わず振り向いて舞台を見る。一人の女性が弾いていた。長い黒髪とクロづくめの衣装。ピアノの女性はふと顔を上げる。愛子だった。
俊之と愛子は再び視線を合わしたのだった。
愛子は、俊之が去った後、その寂しさを埋めるため積極的に活動をする。次々とヒット曲を出し華々しい時代を迎える。
その後、一緒に活動していたミュージシャンと結婚という噂が上る。ゴシップ記事は早々と結婚という文字を紙面に躍らせる。
ゴシップ相手は、売り出しの話題作りのため一方的に結婚を語る。
俊之の事を待つ決心をしている愛子は困惑してしまった。あまりの騒ぎに、一時的に活動を休養する。
マスコミはそんな愛子に飽き始め、訂正記事を載せる事なく、次の標的を追いかけ始めた。
騒ぎが一段落してほっとしている愛子に、アメリカで俊之が結婚した事を友人から聞かされた。
後からわかったのだが、「愛子結婚」という間違ったゴシップ記事が先にアメリカまで流されていたという。
愛子の驚きは尋常ではなく、休養から引退宣言をする。
そんな愛子を、所属事務所の社長は、献身的に愛子に接する。
その紳士ぶりに愛子は1年後立ち直りを見せ、そのまま結婚をして一男授かった。幸せな生活が続く様に思えたが、夫の新人歌手との浮気のスキャンダルが発覚し5年後離婚をする。
その時出来た一人息子と暮らすが、小学3年生の時に交通事故での死亡してしまう。
さらに友人の会社の借入金の保証人になっていた愛子は、多額の借金を背負う事になる。
その借金を何年にもわたり返済し続け、払い終わると芸能界から引退をする。
その時はすでに、誰も愛子の引退を記事にする雑誌はなかった。だれに引き留められる事なく、静かに消えていった。