ありふれた恋
ある日、俊之は1枚のパネルを大切そうに持ち、酒場へ現れる。
愛子の演奏が終わり、帰ろうとして店を出たとき、俊之は愛子の前に立ちふさがる。
無言で、半切の白黒写真のパネルを差し出す。愛子がピアノを弾いている写真だった。
愛子は警戒して後ずさる。
俊之は一言、「あの時は失礼しました。写真をパネルにしました。受け取って下さい」それだけを懸命な口調でつぶやき、パネルを愛子に押しつけ、そのまま立ち去った。
愛子はそのパネルの写真を見る。白黒のきれいな階調を持った写真だった。愛子は写真も好きだった。写真家を目指す友人もいる。愛子の審美眼はそんな写真家の卵たちの写真に素直な感想を聞かれるままに答える。その感想は常に的確だった。
俊之の写真は技巧的ではなく、素直で嫌みがない。
音楽家に例えるとベートーベンの様な器の大きい繊細さが感じられる。
そんな写真を見て、愛子は俊之の後を追った。
渋谷駅の前で、愛子は俊之をやっと発見する。
小走りに走り俊之に声を掛けた。二人の恋のスタートだった。
それから3ヶ月後、二人は同棲をする。
古いアパートでの4畳半の生活は、ままごとのようでも有り、肩を寄せ合い生活をする兄と妹のようにも見える。
俊之はこんなにも人を好きになれる自分に驚き、愛子は初めての恋人に身も心も捧げる。
二人のデートはほとんど公園だった。
おにぎりを作り二人で散歩をする。お昼には水筒のお茶とおにぎりを食べる。愛子のけなげな賢さを、俊之は心から信頼をしている。
俊之は時折、空にカメラを向ける。何を撮影しているのかと聞くと、雲を撮っていると答える。何気ない自然の輝きを撮影したがっている俊之の優しさに愛子は満足をする。
お互い、不安を慰め合い、勇気づけあう日々が2年ほど続く。