ありふれた青春
昭和30年代。敗戦から立ち直ろうとする日本は不思議な勢いを持っていた。
東京オリンピックの開催により、各家庭に白黒テレビが普及し始め、明るい日本の予感が芽生えていた。みんな豊かさを追い求めて、少しずつ前進している様な時代だった。
フォークソング、反戦活動、ビートルズ、ヒッピーなど色んなキーワードに飛びつき、振り回されながら少年は青年になり、九州の西の果てから、誰もがあこがれだった東京の大学に進学をした。
回りもみんな貧乏な奴ばかりで、新聞配達屋に住み込んで通う先輩や、バイトだけで生活と学費を稼ぎ、授業に出てこない同級生もいた。
その時代の寵児だった、女性タレントのグラビア撮影をするカメラマンという職業にあこがれを抱き、本格的にプロを目指したのは、大学卒業間近の夏の事だ。
1970年代のオイルショックによる経済混乱から大学新卒者は就職難に襲われ、自由に大学生活を満喫していた若者も、髪を切りひげを剃って、就職活動用スーツを着た。
そんな同級生を横目にし、長髪でTシャツ姿のままで先輩の紹介する写真スタジオのアシスタントになった。
高校を卒業してアシスタントに入る人がほとんどで、大学卒業者は珍しく、毎日が掃除と荷物運びと運転。給料は極端に少なく、生きていくぎりぎりの生活。
先の見えない不安と自分の才能のなさに、不安と苦悩の心を往復する時代が始まった。
俊之、25歳の夏だった。
父親はピアニスト、母親は声楽家という芸術一家の一人娘。
3歳からピアノ、バイオリン、クラシックバレーと稽古場と学校しか知らない少女だった。高校生の時、親に内緒で行った映画館。
そこで見たリバイバル上映のウエストサイド物語に心動かされた。そんなどこにでもいる様な、少女のあこがれを胸に抱き成長していった。
地元東京にある音楽大学に進学。
いくつものクラシックピアノコンクールに参加しては、入賞しない不振の時代を迎えていた。
不安といらだちで初めて両親に反抗する。長くきれいな髪を振り乱し、泣きわめきながら、父親にメトロノームを投げつけた。
その日は自分の部屋に閉じこもり、一晩中ベッドに顔を埋め泣き明かす。
困惑した母親はドアの外で泣き崩れ共に一晩を過ごした。次の日の朝、二階の部屋の窓があきっぱなしになっていた。
小さなスーツケース一つを持って家出した娘は、渋谷駅のホームにいた。
愛子、22歳の夏だった。