三点日食
緋色の光が差す非常階段二階に野球部の打球が届いたら、僕は僕を縛るしがらみから脱却する。
眼下に広がるのはグラウンド。綺麗なアラウンド。
濃い土色の地面に陽光が照りつけ、その上に立つ坊主頭の部員たちがミットを上げている。校庭を囲むフェンスの先は民家の影が伸びて色彩を侵食する。
カラスの騒音。打球を叩く金属音。それをかき消そうとする、吹奏楽部の楽器音。
僕は手すりに両腕を預け、手にした精密機械を構える。
やることは一つ。人差し指で引き金を引き、照準の定まった景色を照映する。
これが僕の標準装備。「標準」が社名の、キャノンの一眼レフカメラだ。
小学三年生のとき、誕生日プレゼントとして親戚の叔父さんに貰って以来、大切に使っている。
いまはデジタルカメラの技術が発達して、一眼レフカメラより綺麗に映すことができるけど、叔父さんの過去が詰まっているこのカメラは、時間という一瞬の煌めき切り取ることができる。
ファインダーから目を離すと、一度首を振って、また覗き込む。
僕はこの学校にいる唯一の写真部だ。
昼休みも放課後も、カメラを構えて、超客観的世界を映していく。そのためには炎天下でも雪の降る日でも、じっと耐えて刹那を狙う。
最初は「カッコいい」とか「すごいね」と褒める同級生も、僕のやっていることを知ったら「大変だね」「辛くない?」「そんなにじっと固まって何が楽しいの?」なんて言われる。興味本位で部員になろうとする人も、部活の方針に耐え切れずすぐに辞めてしまう。
正直言うと退屈だ。苦痛だ。何より、孤独だ。
これまで友達なんてできた試しがない。中学も高校も、空いた時間は被写体を探し求め、スポットを見つけ、じっと堪えているだけなんだから。教室では常に浮いていて、愉快気に仲間と話すクラスメートの声を聞くと寂しい気分になる。
どこかで道を間違えたのかな。
そんなことも思う。
孤独は裸の心に吹く冷気だ。熱い火を焚いていないと、理性が息絶えてしまう。
ときどきカッとなって傷害事件を起こす人の気持ちも、街中で無差別殺人を行う凶悪犯の気持ちもわかる。みな孤独の冷気に生きる希望を凍らせられた。世界から孤立して、自分以外のものと繋がりをもてなくて、どうでもよくなってしまうんだ。
だから僕は悩んでいる。
このまま孤独と戦い続けるか。それとも、友達や恋人を作って寄り添って温もりを取るか。
――数日前、進路部の先生から選択を迫られた。
未来だ。
進学か、就職か。
将来何をやりたいか。
僕の家系は、石橋を叩いて渡るくらい堅実な人たちばかり続いている。
祖父は田舎で百姓をして、父は勉強してサラリーマンになった。兄貴は父より勉強していまは役所勤め。
例外は叔父さんで、進学のとき芸大に入りたくて祖父と大喧嘩をした。結局根負けしたけど。
僕の父さんも兄貴も、頭のいい大学に入って会社員や公務員になることを望んでいる。
それが駄目ってわけじゃない。
堅実は美徳だ。
当たり前の幸福を得て、当たり前の家族を手に入れる。当たりはないけどハズレもない、有難みのある生活。でも、ありふれた生活。
僕は、とにかく写真が好きだ。世界で一番好きだ。
朝の希望の光。
雑踏の中で微笑む女子。
空をはばたく渡り鳥。
草木をくぐる昆虫。
この地球はありとあらゆる生命に溢れ、命を紡いでいく。
カメラはそれを教えてくれた。そんなカメラと別れるなんて嫌だ。
僕の夢はカメラマンで世界中を旅すること。そのためには、叔父さんの意思を受け継いで今度こそ美大に行かなきゃならない。
でも、家族は反対する。絶対反対する。対決する前からわかってる。
ただ、そんな僕を後押ししてくれる人もいる。
美術の臨時教師である酒井先生。
酒井先生は二〇代後半の綺麗なお姉さんで、授業を教えるときの後ろ結ったポニーテールがゆらゆら揺れるんだ。彼女は僕が唯一の写真部だと知って、作品を観たいと言いだした。
美大出身の酒井先生は僕の撮った写真を、輝いた眼差しで見ていた。
「悔しい。私もこんな風に絵を描いてみたい」
そうして、絵の題材にするため、焼き増しをねだった。
僕は酒井先生との出会って、これまで心に吹く冷気が途絶えた。芸術の世界に入れば火をともしてくれる人間が現れるのだ。
しかし、同時に不確定な椅子取りゲームに参加することにもなる。
僕の身体に巡る血は、堅実の精神が眠っている。轍を踏み外そうとする足を「おい待てよ!」と引き留めて、わざと血液を凍らせる。
――だから、僕は相棒と賭けをする。
提出期限までその被写体を撮れば夢に踏み出す。
無理なら、諦める。
黄昏。鐘の音。部員の掛け声。ゆらゆら揺れる黒い影。
カキーンとバットの芯に当たる爽快の音が聞こえた。
ファインダーから見える世界は、打球が空に飛んでゆっくりとこちらに向かっていた。
震える指に「落ち着け!」「落ち着け!」諭しながらその瞬間を狙う。
小さな球体が、視界の真ん中にある太陽に接近する。球体は太陽を飛び越えて、滞空すると重力に従って落下する。
力の限りボタンを押し込む指。
僕の希望を込めた大砲が世界を突き刺す。
カメラはその機能とは相反する道具。引き金を引いたその瞬間だけ、この目で見ることができない。
だけど、信じてる。
太陽にくっきりと収まった甲子園の夢を。そしてそれを捉えた丸いレンズを。
僕は首にカメラをかけると、全速力で階段を駆ける。机の奥の引き出しには、苦悩と憤りでくしゃくしゃになった進路希望書。いまようやくそれを出す。
僕は、これからも、孤独と戦う。




