少年と少女と、少年と
窓の向こうに広がる、青く晴れ渡った空が酷く自分を陰鬱な気分にさせた。
動けない体が呪わしい。
個室の病室で、ベッドに上体を起こして窓の向こうを眺めていた。
白い無機質な病室の中には、窓際に置かれたベッドと、そのすぐ横に棚と椅子が一つずつ。それだけ。
それだけしかない。
何もない部屋。
何もないのは、僕が自害しないように看護師達が極力物を減らしたからだ。
窓にも柵がつけられていて、飛び降りを防止しているが、そんなことされなくたって僕は飛び降りなんてしない。
この体では小さな窓から這い出て、飛び降りすることは不可能だ。
棚には本が数冊入っているだけで、他には何も入ってない。
看護師は食事だけでなく、飲み物や着替え、薬なんかを定期的に運んでくる。
食事の際はずっと僕のベッドの脇に座って僕を監視している。
全ては僕を自害させないため。
誰の指示か何て知らないけれど、先生の指示じゃないことだけは確かだ。
先生が興味あるのは、時雨と亜鶴沙だけ。
僕にも、真於にも興味はない。
別に僕はそれでも構わないけれど、真於はきっとそれじゃあ嫌だったんだろうな。
ぼんやりと空を眺めて思った。
柵の合間から見える空は、どこまでも無限に広がっていて、とても美しかった。
思わず手を伸ばしかけたけれど、止めた。
手を伸ばしたところで、空には届かない。
自分の卑小さを知るだけだ。
その時、頭の中で、カサリ、と音がした。
カサカサ、シャクシャク。
頭の中で響く無数の音。
蛆が僕を食べている音。
僕を侵食する音。
それと、同時に聞こえる無数の声。
イタイヨォ。
オナカヘッタヨォ。
アツイアツイアツイアツイアツイアツイ。
イタイ。
クルシイ。
さびしぃ。
カナシイナァ。
アれェ? ドウシタノォ?
あの女嫌い。
キャハハハーー。
ひたすらに苦痛を訴える声。
笑い転げる声。
僕に話しかける声。
様々な声が頭の中で響き続ける。
「……少し黙ってろよ。お前ら」
僕が呟くと、即座に声は返してくる。
エェ! イヤダヨ。
ヤダヤダァ。
イタイ。
どぉーしてどぉーして?
ウンザリするような声。
この正体は蛆だ。
僕を食らう蛆達の声。
僕の能力だ。
蛆虫みたいに湧いて出て、物体を侵食していく様から名付けられた。
その能力の後遺症で、僕の足は能力を発動しないと動かない。
蛆に足の機能を食われたからだ。
他の部分もそう。
蛆は僕の体のあちこちを今も食らい続けている。
いずれ、他の部分も動かなくなるのは必須だろう。
そのうち、全身動かなくなって思考は失われる。心臓も止まる。
これが、蛆の能力の代償だ。
怖くないと言えば嘘になる。
死は恐ろしい。
けれど、それ以上に死の誘惑は魅力的で甘美だった。
気が狂いそうなほど響き続ける声や蝕まれ続ける恐怖。近い将来必ず訪れる死に怯える毎日。
それらから、解放されると思えば一瞬の恐怖など気にならなかった。
左手首には、僕が世界から逃げ出そうとした痕が今も残っている。
右手で左手首の傷痕をなぞる。
痛みはもう感じない。
随分と前の痕だ。
もう完全に塞がっている。
手首を切れば死ねるって言ったのは誰だったか。
痛いだけで、結局死ねなかった。
それでも何度も繰り返したのは、恐ろしかったからか。
コワイノォ?
コワイッテナニ。
なに。ナニ。
コワイ。キライ。イタイ。
クルシィヨォ。
助ケテ。助ケテ。
騒ぎ続ける蛆にウンザリするが、いつものこと。
無視してるとさらに騒ぐので、仕方なく疑問に答えてやる。
「お前らにもそのうち、分かるよ」
ソノウチ。
そのうち。
ワカル。ワカル。
キャハハハ。
キャハハハ。
オイシィ。オイシィ。
シャクシャクーー。
響く侵食の音。
今は何時だろう。
体をベッドに倒し、天井を見上げる。
部屋に時計はない。
僕が時計を壊してその破片で首を切ったからだ。
上手く切れなくて、そのせいで僕は助かった。
あまり深く切れなかったということと、傷を蛆が治したことで僕は助かった。
助かってしまった。
蛆は侵食した相手をコントロールする事ができる。
僕の体をコントロールして、傷口の治癒能力を一時的に上げたのだろう。
よく見ないと分からないほど、傷痕も残っていない。
蛆は他の能力とは違い意思を持っている。
意思を持ち行動している。
これが他の能力とは違うところ。
普通は能力者がコントロールしない限り能力は発動も停止もしない。
まぁ、コントロールしなくても発動することもあるけれど、それは能力者が未熟なだけだ。
僕がコントロールしなくても、蛆達はそれぞれで考えて行動する事ができる。
そこが厄介なところでもある。
僕の命令を聞かないことも多々ある。
意思を持った能力なんて、面倒なだけ。
良いことなんて一つもない。
けれど、それを羨ましいと言う者もいる。
「良いこと何て一つもないのに……」
呟いた声は部屋に吸収されていくかのように、消えていく。
静かな部屋に響くものはもう何もない。
無音の空間。
呼吸音でさえ、聞こえないほどの静けさ。
夏、真っ盛りだっていうのに、蝉の声一つしない。
静かなものだ。
僕の頭の中でだけ蛆が囁いている。
コンコンーー。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
ドアを見ると、ノックした人間はこちらの返事を待つことなく入ってくる。
「こんにちは」
そう言って部屋に入ってきたのは、黒い衣装に身を包んだ女。
途端、蛆が騒ぎだす。
コノ女キライーー。
キライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライキライ。
キラィィィ。
消エロ消エロ。
殺シテヤル。
嫌い。
しね。
死んじゃエ。
嫌イ。嫌イ。嫌イ。
蛆が騒ぐとズキズキと頭が痛む。
「……っ」
頭を手で押さえて痛みに堪える。
「手短に用件を言う」
そんな僕を見て女は淡々と言った。
僕は顔を女に向ける。
「それよりも、……っ。胡蝶は、どうなったんだよ?」
僕はずっと気になっていたことを聞いた。
前回ここに来たときに言った言葉。
胡蝶が暴走したーー。
どうして?
「その胡蝶から電話」
そう言って女は旧型の携帯電話を差し出す。
僕の頭の中には疑問符が浮かぶ。
が、出ない訳にはいかない。
疑問はこの女ではなく直接本人に聞けばいい。
僕はゆっくりと、上体を起こして携帯電話を受け取る。
耳に携帯を当てると、それを察したかのように電話の向こうで彼が喋った。
「……亜津兎?」
目を閉じて、その声を吟味する。
「すみません……。急に」
変わらない。懐かしい声。
まだ数年しか経っていないというのに、懐かしく感じた。
あの頃の記憶が蘇る。
僕達が一緒に遊んでいた子供の頃のこと。
今もまだ子供だけれど、あの頃はもっと子供だった。
一人過去に思いを馳せていると、電話の向こうで彼は話を続ける。
「あなたにどうしても、聞きたいことがあるんです……」
僕はずっと黙っていた。
ベッドの脇に立って、女は黙ってこちらを見つめている。
彼女が来たときに騒ぎだした蛆は彼が話すと急に静まり返った。
まるで、胡蝶を恐れているかのようにーー。
久しぶりの静寂。
ゾッとするほどの静けさに、心の奥底から恐怖が沸き上がってくる。
まるで、死の前兆のようで不気味だ。
あれほど、死を望んでいても尚、死を恐れる自分が酷く滑稽に思えた。
「亜津兎。君の蛆で、自分の意思を遠くにいる人物に届けることは可能ですか?」
電話の向こうで蝉が鳴いていた。