侵食、そして破戒
先生が怒ってる。
真っ白ないつもの診察室で僕は思った。
先生は普段、自分の感情を表に出さない人だ。
その先生が今、僕の前で怒っている。
ううん。
僕は内心で首を振った。
違う。
失望しているんだーー。
僕がーー。
間違えたからーー。
* * * * *
亜鶴沙の瞳が真っ青に染まっている。
外人でもそうそういないような青。
鮮やかな美しい青色。
なのにそれは青空よりも濁った色、海よりももっと暗い深海の色のように感じられた。
まさに深淵の色と言うにふさわしい、そんな色。
「亜鶴沙……?」
亜鶴沙は俺の声に一切の反応を見せずに立ち上がった。
すると、それに合わせたかのように辺りから無数の蝶が現れた。
亜鶴沙の瞳と同じ色をした、青い蝶。
「何!? 何なのよ!! これ!」
桜の少女が錯乱状態で叫ぶ。
木の根は蝶に襲いかかる。
蝶はひらりとかわそうとするが根の素早さに負けて、その羽を引き千切られ地面に落ちる。
だが、蝶のほうが数が多いため減ることはない。
むしろどんどん増えてきている。
少女は辺りを見回す。
そして、その目が亜鶴沙を見て止まる。
「貴方、一体何なの……?」
その言葉に亜鶴沙は答えない。
反応すら見せない。
俺は痛みと出血で意識が朦朧とし始めていた。
まずい。
血が止まらない。
視界が霞む。
その時、青い塊が俺の前に現れた。
それは一匹の蝶だった。
蝶が傷口を押さえた手の上にとまると、羽をゆっくりとぱたつかせる。
青い色の鱗粉が舞い散った。
すると、痛みがすーっと引いていく。
嘘だろ。
血が止まり、破れた服の隙間から目に見える速さで傷口が塞がっていった。
嘘だろう。
木の根が動いたことだって、嘘みたいなのに。
俺は夢を見ているのか?
* * * * *
懐かしい夢を視たーー。
あの日以来ずっと見ていなかった夢だ。
真っ暗な闇の中。
ひとりぼっちの僕ーー。
手を伸ばしても何も掴むことは出来やしない。
伸ばした自分の手すら見ることの出来ない暗闇。
僕は一人その場に佇んでいた。
すると、遠くに青白い小さな光が見える。
それはゆらゆらと動き僕に近づいてくる。
それは一羽の蝶だった。
青い光を放つ蝶。
僕の化身。
蝶に向かって手を伸ばすと僕の指先に止まる。
その部分だけが青い光に照らされ、その姿を見せた。
『ああーー』
声を出してみても、その音が耳に届くことはないーー。
『またやったんだーー』
思わず顔を両手で覆ってしまう。
蝶は僕の手を離れる。
上手く出来ると思ったのにーー。
結局、また駄目だった。
泣きたいような気がしたけれど、涙は出なかった。
手を顔から離すとそこにはまた蝶が止まった。
顔をあげるといつの間にか蝶は一羽だけではなくなっていた。
青い光が僕を照らす。
“約束を破ったな”
今にもそう言う先生の声が聞こえてくるような気がした。
けれどそれは妄想に過ぎず、相変わらず無音の闇が僕にまとわりついている。
『叱責の言葉すら言ってくれないんだね』
恐ろしくなるほどの無音の中。
青い蝶は瞬く。
『ごめん。真於』
謝ったって許してなんかくれないよね?