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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
6/31

第6章 研究ノート —「理解の輪郭」



 深夜の2時。

 団地の屋根に、静かに雨が降っていた。

 その音が、まるで時間の代わりに刻まれているようだった。


 亮介は、息子の研究ノートを再び開いていた。

 何度読んでも理解の外側にある難解な数式と、

 一見雑然としているが、確かな導線で結ばれた図。


 “未来を逆算する”

 息子が好んで使っていた言葉。


「その速度で……走り過ぎたんだな」


 呟きは、涙に濡れたページに落ちた。



 朝。

 キッチンの空気は冷え切っていた。


 さつきは、食卓に亮介の分の味噌汁を置き、

 しかし自分の席には座らなかった。

 洗面所へ向かう背中は硬直している。


「さつき——」


「言わないで」


 切断するような声。


「何も言わないで。

 聞きたくない」


 亮介は、言葉を失う。

 昨晩医師と話したこと、研究が進んでいること、

 すべて伝えたかった。

 だが、どんな言葉も棘に変わる。


「あなたは仕事してた。

 息子はひとりで泣いてた。

 私は知らなかった。

 でも、あなたは知ってたのよね?」


「知っていた……けど——」


「なら、どうして」


 彼女の目は涙で濡れ、

 しかしその涙は、亮介を許さない。


「あなたは、あの声を聞いていたのよ。

 襖の向こうで、泣いていた声を」


「……聞いた」


「なのに、助けなかった」


 亮介は椅子の背を掴んだ。

 足元が崩れるような感覚。


「息子は、あなたのすぐそばにいたのに」


 言い返す言葉は、どこにも見つからない。


「私は……どうすればいいの?

 息子がいない世界で……」


 それは叫びではなく、

 音にすらならないほどの、深い嘆きだった。


 亮介は、その声を抱きしめたいと手を伸ばす。

 だが、さつきは振り払う。


 距離は、近いほど遠くなる。



 昼。

 亮介は、研究ノートを抱えて大学へ向かう。


 研究棟の廊下で、白石が待っていた。


「……お父さん」


 白石は努めて明るく言った。


「スマホ、解析の目処が立ってきました。

 暗号化されてて時間かかりますけど」


「ありがとう……」


「こっちが……助けてほしいんです。

 悠人さんの研究、完成させたい」


 白石の指が震える。


「だって……あいつ、本当に優しかった。

 自分が困っても、笑ってごまかして……」


 そして息を詰まらせた。


「だから……なんで死んだのか、私だって知りたい」


 その言葉は、亮介の胸の奥に、

 鋭く、しかし温度を持って届いた。



 教授がノートを受け取り、

丁寧にページをめくる。


「これは……認知科学と脳工学の境界領域だ。

 UCS(Unified Cognitive Scaffold)理論の応用……?」


 専門語が並ぶが、

 亮介は気にしなかった。


「理解できるんですか」

「解読には時間が必要です。

 ただ——」


 教授は、あるページを示した。


 統合失調症、ADHD、うつ病。

 それぞれの認知特性のマッピング。

 そして中央に、一行。


“みんなの脳が、生きやすい未来へ”


 教授は言った。


「ご子息は、自身の苦悩を、

 世界の誰かの希望へ変えようとしていた」


 亮介の視界が滲む。


「だったら……どうして」


 思わず漏らした疑問。


「誰よりも未来を信じていた者が、

 未来を手放すことがあります」


 教授はゆっくりとノートを閉じた。


「そんな心は……壊れやすい」



 帰宅すると、

 家の中は静まり返っていた。


「さつき?」


 返事はない。

 寝室の扉は閉じられたまま。


 亮介は、ためらいながらドアの前に立つ。


「俺は……息子のこと、

 絶対にあきらめない」


 静寂だけが応じる。


 夫婦は、同じ喪失の中で、

 別々の苦しみ方をしていた。



 夜。

 机に広げたノートの文字が、

 徐々に理解の形を持ち始める。


 息子の思考は、

 遠い未来からの伝言のようだ。


「悠人……

 どこまで、一人で行ってしまったんだ」


 亮介は、ページの余白に指を置く。


 その余白だけが、

 息子と父の距離だった。


 数ミリ。

 たったそれだけの空白に、

 すべてが失われた。


 雨がまた降り出す。

 明日が来る音がする。


「必ず、見つける」


 その小さな誓いは、

 静かに息をしていた。


第6章 完


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