第6章 研究ノート —「理解の輪郭」
深夜の2時。
団地の屋根に、静かに雨が降っていた。
その音が、まるで時間の代わりに刻まれているようだった。
亮介は、息子の研究ノートを再び開いていた。
何度読んでも理解の外側にある難解な数式と、
一見雑然としているが、確かな導線で結ばれた図。
“未来を逆算する”
息子が好んで使っていた言葉。
「その速度で……走り過ぎたんだな」
呟きは、涙に濡れたページに落ちた。
◆
朝。
キッチンの空気は冷え切っていた。
さつきは、食卓に亮介の分の味噌汁を置き、
しかし自分の席には座らなかった。
洗面所へ向かう背中は硬直している。
「さつき——」
「言わないで」
切断するような声。
「何も言わないで。
聞きたくない」
亮介は、言葉を失う。
昨晩医師と話したこと、研究が進んでいること、
すべて伝えたかった。
だが、どんな言葉も棘に変わる。
「あなたは仕事してた。
息子はひとりで泣いてた。
私は知らなかった。
でも、あなたは知ってたのよね?」
「知っていた……けど——」
「なら、どうして」
彼女の目は涙で濡れ、
しかしその涙は、亮介を許さない。
「あなたは、あの声を聞いていたのよ。
襖の向こうで、泣いていた声を」
「……聞いた」
「なのに、助けなかった」
亮介は椅子の背を掴んだ。
足元が崩れるような感覚。
「息子は、あなたのすぐそばにいたのに」
言い返す言葉は、どこにも見つからない。
「私は……どうすればいいの?
息子がいない世界で……」
それは叫びではなく、
音にすらならないほどの、深い嘆きだった。
亮介は、その声を抱きしめたいと手を伸ばす。
だが、さつきは振り払う。
距離は、近いほど遠くなる。
◆
昼。
亮介は、研究ノートを抱えて大学へ向かう。
研究棟の廊下で、白石が待っていた。
「……お父さん」
白石は努めて明るく言った。
「スマホ、解析の目処が立ってきました。
暗号化されてて時間かかりますけど」
「ありがとう……」
「こっちが……助けてほしいんです。
悠人さんの研究、完成させたい」
白石の指が震える。
「だって……あいつ、本当に優しかった。
自分が困っても、笑ってごまかして……」
そして息を詰まらせた。
「だから……なんで死んだのか、私だって知りたい」
その言葉は、亮介の胸の奥に、
鋭く、しかし温度を持って届いた。
◆
教授がノートを受け取り、
丁寧にページをめくる。
「これは……認知科学と脳工学の境界領域だ。
UCS(Unified Cognitive Scaffold)理論の応用……?」
専門語が並ぶが、
亮介は気にしなかった。
「理解できるんですか」
「解読には時間が必要です。
ただ——」
教授は、あるページを示した。
統合失調症、ADHD、うつ病。
それぞれの認知特性のマッピング。
そして中央に、一行。
“みんなの脳が、生きやすい未来へ”
教授は言った。
「ご子息は、自身の苦悩を、
世界の誰かの希望へ変えようとしていた」
亮介の視界が滲む。
「だったら……どうして」
思わず漏らした疑問。
「誰よりも未来を信じていた者が、
未来を手放すことがあります」
教授はゆっくりとノートを閉じた。
「そんな心は……壊れやすい」
◆
帰宅すると、
家の中は静まり返っていた。
「さつき?」
返事はない。
寝室の扉は閉じられたまま。
亮介は、ためらいながらドアの前に立つ。
「俺は……息子のこと、
絶対にあきらめない」
静寂だけが応じる。
夫婦は、同じ喪失の中で、
別々の苦しみ方をしていた。
◆
夜。
机に広げたノートの文字が、
徐々に理解の形を持ち始める。
息子の思考は、
遠い未来からの伝言のようだ。
「悠人……
どこまで、一人で行ってしまったんだ」
亮介は、ページの余白に指を置く。
その余白だけが、
息子と父の距離だった。
数ミリ。
たったそれだけの空白に、
すべてが失われた。
雨がまた降り出す。
明日が来る音がする。
「必ず、見つける」
その小さな誓いは、
静かに息をしていた。
第6章 完




