◆ 第6章:漆黒域
——見えない底が、手を伸ばす
1
朝。
アラームの音が、
海底まで届かない。
遼は布団の中で
身体の重さに押し潰されていた。
(起きなきゃ)
頭では理解している。
でも――胸の奥に鉛の塊が沈んで動かない。
時計の針が進む音が、
罪悪感の秒読みになる。
「遼、遅刻しちゃうよ!」
母の声が扉の向こうで弾む。
その明るさが
痛かった。
2
大学へ向かう坂道。
息がすぐに上がる。
足取りが重い。
周囲の人の笑い声が、
異国語のように遠い。
みさきが走り寄る。
「安藤くん!どうしたの、顔色悪——」
言葉が途中で止まる。
遼の視線は、
彼女の肩越しに遠くを見ていた。
焦点が合わない。
光を掴めない。
「……寝不足」
みさきの瞳が
わずかに震えた。
“大丈夫じゃない”と
声が言っている。
3
講義室。
板書が音を立てて崩れていく。
意味が溶ける。
文字が波のように揺れる。
(おかしい
何が悪い?
何をすれば?)
右手が震え、
ノートの線が踊る。
隣の海斗が覗き込む。
「お前、マジでやばいだろ。
保健センター行こ」
「平気だって」
声が擦れる。
(平気じゃなきゃいけない
平気じゃないと捨てられる)
4
休憩中。
トイレの個室に逃げ込む。
冷たいタイル。
狭い空間。
落ち着くはずなのに――
壁が迫ってくる。
呼吸が浅く速くなる。
指先が痺れる。
(まただ
どうして
どうしたら)
胸に手を押し当て、
必死に音を抑える。
ドアの外の雑談が、
遠くで泡のように弾けていた。
5
帰宅。
母の笑顔。
「おかえり!ハンバーグ作ったよ。
遼の好きなやつ!」
嬉しいはずだ。
なのに――胸に刺さる。
(期待され続けるのが苦しい)
「……あとで食べる」
「え、冷めちゃうよ?」
「いいから」
語気が強くなった瞬間、
母の瞳が揺れた。
罪悪感が即座に遼を殴る。
食卓の明るさが
敵になることがある。
6
部屋の中。
カーテンを閉め切る。
暗くすると、少し呼吸が戻る。
深海魚図鑑を開く。
青く光る生き物たち。
〈光が届かない場所で、
それでも生きる〉
ページの文字が
波のように歪む。
(僕は……
ここに向かっている?)
暗闇に落ちることが
救いのように思える瞬間がある。
光が苦しいとき、
人は影を求める。
7
スマホが震える。
みさき《無理しないでね
疲れたら休んでほしい》
その言葉が、
優しさの刃になる。
(休むための余白が
もう残っていない)
遼は
指が動かない手を見つめた。
返信する気力のないことすら
「裏切り」になる。
静かに息を吸った。
暗い水が
肺の中に満ちていく。
天井の隅で
青い光が揺れて見えた。
——錯覚だ。
深海の底は、
まだ文字どおりではない。
でも。
足は確実に、
そこへ向かって沈んでいる。
第6章「漆黒域」 完




