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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード2
27/31

◆ 第6章:漆黒域



——見えない底が、手を伸ばす


1

朝。

アラームの音が、

海底まで届かない。


遼は布団の中で

身体の重さに押し潰されていた。


(起きなきゃ)


頭では理解している。

でも――胸の奥に鉛の塊が沈んで動かない。


時計の針が進む音が、

罪悪感の秒読みになる。


「遼、遅刻しちゃうよ!」


母の声が扉の向こうで弾む。


その明るさが

痛かった。


2

大学へ向かう坂道。

息がすぐに上がる。

足取りが重い。


周囲の人の笑い声が、

異国語のように遠い。


みさきが走り寄る。


「安藤くん!どうしたの、顔色悪——」


言葉が途中で止まる。


遼の視線は、

彼女の肩越しに遠くを見ていた。


焦点が合わない。

光を掴めない。


「……寝不足」


みさきの瞳が

わずかに震えた。


“大丈夫じゃない”と

声が言っている。


3

講義室。

板書が音を立てて崩れていく。

意味が溶ける。

文字が波のように揺れる。


(おかしい

 何が悪い?

 何をすれば?)


右手が震え、

ノートの線が踊る。


隣の海斗が覗き込む。


「お前、マジでやばいだろ。

 保健センター行こ」


「平気だって」


声が擦れる。


(平気じゃなきゃいけない

 平気じゃないと捨てられる)


4

休憩中。

トイレの個室に逃げ込む。


冷たいタイル。

狭い空間。

落ち着くはずなのに――


壁が迫ってくる。


呼吸が浅く速くなる。

指先が痺れる。


(まただ

 どうして

 どうしたら)


胸に手を押し当て、

必死に音を抑える。


ドアの外の雑談が、

遠くで泡のように弾けていた。


5

帰宅。

母の笑顔。


「おかえり!ハンバーグ作ったよ。

 遼の好きなやつ!」


嬉しいはずだ。

なのに――胸に刺さる。


(期待され続けるのが苦しい)


「……あとで食べる」


「え、冷めちゃうよ?」


「いいから」


語気が強くなった瞬間、

母の瞳が揺れた。


罪悪感が即座に遼を殴る。


食卓の明るさが

敵になることがある。


6

部屋の中。

カーテンを閉め切る。

暗くすると、少し呼吸が戻る。


深海魚図鑑を開く。

青く光る生き物たち。


〈光が届かない場所で、

 それでも生きる〉


ページの文字が

波のように歪む。


(僕は……

 ここに向かっている?)


暗闇に落ちることが

救いのように思える瞬間がある。


光が苦しいとき、

人は影を求める。


7

スマホが震える。


みさき《無理しないでね

    疲れたら休んでほしい》


その言葉が、

優しさの刃になる。


(休むための余白が

 もう残っていない)


遼は

指が動かない手を見つめた。


返信する気力のないことすら

「裏切り」になる。


静かに息を吸った。


暗い水が

肺の中に満ちていく。


天井の隅で

青い光が揺れて見えた。

——錯覚だ。


深海の底は、

まだ文字どおりではない。


でも。

足は確実に、

そこへ向かって沈んでいる。


第6章「漆黒域」 完


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