◆ 第5章:温度の断絶
——優しさほど、逃げられない
1
夕食の食卓。
湯気の立つ味噌汁の匂い。
母が箸をそっと置き、遼を見つめる。
「最近、忙しい?」
「ちょっとだけ」
「そう……
でもちゃんと食べてる?
寝てる?
友達とは、うまくやれてる?」
質問が次々に降ってくる。
気遣いであり、愛情。
それはわかっている。
だが遼の胸は、
少しずつ締めつけられていった。
(答えを間違えたら、
この優しさを壊してしまう)
「うん、大丈夫」
その言葉しか返せない。
嘘が口の中で苦い。
2
食後、母が洗い物をしながら話し続ける。
「大学楽しそうで良かった。
遼は小さい頃から頑張り屋だし、
きっと上手くいくよ」
遼は背中が熱くなる。
“頑張り屋”
その言葉が、呪いだった。
(頑張れていない自分を
見せたら捨てられる)
愛を裏返すと思考は残酷になる。
母は変わっていない。
変わったのは遼の内側だけだ。
それでも、責める矛先は
必ず自分に向かう。
(全部僕が悪い)
3
部屋へ戻る途中。
母の声。
「遼、お風呂沸いたよ!
早く入らないと冷めちゃう」
遼は深く息を吸う。
「後で入る」
「じゃあ、先に入っちゃうよ?」
「……どうぞ」
そのやり取りすら疲れる。
優しくされたくない。
でも、優しくされないともっと苦しい。
どちらを選んでも痛む。
4
机の前。
教科書を開く。
ノートを開く。
ペンを握る。
何も動かない。
(できない。
なんで?)
それは“怠け”でも“甘え”でもなく、
脳が限界に追い込まれたサイン。
だが遼は
自分を罰する方を選ぶ。
(母さんは信じてくれているのに
僕は裏切っている)
机に爪が食い込む。
5
扉がノックされる。
「遼?
お風呂入らないの?」
優しい声。
ただ優しい声。
「……後で」
声が震える。
母は気づかない。
優しさが刃物になることに。
「無理しないでね。
遼は遼のままでいいから」
(その“まま”が
一番醜いのに)
心臓が冷たくなる。
6
ベッドに倒れ込む。
薄暗い部屋。
天井の明かりを消すと、
かすかな街灯がカーテン越しに揺れる。
愛されているのが苦しい。
愛されているのに苦しい。
矛盾が押しつぶす。
母は何も悪くない。
だから余計に逃げられない。
静かに涙が滲む。
涙の意味が
自分でもわからない。
7
手首の青いバンドが、
微かに光るように見えた。
みさきの存在が
まだ救いであるはずなのに。
今はそれすら負担だった。
生きる理由が
一時的に増えると
失う未来の痛みが増える。
遼は薄い呼吸を繰り返す。
母の足音が
廊下の向こうへ遠ざかる。
その音が聞こえるたび、
距離が生まれていく。
愛を感じるたび、
孤独が深くなる。
深海の底に、
静かに沈んでいく。
第5章「温度の断絶」完




