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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード2
26/31

◆ 第5章:温度の断絶



——優しさほど、逃げられない


1

夕食の食卓。

湯気の立つ味噌汁の匂い。

母が箸をそっと置き、遼を見つめる。


「最近、忙しい?」


「ちょっとだけ」


「そう……

 でもちゃんと食べてる?

 寝てる?

 友達とは、うまくやれてる?」


質問が次々に降ってくる。

気遣いであり、愛情。


それはわかっている。


だが遼の胸は、

少しずつ締めつけられていった。


(答えを間違えたら、

 この優しさを壊してしまう)


「うん、大丈夫」


その言葉しか返せない。


嘘が口の中で苦い。


2

食後、母が洗い物をしながら話し続ける。


「大学楽しそうで良かった。

 遼は小さい頃から頑張り屋だし、

 きっと上手くいくよ」


遼は背中が熱くなる。


“頑張り屋”

その言葉が、呪いだった。


(頑張れていない自分を

 見せたら捨てられる)


愛を裏返すと思考は残酷になる。


母は変わっていない。

変わったのは遼の内側だけだ。


それでも、責める矛先は

必ず自分に向かう。


(全部僕が悪い)


3

部屋へ戻る途中。

母の声。


「遼、お風呂沸いたよ!

 早く入らないと冷めちゃう」


遼は深く息を吸う。


「後で入る」


「じゃあ、先に入っちゃうよ?」


「……どうぞ」


そのやり取りすら疲れる。


優しくされたくない。

でも、優しくされないともっと苦しい。


どちらを選んでも痛む。


4

机の前。

教科書を開く。

ノートを開く。

ペンを握る。


何も動かない。


(できない。

 なんで?)


それは“怠け”でも“甘え”でもなく、

脳が限界に追い込まれたサイン。


だが遼は

自分を罰する方を選ぶ。


(母さんは信じてくれているのに

 僕は裏切っている)


机に爪が食い込む。


5

扉がノックされる。


「遼?

 お風呂入らないの?」


優しい声。

ただ優しい声。


「……後で」


声が震える。


母は気づかない。

優しさが刃物になることに。


「無理しないでね。

 遼は遼のままでいいから」


(その“まま”が

 一番醜いのに)


心臓が冷たくなる。


6

ベッドに倒れ込む。


薄暗い部屋。

天井の明かりを消すと、

かすかな街灯がカーテン越しに揺れる。


愛されているのが苦しい。

愛されているのに苦しい。


矛盾が押しつぶす。


母は何も悪くない。

だから余計に逃げられない。


静かに涙が滲む。


涙の意味が

自分でもわからない。


7

手首の青いバンドが、

微かに光るように見えた。


みさきの存在が

まだ救いであるはずなのに。


今はそれすら負担だった。


生きる理由が

一時的に増えると

失う未来の痛みが増える。


遼は薄い呼吸を繰り返す。


母の足音が

廊下の向こうへ遠ざかる。


その音が聞こえるたび、

距離が生まれていく。


愛を感じるたび、

孤独が深くなる。


深海の底に、

静かに沈んでいく。


第5章「温度の断絶」完


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