◆ 第4章:分断の教室
——見える人と、見えない人
1
昼下がりの講義室。
遼は、ノートを取る手を止めた。
集中しようとするほど、
黒板の文字が遠のく。
(なんで、何も入ってこない?)
鉛筆を握り直す。
手の震えが小さく、
だが確実に続いている。
「安藤くん?」
横から、みさきの声。
覗き込む瞳。
「大丈夫?」
笑ってみせた。
上手く笑えたかは自信がない。
「ちょっと寝不足で」
(違う。もっと根が深い)
だが、真実は言えない。
言ったら、離れられる気がする。
2
休み時間。
海斗が遼を通路に引っ張った。
「お前さ、顔色悪い。
無理してねえ?」
「無理なんか——」
否定の途中で、
海斗の眉がわずかに歪む。
「前の遼なら、
“無理してない”って
もっと堂々と言えてた」
遼は言葉を失った。
確かに、
その自信はどこかで置いてきてしまった。
「……みさきちゃんの前で、
頑張りすぎてない?」
心臓が掴まれたみたいに痛む。
図星。
でも認めたら、崩れてしまう。
「関係ない」
「あるよ」
海斗は真っ直ぐだった。
「好きな子に会うために頑張るのはいい。
でも、自分を削ってまでやるな」
遼は俯いた。
靴紐の先が滲んで見えた。
3
みさきは、遼の変化に気づいていた。
講義後、
廊下で肩を叩く。
「今日、一緒に帰らない?」
「ごめん、課題が……」
言った瞬間、
みさきの目が寂しそうに揺れた。
(ああ……傷つけた)
そう思った瞬間、
罪悪感が全身を締めつける。
「……やっぱり帰る」
「え?」
「課題、後でやる」
みさきは笑った。
嬉しそうに。
だが遼の内側では、
紅い警告灯が点滅していた。
“優しさ”が自分を壊していく。
4
バス停へ向かう途中。
遼はふと立ち止まった。
目の前の人々が、
ざわめきの中で
まるで別世界の住人のように見える。
(みんな、ちゃんと生きられてる)
自分だけが、
どこか欠けている。
人の声が遠い。
色彩が少し褪せる。
みさきの声だけが、
浮き上がって響く。
「安藤くん?」
「……なんでもない」
その言葉は、
もう盾にしかなっていない。
5
帰宅後。
遼は机に向かうが、
文字列は視界をすり抜ける。
時計の秒針がうるさい。
呼吸が浅い。
心拍が速い。
(やらなきゃ。
できない。
なんで?)
紙の端を握る手が痛い。
スマホが震える。
みさき《今日楽しかったね。
また一緒に帰ろう》
返す言葉が、
浮かばない。
好意を向けられると、
それだけで責められているようだった。
6
ベッドに横になる。
天井が、
ゆっくりと沈むように見える。
目を閉じると、
水が満ちてくる。
胸の奥から。
音もなく。
暗い潮が。
光を吸い込む深海。
その底に、
自分の輪郭が沈んでいく。
恋の光はまだある。
だがその光は
遼を照らすよりも、
弱さの影を濃くしていく。
明日の約束が、
苦しくなり始めていた。
第4章「分断の教室」 完




