第1章 水面の向こうで
◆ 第1章:水面の揺らぎ
——まだ誰も、気づかない
1
春の風が、大学の並木道をくすぐった。
若葉の緑はまぶしく、
まるで世界がこれから始まると告げているようだった。
遼は、歩幅を少し大きくして歩いた。
自分がその「始まり」の列に
ちゃんと並べている気がしたから。
入学から2年。
日常はすでにルーティンになった。
教室に行き、講義を受け、帰る。
ただそれだけのはずなのに——
時々、胸のどこかが空洞になる。
誰かが一瞬、
そこへ風を通したように。
理由はわからない。
でも、気づかないふりをしていた。
まだ、この感覚は小さい。
2
席に着くと、前の方にいる女子が手を振った。
鹿島みさき。
同じ理学部、同じ必修科目。
いつの間にか名前を覚えていた。
「安藤くん、おはよ」
「……おはよう」
笑顔が、
過剰なくらいまっすぐだった。
それが少し眩しい。
みさきは、教科書の端に描いた
深海魚の落書きを見つけて
小さく笑った。
「好きなんだね、これ」
「うん。暗くても、生きてるから」
軽い雑談のつもりだった。
けれど、自分でも意外な言葉がこぼれた。
みさきは一瞬だけ驚き、
それから優しくうなずいた。
「暗い方が落ち着く生き物もいるよね」
その言葉が、
遼の胸の空洞を一瞬だけ塞いだ。
3
講義の終わり際、
隣の席の佐藤海斗が肘で突いてくる。
「なあ遼、今日ゲーセン行かね?」
「……また?」
「まただよ。何か悪いか。
最近のお前、真面目すぎんだって」
海斗は屈託がない。
太陽に似ている。
遼にとっては、近すぎる太陽だった。
「まあ、気が向いたら」
「気が向け!」
笑い声が響く。
遼も笑った。
嘘じゃない。
でも、少しだけ力がいる笑いだった。
4
帰り道。
家まで続く坂は長い。
大学の丘を下りきると、
街が広がる。
遼はポケットの中のスマホを開いた。
未読のメッセージがいくつかある。
母からのもの。
《新生活どう?
無理しないでね》
「無理してないよ」
独り言が漏れた。
本当のところは、自分でもよくわからない。
深呼吸。
肺に入った空気は冷たかった。
5
夜。
机に広げた教科書は
ほとんど進まない。
ページをめくるたび、
心の奥にあるノイズが
色を濁らせた。
天井の明かりが
視界の端で波打つ。
「なんでうまくできないんだろう」
そんなに難しいことじゃない。
他の人はできている。
なのに自分は、
気持ちがすぐに摩耗してしまう。
深海魚図鑑を手に取る。
その青が、唯一呼吸できる色だ。
暗闇でも生きている命がある。
遼は、
まだ自分もそうだと信じたかった。
6
ベッドに横たわりながら
瞼を閉じる。
夏に近づく夜は明るい。
カーテン越しの街灯が
水面の揺らぎのように揺れていた。
眠れるはずだ。
疲れているはずだ。
今日も笑った。
今日も、まだ大丈夫だった。
ただ──
胸の奥のあの空洞が
少しだけ広くなった気がした。
原因も、理由も、対策もない。
ただ、広がる。
ほんの少し。
誰にもわからないくらい。
深海から、
静かな潮が満ちてくる。
明日もたぶん笑える。
でも、
その笑顔の裏側に
ゆっくり揺れる水面の歪みを
遼はまだ知らない。
第1章「水面の揺らぎ」完




