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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード2
22/31

第1章 水面の向こうで



◆ 第1章:水面の揺らぎ


——まだ誰も、気づかない


1

春の風が、大学の並木道をくすぐった。

若葉の緑はまぶしく、

まるで世界がこれから始まると告げているようだった。


遼は、歩幅を少し大きくして歩いた。

自分がその「始まり」の列に

ちゃんと並べている気がしたから。


入学から2年。

日常はすでにルーティンになった。

教室に行き、講義を受け、帰る。

ただそれだけのはずなのに——


時々、胸のどこかが空洞になる。


誰かが一瞬、

そこへ風を通したように。


理由はわからない。

でも、気づかないふりをしていた。

まだ、この感覚は小さい。


2

席に着くと、前の方にいる女子が手を振った。

鹿島みさき。

同じ理学部、同じ必修科目。

いつの間にか名前を覚えていた。


「安藤くん、おはよ」


「……おはよう」


笑顔が、

過剰なくらいまっすぐだった。

それが少し眩しい。


みさきは、教科書の端に描いた

深海魚の落書きを見つけて

小さく笑った。


「好きなんだね、これ」


「うん。暗くても、生きてるから」


軽い雑談のつもりだった。

けれど、自分でも意外な言葉がこぼれた。


みさきは一瞬だけ驚き、

それから優しくうなずいた。


「暗い方が落ち着く生き物もいるよね」


その言葉が、

遼の胸の空洞を一瞬だけ塞いだ。


3

講義の終わり際、

隣の席の佐藤海斗が肘で突いてくる。


「なあ遼、今日ゲーセン行かね?」


「……また?」


「まただよ。何か悪いか。

 最近のお前、真面目すぎんだって」


海斗は屈託がない。

太陽に似ている。

遼にとっては、近すぎる太陽だった。


「まあ、気が向いたら」


「気が向け!」


笑い声が響く。

遼も笑った。

嘘じゃない。

でも、少しだけ力がいる笑いだった。


4

帰り道。

家まで続く坂は長い。

大学の丘を下りきると、

街が広がる。


遼はポケットの中のスマホを開いた。

未読のメッセージがいくつかある。

母からのもの。


《新生活どう?

 無理しないでね》


「無理してないよ」


独り言が漏れた。

本当のところは、自分でもよくわからない。


深呼吸。

肺に入った空気は冷たかった。


5

夜。

机に広げた教科書は

ほとんど進まない。


ページをめくるたび、

心の奥にあるノイズが

色を濁らせた。


天井の明かりが

視界の端で波打つ。


「なんでうまくできないんだろう」


そんなに難しいことじゃない。

他の人はできている。

なのに自分は、

気持ちがすぐに摩耗してしまう。


深海魚図鑑を手に取る。

その青が、唯一呼吸できる色だ。


暗闇でも生きている命がある。


遼は、

まだ自分もそうだと信じたかった。


6

ベッドに横たわりながら

瞼を閉じる。


夏に近づく夜は明るい。

カーテン越しの街灯が

水面の揺らぎのように揺れていた。


眠れるはずだ。

疲れているはずだ。

今日も笑った。

今日も、まだ大丈夫だった。


ただ──

胸の奥のあの空洞が

少しだけ広くなった気がした。


原因も、理由も、対策もない。

ただ、広がる。


ほんの少し。

誰にもわからないくらい。


深海から、

静かな潮が満ちてくる。


明日もたぶん笑える。

でも、

その笑顔の裏側に

ゆっくり揺れる水面の歪みを

遼はまだ知らない。


第1章「水面の揺らぎ」完


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