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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
14/31

■第14章:三人の速度 ――「誓い」



◆1 崩れゆく身体、追いつけない心


 梅雨が近づき、街を包む湿気が濃さを増していた。

 外の世界が確実に前へ進んでいるのに、

 亮介の身体だけが取り残されていくようだった。


 病院事務のフロア。

 カルテ棚から分厚いファイルを持ち上げようとしたとき、

 指が震えた。

 力が抜け、ファイルが床に落ちて鈍い音を立てた。


「佐伯さん、大丈夫ですか!?」


 同僚が駆け寄ってくる。

 亮介は苦笑を浮かべ、首を横に振った。


「ただの寝不足ですよ……」


 そう言いながら、なぜか胸が締め付けられた。


 謝罪の言葉が、条件反射のように溢れる。


「すみません……迷惑かけて」


(どうして俺は、いつも謝ってばかりなんだ)


 頭がぼやけて、足元が揺れた。


◆2 さつきの再出発


 自宅の玄関を開けると、

 花の柔らかい香りが流れてきた。


 リビングから声。


「亮ちゃん、おかえり」


 さつきは薄化粧をしていた。

 髪はきれいにまとめられ、

 目の奥に光が戻っている。


「今日ね、スーパーのレジ研修受けてきた」


 その一言に、

 胸の奥で止まっていた歯車が、音を立てて動いた気がした。


「……本当に?」


「うん。

 私も、息子の未来に触れていたい。

 置いていかれたくないの。

 だから、生きる練習を始める」


「ありがとう」


 亮介はそれしか言えなかった。

 その言葉が、今ようやく“本物”になった。


◆3 LIMと希:救済が始まる場所


 翌日。教育センター。

 希が LIM のヘッドセットを装着する。

 瀬尾が隣で優しく声をかける。


「息しながらね。

 休んでも大丈夫だから」


 その言葉は、

 亮介がかつて息子に向けて言っていたものと同じ。


 希は深く息を吸い、

 問題用紙を前にペンを構える。


 数式を視線で追い、

 ゆっくり書き始めた。


 止まらない。

 5分、10分、そして20分。


「……できた!」


 希が顔を上げた。

 その瞳は、自信に満ちていた。


「私……卒業できるかもしれない」


 瀬尾が拍手し、

 木島が深く頷き、

 亮介は涙をこらえきれなかった。


 息子の未来が、

 誰かの明日を支えていた。


◆4 限界点 — 崩れ落ちる瞬間


 帰り道。

 駅のホームへ続くスロープを上がる途中で、

 世界が急に遠ざかった。


 視界が白く霞む。

 足が震える。


「ま、ずい……」


 前のめりに倒れかけたその瞬間、

 強い腕に支えられた。


「佐伯さん!!!?」


 瀬尾の声。

 緊張と驚愕が混じっている。


「すみ……ません……大丈、夫……」


「大丈夫じゃないです!」


 瀬尾は叫ぶように言った。


「救われるべき人が、倒れてどうするんですか」


 その言葉に、

 亮介の胸がひび割れた。


「あなたの息子さんは、

 僕らを救ってくれたんですよ。

 だから……

 あなた自身も救われなきゃいけないんです」


 意識が暗転した。


◆5 診断室:壊れかけた支柱


「極端な睡眠負債と慢性的ストレスです。

 このままなら……突然死のリスクもあります」


 医師の冷静な言葉が、

 亮介の脳の奥底に鈍く響いた。


 血液検査結果には

 高いコルチゾール値、

 免疫マーカーの低下が記されている。


「これは、

 脳が『限界』を示している証拠です。

 休むことは敗北ではありません。

 生き延びるための機能です」


 亮介は俯いた。


 自分を救うことが、

 なぜこんなにも難しいのか。


 そのとき、

 さつきが椅子を引いて横に座り、

 亮介の冷たい指をそっと包んだ。


「ねぇ亮ちゃん」


「……なんだ?」


「あなたも私と同じ、

 助けが必要な人なんだよ」


 その声は、

 かつて何度も泣き崩れた彼女と同じ喉から出ているのに、

 力強く響いていた。


◆6 机の引き出しに残された旅行計画


 帰宅後。

 さつきは息子の机をそっと開けた。


 整頓されず放置されていたノートやプリントの隙間に、

 一枚のルーズリーフが挟まっていた。


 そこには、拙い字で書かれていた。


「家族で行きたいところ:

 1.高原のキャンプ

 2.水族館

 3.夜景の綺麗な場所

 計画立てる:春」


 さつきの胸に

 熱いものがせり上がった。


「春って……」


「間に合わなかったんだな……」


 二人の声が重なった。


 息子の未来は、

 春の先に置いてあった。


「亮ちゃん」


「うん」


「私たち……遅れてるね」


「……ああ。

 でも、まだ追える」


◆7 学会が動く。息子の名前が未来へ出航する


 数日後。研究室のPCに着信。


件名:LIM論文

本文:

「査読通過。

 第一著者『佐伯悠人』で正式採択」


 画面を見たまま、

 亮介は呼吸を忘れた。


「悠人……。

 君の名前が、未来の中にある」


 震える指先で、そっと息子の名をなぞる。


 生前、彼が立てなかった舞台へ

 息子が、名前で立つ。


◆8 誓いの夜:三人の未来が揃う瞬間


 夜。

 リビングに小さな灯り。


 息子の机を照らすライトの前で、

 亮介とさつきは向かい合って座っていた。


「亮ちゃん」


 さつきの眼差しは迷いを捨てていた。


「これから……

 三人で生きていこう」


「三人で?」


「うん。

 未来で。

 あの子が見ていた未来で」


 亮介は息を呑んだ。


 その言葉はもはや哀悼ではない。

 宣言だった。


「写真、撮ろうよ。

 三人で」


 涙は流れない。

 強い声だった。


「——置いていかれないように」


 亮介は、深く頷いた。


「撮ろう。

 未来で。

 三人で」


 その瞬間、

 二人の視線の先に、

 確かに息子が微笑んでいる気がした。


◆章末の一文


そう。三人の未来は、ここから動き始めた。

 誰も、もう置いていかれない。



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