■第14章:三人の速度 ――「誓い」
◆1 崩れゆく身体、追いつけない心
梅雨が近づき、街を包む湿気が濃さを増していた。
外の世界が確実に前へ進んでいるのに、
亮介の身体だけが取り残されていくようだった。
病院事務のフロア。
カルテ棚から分厚いファイルを持ち上げようとしたとき、
指が震えた。
力が抜け、ファイルが床に落ちて鈍い音を立てた。
「佐伯さん、大丈夫ですか!?」
同僚が駆け寄ってくる。
亮介は苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「ただの寝不足ですよ……」
そう言いながら、なぜか胸が締め付けられた。
謝罪の言葉が、条件反射のように溢れる。
「すみません……迷惑かけて」
(どうして俺は、いつも謝ってばかりなんだ)
頭がぼやけて、足元が揺れた。
◆2 さつきの再出発
自宅の玄関を開けると、
花の柔らかい香りが流れてきた。
リビングから声。
「亮ちゃん、おかえり」
さつきは薄化粧をしていた。
髪はきれいにまとめられ、
目の奥に光が戻っている。
「今日ね、スーパーのレジ研修受けてきた」
その一言に、
胸の奥で止まっていた歯車が、音を立てて動いた気がした。
「……本当に?」
「うん。
私も、息子の未来に触れていたい。
置いていかれたくないの。
だから、生きる練習を始める」
「ありがとう」
亮介はそれしか言えなかった。
その言葉が、今ようやく“本物”になった。
◆3 LIMと希:救済が始まる場所
翌日。教育センター。
希が LIM のヘッドセットを装着する。
瀬尾が隣で優しく声をかける。
「息しながらね。
休んでも大丈夫だから」
その言葉は、
亮介がかつて息子に向けて言っていたものと同じ。
希は深く息を吸い、
問題用紙を前にペンを構える。
数式を視線で追い、
ゆっくり書き始めた。
止まらない。
5分、10分、そして20分。
「……できた!」
希が顔を上げた。
その瞳は、自信に満ちていた。
「私……卒業できるかもしれない」
瀬尾が拍手し、
木島が深く頷き、
亮介は涙をこらえきれなかった。
息子の未来が、
誰かの明日を支えていた。
◆4 限界点 — 崩れ落ちる瞬間
帰り道。
駅のホームへ続くスロープを上がる途中で、
世界が急に遠ざかった。
視界が白く霞む。
足が震える。
「ま、ずい……」
前のめりに倒れかけたその瞬間、
強い腕に支えられた。
「佐伯さん!!!?」
瀬尾の声。
緊張と驚愕が混じっている。
「すみ……ません……大丈、夫……」
「大丈夫じゃないです!」
瀬尾は叫ぶように言った。
「救われるべき人が、倒れてどうするんですか」
その言葉に、
亮介の胸がひび割れた。
「あなたの息子さんは、
僕らを救ってくれたんですよ。
だから……
あなた自身も救われなきゃいけないんです」
意識が暗転した。
◆5 診断室:壊れかけた支柱
「極端な睡眠負債と慢性的ストレスです。
このままなら……突然死のリスクもあります」
医師の冷静な言葉が、
亮介の脳の奥底に鈍く響いた。
血液検査結果には
高いコルチゾール値、
免疫マーカーの低下が記されている。
「これは、
脳が『限界』を示している証拠です。
休むことは敗北ではありません。
生き延びるための機能です」
亮介は俯いた。
自分を救うことが、
なぜこんなにも難しいのか。
そのとき、
さつきが椅子を引いて横に座り、
亮介の冷たい指をそっと包んだ。
「ねぇ亮ちゃん」
「……なんだ?」
「あなたも私と同じ、
助けが必要な人なんだよ」
その声は、
かつて何度も泣き崩れた彼女と同じ喉から出ているのに、
力強く響いていた。
◆6 机の引き出しに残された旅行計画
帰宅後。
さつきは息子の机をそっと開けた。
整頓されず放置されていたノートやプリントの隙間に、
一枚のルーズリーフが挟まっていた。
そこには、拙い字で書かれていた。
「家族で行きたいところ:
1.高原のキャンプ
2.水族館
3.夜景の綺麗な場所
計画立てる:春」
さつきの胸に
熱いものがせり上がった。
「春って……」
「間に合わなかったんだな……」
二人の声が重なった。
息子の未来は、
春の先に置いてあった。
「亮ちゃん」
「うん」
「私たち……遅れてるね」
「……ああ。
でも、まだ追える」
◆7 学会が動く。息子の名前が未来へ出航する
数日後。研究室のPCに着信。
件名:LIM論文
本文:
「査読通過。
第一著者『佐伯悠人』で正式採択」
画面を見たまま、
亮介は呼吸を忘れた。
「悠人……。
君の名前が、未来の中にある」
震える指先で、そっと息子の名をなぞる。
生前、彼が立てなかった舞台へ
息子が、名前で立つ。
◆8 誓いの夜:三人の未来が揃う瞬間
夜。
リビングに小さな灯り。
息子の机を照らすライトの前で、
亮介とさつきは向かい合って座っていた。
「亮ちゃん」
さつきの眼差しは迷いを捨てていた。
「これから……
三人で生きていこう」
「三人で?」
「うん。
未来で。
あの子が見ていた未来で」
亮介は息を呑んだ。
その言葉はもはや哀悼ではない。
宣言だった。
「写真、撮ろうよ。
三人で」
涙は流れない。
強い声だった。
「——置いていかれないように」
亮介は、深く頷いた。
「撮ろう。
未来で。
三人で」
その瞬間、
二人の視線の先に、
確かに息子が微笑んでいる気がした。
◆章末の一文
そう。三人の未来は、ここから動き始めた。
誰も、もう置いていかれない。




