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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
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13/31

第13章:反転 —「名前の力」



 初夏へ向かう手前の季節。

 陽射しは長くなりつつあるのに、

 亮介の体温はいつまでも冬の底に置き去りだった。


 眠れていない。

 勤務にも支障が出始めている。

 だが止まれない。


 止まったら、

 「息子の未来」が途切れてしまうから。


◆


 午前9時。

 病院事務フロアで書類を運んでいる途中、

 視界がかすんだ。


「……っ」


 急に体が傾き、

 壁に肩を打ちつけた。


「佐伯さん、大丈夫ですか!」


 同僚の声が遠い。

 亮介は笑顔を作った。


「ああ、すみません。

 寝不足で」


 そう言いながら心の中では、

 「睡眠不足です」と書かれる診断書の未来が浮かんだ。


 だがそれも、

 息子を動力にして進める自分には、

 どうでもよかった。


◆


 午後。研究室。


「佐伯さん、希さんのフィードバック届きました」


 白石が駆け寄る。

 髪は跳ね、息は上がっている。


 手渡された紙を震える指で開く。


週次評価:

・授業参加率:35% → 68%

・課題提出:0件 → 2件

・自主学習継続時間:平均8分 → 14分


 数字の隣に、

 希の直筆メモがある。


『LIMが側にいると、

  私だけの速度で進める気がします。

  できない自分のままでも、

  進んでいいんだって言われているみたいで。

     希』


 文字が震え、涙が落ちそうになる。

 だが白石が笑うから、

 亮介も笑った。


「これは……息子の成果だ」


「佐伯さんの力です」


「違う。

 私は……繋いだだけです」


 白石が言った。


「——繋がなきゃ、届かないです」


◆


 一方、木島は動いていた。


 教育委員会や精神科領域に近いNPO、

 一部の教員ネットワークへ。


「精度はまだ粗い。だが

 『できない生徒』を救う可能性がある」


 プレゼンテーションで、

 木島は息子の名前を出した。


「LIMの開発者は、

佐伯悠人という青年です。

彼は、生きている時から未来を見ていました。」


 懐疑もあった。

 だが少しだけ、首を縦に振る人間がいた。


 それがすべての始まりだった。


◆


 夜。家。


 玄関を開けると、

 リビングの光が半分消えていた。


 嫌な予感がする。


「さつき……?」


 部屋の奥。

 息子の机の前。


 さつきが、

 悠人の教科書を一冊、

 段ボール箱に入れていた。


「片付けるの……?」


 言おうとした言葉が

 喉で潰れた。


「違うの。

 ……これね、埃がすごかったから。

 掃除しようと思って」


 声が震えている。


 亮介は静かに隣に座った。


「掃除、手伝うよ」


 さつきは涙を拭いた。


「ねぇ……亮ちゃん」


「ん?」


「私たち、

 まだ息子の未来に触れていていいの?」


「触れたから……

 息子は今も未来にいるんだよ」


 さつきは、小さく息を呑んだ。


「ありがとう……

 置いていかないで」


「置いていかない。

 一緒に行こう。

 息子の未来へ」


 その言葉で

 さつきの胸の扉が

 ひとつ開いた。


◆


 深夜。

 研究室の灯りの下。


 亮介は、疲労で震える手を

 キーボードに置いた。


 再査読に向けて

 論文の追記修正。


 木島が言っていた。


「学会が支配者じゃない。

ただの通行手形だ。

なら別の道も作ればいい」


 そうだ。

 息子の未来に、

 下書きの人生なんてない。


 そのとき、

 教授からのメールが届いた。


件名:査読進捗

本文:


「別の査読者に回りました。

 担当領域:教育工学

 先方から『再検討の余地あり』との連絡」


 亮介は目を見開いた。


 拒絶された門が、

 ほんの僅かに開きはじめた。


「……悠人」


 呟いた瞬間、

 画面の通知が点滅した。


“LIM試作機:接続済”


 モニターに、

 知らない名前が表示された。


『実習生:瀬尾 航平(21)』


 教育実習中の大学生らしい。

 希の支援授業を見学していた青年だ。


 リアルタイムのチャットが入る。


『すみません。

 少しだけお話、いいですか?

 佐伯悠人さんのこと』


 亮介は、息が止まった。


◆


 翌日、大学キャンパス。


「お忙しい中すみません」


 瀬尾は

 学生らしい気負いと、

 少しの緊張をまとっていた。


「僕……

 悠人さんのブログの読者でした」


「え……?」


「高校のとき、

 LIMの前身みたいなノートアプリが紹介されてて。

 “焦らなくていい”って書いてあった。

 僕、それで救われたんです」


 亮介の喉が

 きゅっと細くなる。


「亡くなったと知って

 何もできなくて。

 でも……」


 彼は、試作品の端末を見た。


「この名前を見たとき、

 震えました。

 たしかに……生きてるんだって」


 瀬尾は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。

 ……救ってくれて」


 それは、

 亮介にとって初めて

 社会から返された「ありがとう」だった。


◆


 瀬尾と別れた後、

 ベンチに腰を下ろした。


 ゆっくりと、

 胸の奥に積もっていた重さが

 剥がれ落ちていく感覚。


 空を見上げた。


 雲の切れ間から

 光が差す。


息子の名前は、消えていなかった。

社会に、誰かの心に、

生きた証として残っていた。


 亮介は、静かに笑った。


「……やっと、反転したな」


 未来が、

 自分たちに向き直る音がした。


第13章 完


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