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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
13/31

第13章:反転 —「名前の力」



 初夏へ向かう手前の季節。

 陽射しは長くなりつつあるのに、

 亮介の体温はいつまでも冬の底に置き去りだった。


 眠れていない。

 勤務にも支障が出始めている。

 だが止まれない。


 止まったら、

 「息子の未来」が途切れてしまうから。



 午前9時。

 病院事務フロアで書類を運んでいる途中、

 視界がかすんだ。


「……っ」


 急に体が傾き、

 壁に肩を打ちつけた。


「佐伯さん、大丈夫ですか!」


 同僚の声が遠い。

 亮介は笑顔を作った。


「ああ、すみません。

 寝不足で」


 そう言いながら心の中では、

 「睡眠不足です」と書かれる診断書の未来が浮かんだ。


 だがそれも、

 息子を動力にして進める自分には、

 どうでもよかった。



 午後。研究室。


「佐伯さん、希さんのフィードバック届きました」


 白石が駆け寄る。

 髪は跳ね、息は上がっている。


 手渡された紙を震える指で開く。


週次評価:

・授業参加率:35% → 68%

・課題提出:0件 → 2件

・自主学習継続時間:平均8分 → 14分


 数字の隣に、

 希の直筆メモがある。


『LIMが側にいると、

  私だけの速度で進める気がします。

  できない自分のままでも、

  進んでいいんだって言われているみたいで。

     希』


 文字が震え、涙が落ちそうになる。

 だが白石が笑うから、

 亮介も笑った。


「これは……息子の成果だ」


「佐伯さんの力です」


「違う。

 私は……繋いだだけです」


 白石が言った。


「——繋がなきゃ、届かないです」



 一方、木島は動いていた。


 教育委員会や精神科領域に近いNPO、

 一部の教員ネットワークへ。


「精度はまだ粗い。だが

 『できない生徒』を救う可能性がある」


 プレゼンテーションで、

 木島は息子の名前を出した。


「LIMの開発者は、

佐伯悠人という青年です。

彼は、生きている時から未来を見ていました。」


 懐疑もあった。

 だが少しだけ、首を縦に振る人間がいた。


 それがすべての始まりだった。



 夜。家。


 玄関を開けると、

 リビングの光が半分消えていた。


 嫌な予感がする。


「さつき……?」


 部屋の奥。

 息子の机の前。


 さつきが、

 悠人の教科書を一冊、

 段ボール箱に入れていた。


「片付けるの……?」


 言おうとした言葉が

 喉で潰れた。


「違うの。

 ……これね、埃がすごかったから。

 掃除しようと思って」


 声が震えている。


 亮介は静かに隣に座った。


「掃除、手伝うよ」


 さつきは涙を拭いた。


「ねぇ……亮ちゃん」


「ん?」


「私たち、

 まだ息子の未来に触れていていいの?」


「触れたから……

 息子は今も未来にいるんだよ」


 さつきは、小さく息を呑んだ。


「ありがとう……

 置いていかないで」


「置いていかない。

 一緒に行こう。

 息子の未来へ」


 その言葉で

 さつきの胸の扉が

 ひとつ開いた。



 深夜。

 研究室の灯りの下。


 亮介は、疲労で震える手を

 キーボードに置いた。


 再査読に向けて

 論文の追記修正。


 木島が言っていた。


「学会が支配者じゃない。

ただの通行手形だ。

なら別の道も作ればいい」


 そうだ。

 息子の未来に、

 下書きの人生なんてない。


 そのとき、

 教授からのメールが届いた。


件名:査読進捗

本文:


「別の査読者に回りました。

 担当領域:教育工学

 先方から『再検討の余地あり』との連絡」


 亮介は目を見開いた。


 拒絶された門が、

 ほんの僅かに開きはじめた。


「……悠人」


 呟いた瞬間、

 画面の通知が点滅した。


“LIM試作機:接続済”


 モニターに、

 知らない名前が表示された。


『実習生:瀬尾 航平(21)』


 教育実習中の大学生らしい。

 希の支援授業を見学していた青年だ。


 リアルタイムのチャットが入る。


『すみません。

 少しだけお話、いいですか?

 佐伯悠人さんのこと』


 亮介は、息が止まった。



 翌日、大学キャンパス。


「お忙しい中すみません」


 瀬尾は

 学生らしい気負いと、

 少しの緊張をまとっていた。


「僕……

 悠人さんのブログの読者でした」


「え……?」


「高校のとき、

 LIMの前身みたいなノートアプリが紹介されてて。

 “焦らなくていい”って書いてあった。

 僕、それで救われたんです」


 亮介の喉が

 きゅっと細くなる。


「亡くなったと知って

 何もできなくて。

 でも……」


 彼は、試作品の端末を見た。


「この名前を見たとき、

 震えました。

 たしかに……生きてるんだって」


 瀬尾は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。

 ……救ってくれて」


 それは、

 亮介にとって初めて

 社会から返された「ありがとう」だった。



 瀬尾と別れた後、

 ベンチに腰を下ろした。


 ゆっくりと、

 胸の奥に積もっていた重さが

 剥がれ落ちていく感覚。


 空を見上げた。


 雲の切れ間から

 光が差す。


息子の名前は、消えていなかった。

社会に、誰かの心に、

生きた証として残っていた。


 亮介は、静かに笑った。


「……やっと、反転したな」


 未来が、

 自分たちに向き直る音がした。


第13章 完


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