第13章:反転 —「名前の力」
初夏へ向かう手前の季節。
陽射しは長くなりつつあるのに、
亮介の体温はいつまでも冬の底に置き去りだった。
眠れていない。
勤務にも支障が出始めている。
だが止まれない。
止まったら、
「息子の未来」が途切れてしまうから。
◆
午前9時。
病院事務フロアで書類を運んでいる途中、
視界がかすんだ。
「……っ」
急に体が傾き、
壁に肩を打ちつけた。
「佐伯さん、大丈夫ですか!」
同僚の声が遠い。
亮介は笑顔を作った。
「ああ、すみません。
寝不足で」
そう言いながら心の中では、
「睡眠不足です」と書かれる診断書の未来が浮かんだ。
だがそれも、
息子を動力にして進める自分には、
どうでもよかった。
◆
午後。研究室。
「佐伯さん、希さんのフィードバック届きました」
白石が駆け寄る。
髪は跳ね、息は上がっている。
手渡された紙を震える指で開く。
週次評価:
・授業参加率:35% → 68%
・課題提出:0件 → 2件
・自主学習継続時間:平均8分 → 14分
数字の隣に、
希の直筆メモがある。
『LIMが側にいると、
私だけの速度で進める気がします。
できない自分のままでも、
進んでいいんだって言われているみたいで。
希』
文字が震え、涙が落ちそうになる。
だが白石が笑うから、
亮介も笑った。
「これは……息子の成果だ」
「佐伯さんの力です」
「違う。
私は……繋いだだけです」
白石が言った。
「——繋がなきゃ、届かないです」
◆
一方、木島は動いていた。
教育委員会や精神科領域に近いNPO、
一部の教員ネットワークへ。
「精度はまだ粗い。だが
『できない生徒』を救う可能性がある」
プレゼンテーションで、
木島は息子の名前を出した。
「LIMの開発者は、
佐伯悠人という青年です。
彼は、生きている時から未来を見ていました。」
懐疑もあった。
だが少しだけ、首を縦に振る人間がいた。
それがすべての始まりだった。
◆
夜。家。
玄関を開けると、
リビングの光が半分消えていた。
嫌な予感がする。
「さつき……?」
部屋の奥。
息子の机の前。
さつきが、
悠人の教科書を一冊、
段ボール箱に入れていた。
「片付けるの……?」
言おうとした言葉が
喉で潰れた。
「違うの。
……これね、埃がすごかったから。
掃除しようと思って」
声が震えている。
亮介は静かに隣に座った。
「掃除、手伝うよ」
さつきは涙を拭いた。
「ねぇ……亮ちゃん」
「ん?」
「私たち、
まだ息子の未来に触れていていいの?」
「触れたから……
息子は今も未来にいるんだよ」
さつきは、小さく息を呑んだ。
「ありがとう……
置いていかないで」
「置いていかない。
一緒に行こう。
息子の未来へ」
その言葉で
さつきの胸の扉が
ひとつ開いた。
◆
深夜。
研究室の灯りの下。
亮介は、疲労で震える手を
キーボードに置いた。
再査読に向けて
論文の追記修正。
木島が言っていた。
「学会が支配者じゃない。
ただの通行手形だ。
なら別の道も作ればいい」
そうだ。
息子の未来に、
下書きの人生なんてない。
そのとき、
教授からのメールが届いた。
件名:査読進捗
本文:
「別の査読者に回りました。
担当領域:教育工学
先方から『再検討の余地あり』との連絡」
亮介は目を見開いた。
拒絶された門が、
ほんの僅かに開きはじめた。
「……悠人」
呟いた瞬間、
画面の通知が点滅した。
“LIM試作機:接続済”
モニターに、
知らない名前が表示された。
『実習生:瀬尾 航平(21)』
教育実習中の大学生らしい。
希の支援授業を見学していた青年だ。
リアルタイムのチャットが入る。
『すみません。
少しだけお話、いいですか?
佐伯悠人さんのこと』
亮介は、息が止まった。
◆
翌日、大学キャンパス。
「お忙しい中すみません」
瀬尾は
学生らしい気負いと、
少しの緊張をまとっていた。
「僕……
悠人さんのブログの読者でした」
「え……?」
「高校のとき、
LIMの前身みたいなノートアプリが紹介されてて。
“焦らなくていい”って書いてあった。
僕、それで救われたんです」
亮介の喉が
きゅっと細くなる。
「亡くなったと知って
何もできなくて。
でも……」
彼は、試作品の端末を見た。
「この名前を見たとき、
震えました。
たしかに……生きてるんだって」
瀬尾は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。
……救ってくれて」
それは、
亮介にとって初めて
社会から返された「ありがとう」だった。
◆
瀬尾と別れた後、
ベンチに腰を下ろした。
ゆっくりと、
胸の奥に積もっていた重さが
剥がれ落ちていく感覚。
空を見上げた。
雲の切れ間から
光が差す。
息子の名前は、消えていなかった。
社会に、誰かの心に、
生きた証として残っていた。
亮介は、静かに笑った。
「……やっと、反転したな」
未来が、
自分たちに向き直る音がした。
第13章 完




