■第11章:承認の壁 —「名前の重さ」
春は、街路樹の蕾を少しずつほどいていく。
だが亮介の時間は、その芽生えの速度から遅れていた。
研究室の机に座り、
息子のノートと向き合う日々。
息子が設計した
LIM:Life Inclusive Modulator
注意分配支援と学習持続支援を統合する、
脳の“休ませ方”を知るAI。
社会に順応させる技術ではなく、
社会の速度を人に合わせる技術。
亮介は、ふと呟く。
「未来は……変えられる」
それは、自分自身に向けた言葉だった。
◆
国内学会への論文投稿。
タイトルの第一著者には
佐伯悠人と記した。
息子の名前。
消せない未来。
一週間後。
査読結果が届いた。
メールを開く手が震えた。
査読コメント(一部抜粋)
「故人の研究成果に依拠した内容であり、
信頼性に欠ける」
「父親の感情的動機が優先されている懸念」
「ADHD/精神疾患への偏重は非科学的
(社会的弱者への過剰な配慮と見られる)」
「生きている研究者でなければ、
説明責任を果たせない」
最後の一行が、胸を抉った。
「第一著者が故人であることは、
科学的評価の対象とならない」
亮介は、息を飲んだ。
視界が揺れる。
キーボードに落ちた涙で
数字が滲んで消えた。
社会から見れば、
息子はもう存在しない。
その未来も、存在しない。
——そう告げられたのだ。
手が震えながらも、
亮介は読み返すように呟いた。
「……名前とは、未来につながる橋なんだ」
橋を、折らせてなるものか。
◆
翌日。
大学ロビーで、教授と白石が待っていた。
白石の顔色は悪い。
「……ごめんなさい。
うまくいかなかった」
「いや、謝ることじゃない。
俺が始めたんだ。最後までやる」
教授が、資料を差し出した。
「大きな壁だ。
故人の研究は、倫理と評価の両面で難しい。
あなたの名前が第一なら、まだ通るかもしれない」
「それはできません」
「なぜそこまで……?」
亮介は、ノートを胸に抱きしめた。
「息子が残した未来だからです。
息子の名前でなければ、意味がない」
教授は少し目を伏せた。
「あなたの息子さんは……
本当に、未来を信じていたんですね」
「はい。
誰よりも」
◆
帰路。
夕暮れの団地の前で、亮介は立ち止まった。
スマホが震える。
解析が進んだ通知。
「help_03 再生可能」
胸の奥が軋む。
いま聞けば、崩れてしまうかもしれない。
だが、聞かなければ前へ進めない。
決意を飲み込み、
部屋へ向かった。
◆
リビング。
さつきはカーテンの隙間から
ぼんやりと外を見ていた。
「……査読は?」
「……ダメだった」
さつきの肩がわずかに震えた。
「そっか……。
じゃあ……
終わったんだね」
「終わってない」
亮介は静かに言った。
「まだ、息子の未来は終わってない」
「未来なんて、どこにもない!
もう死んだのよ!
息子は!!」
叫びと同時に、テーブル上のマグカップが倒れた。
紅茶が床に広がり、
暗い染みが静かに伸びていく。
さつきは、自分の口を手で押さえた。
言ってはいけないことを言った、
その自覚が彼女を苦しめる。
「……ごめん……」
「謝らなくていい」
亮介は、そっとPCを開いた。
息子の声が、そこに眠っている。
「一緒に聞こう」
さつきの顔に
恐怖の影が走った。
「無理……
聞いたら壊れる」
「壊れてもいい。
また一緒に……直そう」
沈黙。
長い沈黙。
彼女は、震える指で
亮介の袖を掴んだ。
「……一緒に聞いて」
二人は画面を見つめ、
再生ボタンを押した。
◆ 音声再生 ◆
深い呼吸音。
息が絡む音。
「父さん……
母さん……
ありがとう」
さつきの手が
亮介の手を強く握る。
「俺は……弱かった。
でもね……
未来は信じてたんだ」
嗚咽が漏れる。
「だから……
未来の速度を……
みんなに合わせてほしい」
数秒の空白。
「父さん。
母さん。
——生きて」
音声は、そこで途切れた。
◆
二人は、ただ泣いた。
声にならない涙が
机の上に落ち続けた。
息子が願った未来は、
“自分の死”の先にあった。
それに気づいた瞬間、
亮介の内側で音が変わった。
「結果で裁くなら、未来で会いましょう」
息子の名前で挑む。
息子の速度で戦う。
亮介は涙を拭き、ゆっくりと立ち上がった。
「もう一度、投稿する。
息子の名前で。
何度だって」
社会が拒もうと関係ない。
救うべき未来は、
目の前に二つ、確かに存在している。
——息子と、妻。
「未来は……
ここから始めよう」
さつきは、かすかに頷いた。
涙で濡れたままの瞳が、少しだけ光を取り戻していた。
第11章 完




