私が召喚されるまで(1)
太陽が西に向かいそろそろゴールしそうな時間。普通に言えば夕方。一面が朱色に彩られている。その絵画のような情景を背景に、人々が生活している。生を営んでいる人々の中に今回のお話の主軸となる少女サナエがいた。肩までの長さに切られた茶色の髪を揺らし、不機嫌な表情をしている。
「ほんま、疲れた。なんでテスト前やのに、がっつりクラブあんねん。しかも、いつもよりキツイメニューやったし」
サナエは、ぶつくさ言いながら黒帯で縛られた道着を、虫笛を使いオウムと交信をとるナウシカのように振り回していた。
「はぁ、今7時か。家帰ってご飯食べて、うんで、抱腹絶倒笑いのファンタジア見て、お風呂入ってから勉強やな」
腕に巻かれた時計で、時間を確認し、今夜見るお笑い番組を思い描いていた。
家に向かっているサナエの進行方向に漫画では定番、私生活ではまずお目にかかれない、バナナの皮が怪しげなオーラを発し、道に置かれている。お笑い大好きのサナエなら気づくと同時に迷わず踏みしめこけるだろう。しかし、今のサナエは、現在、目を付けている若手芸人フロッピーディスクの漫才を脳内再生している最中。どうなるバナナ。
バナナの横にあるマンション。築25年、月8万の物件。そこの5階に住んでいる秋山ゆい(31・人妻)がベランダにいた。不思議なことに彼女は、これまたお笑いでは定番のタライを持っていた。ある一定の高さから頭上に落下させると、心地よい笑いを誘う音を鳴らすリアクションには必須のアイテムである。
「ふー、水道代の節約になるけど、やっぱり洗濯機の方が楽ね。ケチらないで洗濯機にしよ」
洗濯に使ったタライをベランダに干そうとしている最中だった。バナナ、タライ、奇跡としか言いようのないタッグが今組まれた。果たしてこのタッグはどのような化学反応を起こしていくれるのか。
1円玉くらいの大きさのハエがいた。ハエ業界の中では勇敢なハエで通っている。ハエが恐れる人間をからかうことに長けており、今まで何人もの人間をイライラさせてきた強者である。得意技は人間の鼻の前で飛び回ることである。Casual and ideal action通称CIAと呼ばれている。どこかの組織の名前のようだが、この技は大変難易度と死亡率が高く、長い間使うものが現れなかった技なのだ。そんな技を持ったハエが偶然目に入った秋山ゆい(31・人妻)に目を付けた。
「ようし、あの女をやるか。今日も俺のウイングはいい動きだ」
スピードを上げハエは秋山ゆい(31・人妻)に向かっていった。
タライを干すにはどのようにするのか試行錯誤している秋山ゆい(31・人妻)はハエの悪巧みに気付くわけがない。それを良いことにハエは秋山ゆい(31・人妻)の眼前に来ていた。
「よし、女は気づいていないのか楽に接近できたな。さて、それでは見せてやろう。誰もが尊敬の眼差しで見るCIAを」
ハエは通常時の3倍の速度で羽を動かし秋山ゆい(31・人妻)の鼻の前で飛び始めた。
「あら。ハエ・・・・・・へっ、ふぇくしょんばろう」
秋山ゆい(31・人妻)は、盛大にくしゃみをした。それはもう、本当に大きなくしゃみで、ハエが風圧により飛ばされそうになっているほどだった。CIAにより見事にくしゃみをさせることに成功したハエは、飛散してくる鼻水、よだれを持ち前の飛行技術により見事に避けていた。
「これだから、やめれねえなぁ」
そう言ってハエは、満足して、この話を仲間内に広めるために飛んで行った。
くしゃみをしてスッキリした秋山ゆい(31・人妻)はあることに気付いた。
「あら、・・・タライ」
階下で大きな音が鳴った。
サナエの頭の中で再生されているフロッピーディスクの漫才はいよいよオチようとしていた。ボケの斎藤が一部地域で大爆笑をかっさらう玄人向けの一発ギャグ、ツッコミを頭に受けた際に使う『頭ボッコボコ、こっこはどっこ、わったしはどっこ?』をして、それにツッコミの田中がつっこんで終わるといったものだ。さあ、いよいよだ。サナエはそう思っていたが、オチが再生されることはなかった。つい先ほど10メートル上から投下されたタライがそれを阻止した。タライはサナエの頭にクリティカルヒットし、辺りに自分のできる限り鳴らせる快音を響かせた。音に驚き、電線に留まりさえずっていた雀たちが一斉に飛び出した。
「うんなぁ・・・タライ?」
変な声を出したサナエは、余りの衝撃で足取りがおぼつかなくなっていた。快音で耳はキーン、タライの攻撃で目がチカチカ、まともに立っていることが難しく、2次会終わりの酔っ払いと同じ千鳥足になっている。そして、その脚はまるで意識を持っているかのようにサナエの言う事を聞かず勝手に歩を進める。向かう先はバナナ。先ほどからずっと出番を待っているバナナを言う事のきかない右足が踏みぬいた。よしきたと言わんばかりにバナナは渾身の力を込めて摩擦と喧嘩別れをし、舗装されたアスファルトの地面を滑った。
「うわっ、なぜバナナ」
サナエの右足は大きく弧を描き、かかと落としのようにサナエの眼前まで上がった。その反動により左足は中に浮き、サナエの体も宙に浮いた。そして、サナエはこけた。
「うう、いったぁ。頭打ったぁ。なんか色々あってこけたよな、私。えっと、確か、フロッピーディスクの漫才を脳内再生してて、うんで、いよいよオチって時になんかが頭に降ってきてんなぁ。なんやったけ・・・・・・ああそうや、タライや。ほんで、フラフラなって、バナナ踏んでこけたんや」
打った頭をさすりながらサナエは自分の身に何が起きたのかを確認した。血が出ているかと心配したが、どうやら小さなこぶができただけのようだった。自分の無事を確認し、サナエの頬はゆるんだ。
「あっはははははは。タライにバナナって嘘やろどんだけベタやねん。つうか、奇跡やろ。なに、偶然タライが降ってきて、ほんで、偶然バナナがあってそれを偶然私が踏んで見事にこける。完璧や。笑いの神が降りてきたな。くっそ、ギャラリーがいないんが残念や。しゃあない、今日は勉強そっちのけでこのことを一番面白くできる話し方を考えるしかないな。ふふふふふ。明日が楽しみやな。この話をすれば、周りはドッカンドッカン大笑い、そして、それに目を付けた大物プロデューサーが私をスカウト。そして、私は最強に面白い美少女女子高生として、売り出されて、ゆくゆくは星川聖徒(今人気絶頂のアイドル)と結婚。うふふふふふ。さあ、こうしていられない、さっさと家に帰ろ」
長い妄言を一通り言い放ったサナエは辺りを窺がった。サナエが座っているのは先ほどまでの文明が発達した住宅街ではなく、木々が生い茂り、名前のわからない虫たちが合唱している暗い森だった。
「頭ボッコボコ、こっこはどっこ、わったしはどっこ?」
沈黙があたりに広がった。どうやら、この周辺にはお笑い玄人はいなかったようだ。