第54話 嵐の前夜
時間は少しさかのぼる。
秩序の院の騒動後、エルディスが姿を消した頃――。
「……やらかしてくれたな」
ピケは心の中で舌打ちをした。
リーズの父、ジェルド――過激派の筆頭といっていい存在だ。
人里に降りては、何やら企んでいるという噂は耳にしていた。
だがまさか、自ら抗争の火種を探しに行き、しかも娘を道具に使うとは――。
(これで人間との均衡が崩れれば、矛先は全部こっちに向くんだから……)
魔族の村、その中央に建つ長の城の一室。城の窓から夜空を見上げ、ピケはつぶやいた。
「明日は荒れるぞ」
魔族の城の会議の間に、ピケが足を踏み入れるのは初めてだった。
石を積み上げただけの質素な造り。壁には古いヒビや修繕の跡が無骨に走り、装飾らしいものは一切ない。
中央の石卓と削り出しの椅子を囲み、重苦しい沈黙が漂っていた。
そこに座していたのは、問題を起こしたジェルド、威厳を残す前魔王、そして保守派を代表する長老たち。
その端に、若き女魔王ピケの姿もあった。
「なんてことをしてくれたんだ! ジェルド!」
机を叩いた長老が声を荒げる。
「これでまた人間がこちらに干渉してきたらどうなる?昔の悲劇は散々お前も聞かされてきただろう?」
別の長老が苦々しい声で続ける。
(はぁ……ことのあらましを聞く前からこれか)
「これじゃあ、議論にもならなさそうだな」
ピケは眉一つ動かさず、じっと前を見据えるジェルドを横目に、独り言をこぼした。
長老たちの糾弾にも、ジェルドは黙したまま動じない。
その沈黙が、かえって彼らの神経を逆撫でする。
「……何か言え! お前のせいで我らがどれほどの火種を背負うことになったと思っている!」
「人間どもに『魔族は危険だ』と叫ぶ口実を与えたのだぞ……!」
罵声が飛び交う中、ジェルドはようやく口を開いた。
低く、絞り出すように。
「……娘を攫われたのだ。黙って見過ごせとでも言うのか?」
その瞬間、広間がざわめき立つ。
「そもそも人間の里に降りなければいい話じゃないか!」
「娘を巻き込んだのはお前だろう?」
「感情で動けば戦になると、まだわからぬのか……!」
止めることのない一方的な糾弾に、ピケは小さく吐息を漏らした。
(……とんだ茶番だ)
その時、前魔王が杖を突き、静かに立ち上がる。
沈んだ声で、しかし場を収めるだけの重みを帯びて。
「――静まれ」
喧噪はぴたりと止んだ。
「いかなる理由があろうとも、人間に危害を加えたのは事実。ならば、処罰を下すしかあるまい」
その言葉に、場のほとんどが賛同の声を上げた。
声を上げなかったのは、ジェルドと、黙して様子を見ているピケだけ。
「では、ジェルドは今後五百年、この村への立ち入りを禁ずるというのはどうだ?」
長老の一人が重々しく告げる。
しかし、別の長老が机をコツコツ叩きながら反論した。
「行き場を失えば、今度は人間に矛先が向くかもしれん」
「――ゆえに、魔封じの塔に幽閉し、五百年を償わせるべきだ」
処罰案が過熱していくのを聞きながら、ピケは頭を抱えた。
(……どいつもこいつも好き放題言って)
「娘……リーズはどうなる?」
広間が凍りついた。
ジェルドは娘の名を出され、眉間に深い皺を寄せて動揺を隠せなかった。
一方、他の長や長老たちは目を丸くし、「形だけの魔王が口を開くとは」と言いたげな視線を向けていた。
「……リーズは村で育てる。その方が本人のためだからな」
長老のひとりが答えると、前魔王はわざとらしく咳払いをし、
「それではジェルドには、魔封じの塔に幽閉を命ずる」
広間に重苦しい沈黙が流れる。前魔王はゆっくりと場を見渡し、
「異論のある者はいるか」
そう問うと、さらに威を込めて言葉を重ねた。
「年数については追って余が決する」
そう言って立ち上がろうとした前魔王。
「――待て。勝手に終わるな」
低く鋭い声が響き、場の空気が張りつめた。
発したのはピケだった。




