第34話 私は彼に会いたかった。ただ、それだけだったのに 【セラ視点】
……ああもう、やっちゃったわ。
今回は、そういう話よ。
ほんのちょっと、焦ってただけなの。
別に悪気があったわけじゃないし、上手く立ち回るつもりだったのに――
気づいたら、全部、裏目に出ちゃってた。
……ううん、違うわね。
最初から、どこかで間違えてたのかも。
でも、笑わないで?
これは、私なりに本気だったの。……少なくとも、あのときは。
ノクスとは、すれ違えば一言、二言、交わせるようにはなっていた。
けれど、中々進展しない関係に――焦りが出てしまったのかもしれない。
私は……ミスをしたのだ。
***
「ここは、この前の公式を当てはめて……」
ありがたいことに、エルディスの研究室に通うようになってから、成績はぐんと上がった。
彼の教え方は丁寧で分かりやすく、要点を押さえていて――さすがだと思った。
「ねぇ、ノクスって……なんで、あんなに人を嫌ってるの?」
つい、口にしてしまった。
いつもなら、エルディスがノクスの愚痴をこぼしたときに、さりげなく聞く程度に留めていたのに。
エルディスは、少し驚いたような顔を見せたあと、低い声で呟く。
「……容姿で、苦労してきたらしい」
その言葉を聞いた瞬間、胸がざわついた。
(しまった……そんな、直接的に聞くべきじゃなかったのに)
質問の意図を、勘違いされたかもしれない。
あるいは、踏み込んではいけない話だったのかもしれない。
嫌な予感が、胸の奥を冷たく撫でていった。
***
そして――それは、次にエルディスの研究室を訪れたときに起きた。
「また、来たのかい?」
変わらぬ笑顔。けれど、どこか……冷たさがあった。
言葉の抑揚が、微かに乾いていた。
「え? ええ……ごめんなさい。さすがに、こう毎日来ていたら、迷惑だったわよね」
軽く笑って、席を立とうとした――そのときだった。
エルディスの手が、私の腕を掴んだ。ぐいと強く、逃げ場のない力で。
「っ……痛い……!」
思わず、声が漏れる。けれど彼は、そのまま距離を詰めてきた。
「俺たちの関係って……何なんだ?」
その声には、あの穏やかだった彼の影が、どこにもなかった。
「君は……俺のこと、好いてくれてると思ってたよ」
「やめて……」
声が震えた。
けれど彼は、まるで聞いていないように、私の頬へ手を伸ばす。
「……俺は、君のことを、こんなに――」
指先が触れた瞬間、身体が強張った。
視界が一瞬、重なる。
(――あのときと、同じ)
遠い記憶。無遠慮に触れてきた“親戚のおじさん”の顔と、いまのエルディスが重なった。
喉が詰まる。声が出ない。身体が動かない。
いつもなら、冗談めかしてかわすだけで済んでいた。
けれど、今回は――それができなかった。
(やだ……動けない……)
頬に触れる手の感触が、まるで冷たい泥のように、ねっとりとまとわりつく。
私は、ただ――目を逸らし、震える指先を握りしめた。
「ごめんなさい……!」
思わずエルディスの胸を押しのけ、研究室から飛び出す。
廊下に出た瞬間、涙が滲んだ。悔しさ、情けなさ、怖さ――すべてが混ざって、息が詰まりそうだった。
私はそのまま駆け出す。足がどこへ向かっているのかなんて、考えていなかった。
(あんな……キスの一つや二つ、させておけば……。もっと、その気にさせておけば……!)
でも、もう遅い。私はやってしまった。
(どうしよう……もう、エルディスの研究室には行けない)
走る足がふらついた。息が苦しい。足を止め、壁にもたれかかる。
(あそこに行けないってことは……ノクスに会う術も、なくなったってこと)
そう。私はずっと、エルディスの隣室にいる“あの人”のために通っていた。
勉強なんて、ただの口実にすぎない。私の目的は――彼だったのに。
(……失敗した。全部、台無しにした……)
脈打つ胸を押さえながら、私は顔を上げる。
涙に滲んだ視界の先――見慣れた研究棟の廊下が、歪んで見えた。
(……なら、もうこうなったら……!)
私は再び走り出す。
遠回りも、駆け引きもやめて。まっすぐ、彼の部屋へ。
誰にも会わず、誰にも止められず、ただ――ノクスに、会いに行く。
そして、扉の前で立ち止まった。
ドアの向こうは、しんと静まり返っている。
まるで、音すらも拒むように。
震える指先で、私はその扉を――そっと、ノックした。
読んだ? ……読んだのね。
じゃあ、もう言い訳できないわね。
あれは、完全に私のミス。
ちょっと調子に乗ったというか……いや、調子に乗ってたのよ。間違いなく。
……でも、それでも私、間違ってたって言いたくないのよ。
だって、本気で好きだったんだから。
ほんの少しでも、あの人の隣にいたかっただけなのに。
でもまあ、いいわ。
こうなったら、次は正面から行くしかないわよね。
……逃げないわ。
今度こそ、ちゃんと“落としてみせる”。




