第7話 赤き情熱の邂逅
ーーリヴァルネ王国西部
霧が濃く立ち込める西部の湿原地帯。
その一角に、ひっそりと佇む古びた建造物があった。
全貌は霧に包まれ、はっきりとは見えない。
ところどころ壁が崩れ落ちており、建物の古さを物語っていた。
しかし、その荘厳な造りから、ここがかつて由緒ある場所であったことがうかがえる。
その内部に、人影。
フードを深くかぶった人物の顔は見えない。
足元には魔法陣と思しき文様が描かれており、その中心には、見慣れぬ“何か”が安置されていた。
人物は無言で手をかざし、呪文のようなものをつぶやく。
魔法陣が青白く光り出し、やがて“物体”から赤紫の煙が立ちのぼる。
そのとき、フードの奥で微かに笑みが浮かんだ――
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数日後。
アストリアン王宮では、緊急の戦策会議が招集されていた。
リヴァルネ王国国王、リシュラン・メルヴァルより、親書が届いたためだ。
宰相セラフィムが、厳粛な空気の中、その書状を読み上げる。
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アストリアン大国
皇帝陛下 アリア・クラリエル殿
リヴァルネ王国国王、リシュラン・メルヴァルより急ぎご報告申し上げる。
我が国西部〈ルノワール湿原〉にて、正体不明の魔物が出現。
魔導騎士団の力をもってしても討伐に至らず、被害は拡大の一途を辿っている。
このままでは王都への被害も免れぬ恐れがある。
ついては、貴国のご助力を賜りたく。何卒、力をお貸し願いたい。
リヴァルネ王国国王
リシュラン・メルヴァル
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リヴァルネとアストリアンは、長年にわたる友好国である。
リヴァルネは近隣諸国の中では小国に分類されるが、アストリアンの後ろ盾があることで、外敵からの侵略を免れている。
国王リシュランの人柄もアリはよく知っていた。
温厚で誠実な人物。かつて父ヴィラードの崩御を知らせた際も、グランゼルド皇帝ロイに続いて、すぐさま弔問に駆けつけてくれた。
会議の場には、アリをはじめ重臣、魔導騎士団の隊長クラスが居並び、緊張が走る。
「正体不明の魔物……」
「リヴァルネの魔導騎士団が討てぬとは……」
「まさか、また古の魔物か……?」
リヴァルネは弱小とされるが、魔導騎士団の実力は決して侮れないと聞く。
アリは直感する。
「……古の魔物の可能性が高い」
その一言は、すなわち、アリ自らが出陣することを意味していた。
すぐさまアストリアン魔導騎士団に援軍の出動を命じ、
自身も準備を整え次第、すぐに出陣することを決めた。
こうして、アリア・クラリエルは慌ただしくも静かな決意と共に、アストリアンを発った――
✦ ✦ ✦
そのころ、リヴァルネ王国の王都近くにある賑やかな街の酒楼――
その二階、窓辺の席で鼻歌まじりに酒を煽るひとりの青年がいた。
燃えるような赤髪と、強い意志を宿した淡い茶色の瞳が印象的な男。
気だるげな態度で杯を傾けていたが、西の空から漂う、どこか不穏な魔力の気配に気づき、ふと眉をひそめる。
「……なんだぁ? やな感じだな。こりゃ面倒くせぇぞ」
せっかくの気分を台無しにされたとでも言いたげに、男はうんざりした表情を浮かべた。
だが次の瞬間、彼の姿はすでにそこになかった。
座っていた席には、飲みかけの酒と、きっちり置かれた支払いの小金だけが残されていた。
✦ ✦ ✦
灰色の霧に覆われた〈ルノワール湿原〉。
ぬかるんだ地面に足を取られ、五歩先すら見えないほど視界が悪い。
アリはアストリアン魔導騎士団を率い、すでに布陣していたリヴァルネ王国の部隊と合流した。
現地の指揮官が迎え出てきたが、その顔には疲労と焦燥の色が濃く浮かんでいた。
「アストリアン皇帝陛下、ご援軍、感謝いたします」
「うん。指揮官殿、状況は?」
「……対象は、あの古城の中に。なんとか追い込みました」
霧の奥、指差されたのは朽ちた古城跡。
空気が異様に重い。そこから漂う魔の気配は、自然界のものとは思えなかった。
あたりには、倒れた騎士たちの亡骸が横たわっている。
現在、リヴァルネの魔導騎士団が結界で古城を封じているが、その結界は今にも破れそうに震えている。
そして――
ビリビリという音と共に、結界が破られた。
次の瞬間、"それ"が古城から飛び出してくる。
霧を裂き、木立を揺らし、空気が震えた。
獣の唸りのようであり、風の唸りのようでもある音に、誰もが息を呑む。
姿を現したのは、白銀の体躯を持つ巨大な獣。
六つの瞳に、黒く稲妻のような尾、鋭い爪が地を裂く。
それは、伝説に語られる“フェンリル”そのものだった。
騎士団がざわつく中、ゼノが低くつぶやく。
「フェンリル……か」
「退くな!魔導騎士団、陣形を維持!防御結界を展開し、対象を討て!」
アリの号令で、各団員が次々と魔法を発動。
空と地、火と水の魔法が放たれ、獣の動きを封じようとするが、
俊敏な動きと凶暴な爪に翻弄され、多くの騎士が次々と倒れていく。
ゼノが大魔法を詠唱する。
「フランマ・モルティス!」
対象を灼き尽くす炎がフェンリルを包むが、ダメージは浅い。
続けて、アリも詠唱。
「クレマーレ・テッラ!」
周囲を焼き払う爆発的な火焔が霧を晴らし、獣の動きを一時鈍らせる。
しかし致命傷には至らない。
『大魔法でも効かない…やはりこれは、古の……』
フェンリルの身体が震え始める。
毛が逆立ち、六つの瞳は赤く燃え上がり、筋肉が隆起していく。
その変化に、アリとゼノも一瞬震えた。
「くっ……これはマズい!」
跳躍一閃、すでにフェンリルの姿は視界から消えていた。
次に気づいた時には、アリのすぐ隣の騎士数名の首が跳ね飛んでいた。
即座にアリが防御結界を展開――
魔物は牙をむき、結界に突進する。
火花が散り、強烈な衝撃が空間を揺らす。
だが――
「広域結界は脆い……!」
バリバリと音を立てて、結界が崩れ――破られた。
次の瞬間、フェンリルが跳躍し、アリへと迫る。
アリは魔力を込めた剣で斬り払う。
「ゼイクロール!」
剣に雷が走り、魔物を一閃。だが傷は浅い。
体勢を崩しながらも、フェンリルは再び牙をむく。
アリは再度結界を張ろうと詠唱に入る――が。
突如、体に重い疲労感が走り、わずかに反応が遅れる。
『……まずい!』
ゼノがその異変に気づき、詠唱を始めようとした刹那――
アリの目の前に、赤い影が割り込んだ。
「キーィィィンッ!」
金属がぶつかる高い音と、火花。
視界を遮るそれは――人の背中。
赤い髪と、淡い茶色の瞳の男だった。
「なんだあれは…新種の魔物か?」
軽口を叩くような口調だが、背中越しに放たれた剣撃には凄まじい魔力が宿っている。
アリは彼の顔を見て確信する――この男は、ただ者ではない。
「おそらくフェンリルだ」
「フェンリル…って、あの伝説の?マジかよ」
「巻き添えになるから――」
言い終わる前に、フェンリルが再び跳躍する。
「逃げられそうにねぇな」
冗談めかして言いながら、男が剣を振るい、アリと同等の魔力で斬りかかる。
だがやはり傷は浅い。
「効かねえのかよ、マジで面倒だな」
それでも、その攻撃が作ったわずかな隙を、アリは逃さなかった。
「全員!結界を展開、奴を拘束して!」
両国の騎士団が再び陣形を整え、結界での包囲に入るが、
フェンリルの速さに苦戦し、次々と仲間が倒れていく。
そんな中、再びあの男の声が響く。
「あいつを止めたいんだな?
アルデレ・カテナス!」
詠唱と同時に、魔物の四肢を炎の鎖が絡め取る。
そこに騎士たちが防御結界を重ね、ついにフェンリルを拘束することに成功した。
アリは覚悟を決めた。
――古の魔力、解放。
凄絶な気配が湿原を包み、空間が一瞬「無」となる。
「クルース・アルカ《原核の十字》!」
X字状の魔力波が放たれ、フェンリルの身体を直撃――
ハーピーの時のように、その姿は跡形もなく霧散した。
空に舞う光の砂塵。騎士たちの歓声があがる。
「やった、消えたぞ!」
「陛下、さすがです!」
「……助かった……」
アリもようやく安堵の息を吐く。
そして――
ふと、助けられたことを思い出し、男へと視線を向ける。
「ありがとう、助かった。あなたは――」
そう言いかけた瞬間、視界がにじむ。
『あれ……?』
次の瞬間、アリは意識を失った。
遠くで、男の声と、ゼノの叫びが聞こえる。
「おい! 大丈夫か!」
「姫ッ!!」
✦ ✦ ✦
遠くで誰かの声が聞こえる――
いや、思ったより近い。
ゼノと……もう一人、誰かの声だ。
アリの意識が、少しずつ現実へと引き戻されていく。
やがて、その声ははっきりと耳に届いた。
ビクッ、と体が反応し、アリは飛び起きた。
「姫っ!」
「あ、起きた?」
声の主は、ゼノと――あの赤髪の男だった。
「ここは……?」
見渡せば、見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。
「リヴァルネ湿原地帯近くの駐屯地。ここは医務室」とゼノが答える。
「私……いったい……」
「急に倒れたんだ。びっくりしたぜ」赤髪の男が腕を組んで言った。
ゼノも続ける。
「姫、大丈夫か? 大魔法を連発してたし、古の魔法まで使ったからな。
さすがに、かなり消耗したんだろう」
アリは眉を寄せた。
――疲労、なのだろうか?
疲労というより、何か力が抜けるような感覚はあった。
けれど、今はもう何ともない。
身体の芯まで軽く、すっかり回復したような気がする。
「心配かけたね……もう平気」
そう言ってから、赤髪の男に向き直り、改めて頭を下げた。
「さっきはお礼の途中だったわね。助けてくれて、ありがとう。
それで……あなたは?」
「どういたしまして」
にかっと笑い、男は名乗る。
「俺はアレクシス。アレクシス・ロウグランツだ」
アリは内心で『ロウグランツ……?』とその名を反芻した。
確か、どこかで……いや、まさか。でも――たぶん、そう。
「まさか……カルディナスの?」
「正解!」と、嬉しそうに彼は笑った。
「さすが、アストリアン皇帝陛下」
ゼノがぎょっとしたように口を挟む。
「ロウグランツってことは……皇族か?」
「なんだよその目!」とアレクシスが不満そうに顔をしかめた。
カルディナスの皇帝は高齢と聞く。つまり、アレクシスは皇子だろう。
アリは確認の意味も込めて問う。
「……アレクシス皇子と呼べばいい? それで、どうしてここに?」
「旅の途中で寄っただけだよ。放浪の旅さ」
気ままに一人で各国を巡っているらしい。
アリは少しだけ、そんな生き方に憧れた。
自分の意思で、好きな場所へ自由に行ける――
まるで鷹のようだと思った。
「旅はまだ続くの?」
ふと問いかけると、アレクシスはあっさりと言った。
「いや、そろそろ国に帰る。グランゼルドと、戦争になりそうでな」
……予想外の一言に、アリもゼノも言葉を失った。
とはいえ、グランゼルドとカルディナスの間に長年の確執があるのは、近隣諸国の常識。
アリとしても、安易に口出しはできない。彼女の発言ひとつが国際情勢を動かしかねないからだ。
だが、それでも心はざわついた。
また戦争が起きれば、傷つくのは市井の民たちだ。
そんなアリの様子を見て、アレクシスがからかうように言った。
「心配してくれるのか?」
「……民をね」
アリの即答に、アレクシスは軽く笑った。
「そりゃそうだよな」
そして突然、爆弾を投下する。
「なあ、アリア。俺の妃にならない?」
……またしても沈黙が訪れる。
アリとゼノは、目を見開いたまま固まった。
「頭、大丈夫か?」
ゼノがようやく発した言葉に、アリも続く。
「ちょっと、何を言っているのか、よくわからない」
「二人してなんなんだよ、その反応は!
アリアが退位したら、あり得る話だろ? 弟皇子がいるんだし!」
さすが、皇子だけのことはある。他国の皇族事情はよく知っているようだ。
確かにその通りだ。アストリアンの皇位継承者はカインである。
アリが退位すれば、婚姻の可能性も否定はできない。
アリは内心でため息をついた。
(……面倒なことを言い出すなぁ)
「ま、考えといてくれよな!」
アレクシスはそう言い残し、あっさりと部屋を後にした。
静まり返った室内。
扉のほうを見たまま、ゼノがぼそりとつぶやく。
「……なんだったんだ、あの人」
「嵐のような人だったわ。まさか皇子だなんて」
「だいぶ礼儀知らずだろ。皇帝陛下への態度じゃない」
アリはくすっと笑って、ひとこと。
「ゼノもあんな感じだよ?」
「えっ」
『えっ』
今さら?とでも言いたげなアリの視線に、ゼノが固まった。
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翌日、アリもルノワール湿原の調査に加わった。
次第に明らかになっていく、魔物出現の真相。
そこには、かつて現れたハーピーとの関連性も見え隠れしていた。
まるで“見えない闇”に導かれるかのように、アリはひとつずつ真実の扉を開いていく――
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