第46話 裏切りの国境線
朝日のぬくもりが、涼やかな風に和らぎ、心地よさをもたらす早朝。
アリはいつものように、迎賓館から王宮へと続く道を歩いていた。
王宮脇の小道に差しかかったとき、ふと裏手にある庭園へと視線を向けた。
昨夜、ルイと会話を交わした“隠し庭園”のことが、気になったのだ。
もう一度あの場所を通ってみよう。そう思い、アリは少し遠回りして王宮の裏へ向かう。
やがて草木に囲まれた一角が現れたが、昨夜あったはずの入口は、今は影も形もなかった。
(この辺りだったと思うけど……
やっぱり普段は閉ざされてるのね。受け継いだルイにしか開けないのかも)
そう思うと、魔法好きの血が騒ぎ、アリは不思議と心が躍った。
同時に、昨夜のルイとのやり取りが胸によみがえり、瞬間的に顔が熱くなる。
あの会話のあと、自分の気持ちにしっかり気づいてしまった――
アリの心には、あたたかくて、切なくて、くすぐったい……
これまで味わったことのない感情が、静かに渦を巻いていた。
(でも、私、まだルイに何も伝えていないのよね)
想いを言葉にしなければ、と思う反面、そういった経験のないアリには勝手がわからない。
(……でも、あまり時間を空けすぎるのもよくないわよね。よし、タイミングを見計らって伝えよう)
そう心に決める。
ふと、“隠し庭園”があった一角の隣に視線を移すと、何も植えられていない広い花壇が目に留まった。
(あら? 植え替えの準備かしら。あそこだけぽっかり空いていると、少し寂しく見えるわね)
気になったアリは、あとで庭師に聞いてみようと、ひとり静かに歩みを進めた。
✦ ✦ ✦
――王宮・玉座の間 御前会議
この日の御前会議はとある議題でざわついていた。
ヴァルシュタイン王国からグランゼルドに親書が届いたのだ。
親書の内容をエリオットが読み上げた。
――――――――――――
グランゼルド帝国 ルイ・ヴァルディア皇帝陛下
貴国のご隆盛と、陛下のご健勝を心よりお慶び申し上げます。
陛下がご即位なされてから、早や一年余。政情も安定し、新たなご治世が着実に歩を進められている様子、我が国としても頼もしく拝察しております。
かつて両国の間に些かの行き違いがありましたが、我々はそれを過去のものとし、あらためて貴国との対話と友好の機会を得たく、このたび筆を執りました。
両国の未来にとって、相互理解と協調が不可欠であることは申すまでもありません。
つきましては、我が国より使節を派遣いたしたく、陛下のご高配を賜れればと存じます。
陛下の英断を心よりお待ち申し上げておりますとともに、貴国のさらなるご繁栄を祈念いたします。
ヴァルシュタイン王国 国王
アルバート・ヴァルシュタイン
――――――――――――
読み終えると、重臣たちは口々に意見を述べた。
「ヴァルシュタイン王国が歩み寄る姿勢を見せているとは――」
「なにか思惑があるのではないか?」
「ルイ様の治世に、つながりを持ちたいとお考えなのでは?」
前向きに受け取る者もいれば、やはり過去の確執を知る者は疑心暗鬼にならざるを得ない。
ルイもまた、先帝の時代からヴァルシュタインとの関係について、ある程度の情報は得ていたが――
いくつかの疑問が頭をもたげていた。
(皇帝が代替わりし、新たな関係性を構築しようというのは理解できる。だが……なぜ“今”なのか?)
グランゼルドから消えた金。その行方を追った先に浮上したヴァルシュタイン王国の名。
その存在に気づいてから、あまりにも“タイミングが良すぎる”のではないか?
ルイはそう感じていた。
この日、アリも御前会議に同席していたが、おそらく同じことを考えているのだろう。
彼女の表情には、腑に落ちないという疑念が滲んでいた。
やがて、宰相カイエンが口を開いた。
「ヴァルシュタイン王と先帝ロイ様は、過去の確執ゆえ、ほとんど交流がございませんでした。
ルイ様が即位されたことで、その関係をいったんリセットし、今後は交流を深めたいというお考えかと」
たしかに両国の関係は冷え切っていた。だが、それは貴族や皇族といった上層部の話である。
一般の民同士は、旅行や商取引などを通じて、細くとも確かなつながりを持ち続けていたのだ。
ルイも、金の件がなければ「願ってもない申し出」と受け取っていただろう。
思案に沈む彼の思考を遮るように、シリウスが言葉を発した。
「陛下。ヴァルシュタインは隣国にございます。親交を深めるのは、決して悪い話ではありません。
この度の申し出は、またとない機会となりましょう」
その発言を皮切りに、重臣の半数が前向きな姿勢を見せ始めた。
彼らもまた、この提案を好機と捉えたのだ。
表面上、皇帝として断る理由は見当たらず、半数以上が賛同の意を示している以上――
拒む理由は、すでにないに等しい。
ルイはそう判断し、承諾せざるを得ないと心を固めつつあった。
だが、どうしても引っかかる。
なにか、見えない闇の中に足を踏み入れるような、そんな予感が拭えなかった。
だからこそ――慎重に進める。
「……わかった。ヴァルシュタイン王の申し出を受け入れよう。
使節団は、丁重にもてなせ」
「御意にございます」
一同が一斉に頭を垂れ、会議は静かに締めくくられた。
✦ ✦ ✦
王宮二階、薄暗く人気のない廊下――。
音もなく立っていた騎士に、背後から声がかかる。
声の主は、シリウスだった。
「使節団がもうすぐ国境に入る――」
低く呟かれたその言葉の続きは、騎士にしか届かない。
次の瞬間には、ただ不穏な空気だけが、廊下に残されていた。
✦ ✦ ✦
――グランゼルド帝国 西の国境
ヴァルシュタイン王国の使節団が、静かに国境を越えた。
ここから王都までは、あと二日の道のり。
緩やかな山間の街道を、馬車や騎馬が連なり、ゆっくりと進んでいく。
まもなく、グランゼルドが派遣した騎士団と合流するはずだった。
使節団の団長を務める外務省副大臣リューズは、馬車の中で憂鬱な面持ちを浮かべていた。
外交は本来、彼の職務として当然のものだ。
だが、今回のグランゼルドへの使節派遣には、腑に落ちないことが多すぎた。
そもそも今回の提案を王に進言したのは、上司である外務大臣・フリード。
彼はこれまでグランゼルドとの外交には一貫して否定的な立場だったはず――
それが、数か月前に突如として態度を一変させたのだ。
『グランゼルドには豊かな資源や特産物があります。今後は貿易に注力すべきです。
皇帝も代替わりされ、騎士団の増強も進めているとか。
魔物の脅威もありますし、友好を築くに越したことはありません。
この機に、我が国の繁栄と栄達の糧といたしましょう』
王はもともと中立寄りの姿勢で、グランゼルドとの確執を強める意思はなかった。
そこにフリードの巧みな弁が加わり、気づけば親書が送られ、使節団が組まれていた。
リューズがフリードを嫌う理由は明快だ。
彼は金に目がなく、強欲の権化のような男である。
やっかいなのは、その強欲を覆い隠す社交性と話術――
人を丸め込むことにかけては、まさに天才だった。
外務大臣にまで上り詰めたのは、半分は金の力、もう半分はその才覚によるものだと、リューズは見ている。
(あの男……間違いなく、外務大臣で満足などしていない。
この使節団も、何か裏があるに違いない――)
長年仕えてきたからこそ分かる、フリードの腹黒さ。
しかも最近、彼は誰かと密会している様子すらあった。
そんな考えを巡らせていたときだった。
街道の両脇に雑木林が深まったその場所で――
馬車の外から、突如悲鳴が上がった。
「ぎゃあああっ!」「何者だ!!」
直後、剣戟の音が立て続けに響く。
馬車が急停止し、馬が嘶いた。
リューズは衝撃で前のめりになりながらも、すぐに表へ飛び出す。
そこは、まるで――
戦場だった。
土埃に溶ける砂色のフードで顔を隠した襲撃者たちが、使節団を次々に切り伏せている。
魔法まで使い、容赦なく殺傷していた。
「なんだ……これは……」
「リューズ様!お逃げください!!」
護衛兵たちが必死にリューズを守りながら応戦するが、
襲撃者たちは鮮やかに、そして容赦なく、一行をなぎ倒していく。
文官のリューズに戦える術はない。
震える手で剣を抜くが、訓練でしか触れたことのないそれが、今はただ重い。
やがて護衛たちが倒れ、ついに――
襲撃者の一人が、リューズの前に立ちはだかった。
「貴様ら……何者だ!
我らはヴァルシュタイン王の使者!!
グランゼルドの地でこのような暴挙を働けば、戦争になるぞ!!」
怒鳴るように叫んだ。
だが、その訴えは届かない。
男の剣は、無言のまま、容赦なく振り下ろされた。
「ぐっ……あああああっ!!」
リューズの体を貫いた一撃。
彼は血飛沫をあげ、その場に崩れ落ちた。
意識が遠のいていくなか――
遠くから、多数の馬蹄の音が近づいてくる。
グランゼルドの騎士団か。
翻る国旗が、霞む視界にわずかに映った。
それが、リューズが見た最後の光景だった。
次の瞬間、襲撃者たちは、霧のように姿を消した。
まるで――
最初からそこには、何もなかったかのように。
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