第43話 ざわめく心
――ルイの生誕祭当日
式典を終えた夜、王宮では盛大な宴が開かれていた。
この場には、皇族や貴族、重臣、その関係者など、普段は顔を揃えない者たちも多く列席している。
いまだ妃を迎えていないルイに、なんとか娘をと願う貴族や重臣も多く、この日は、身分も美貌も申し分ないご令嬢たちがずらりと揃っていた。
流行の美しいドレスをまとい、気品を漂わせた初々しい令嬢たち。
妃の座が空いている今だからこそ、正妃、ひいては将来の皇后の座を狙えるとあって、熾烈な水面下の駆け引きが交錯する。
先帝ロイ・ヴァルディアの遺言、そしてルイが「妃にしたい人がいる」と公言した当初は静観していた貴族たちも、妃がいまだ迎えられていないという現実に業を煮やし、最近では改めて娘を推す動きも目立ちはじめている。
一国の皇帝が独身であるということは、それだけで国政に関わる重大事項。
ゆえに、生誕祭とはいえ、周囲の関心が「次期皇后」に向けられていることは、誰の目にも明らかだった。
ルイは玉座に座り、笑顔を浮かべて祝辞を受けながらも、内心ではため息をついていた。
そして、宴の開始から姿を見せていない“あの人”のことを考えていた。
✦ ✦ ✦
――迎賓館 憩いの間
アリは、大きな椅子に腰かけ、最近仕入れた魔法書に目を通していた。
「ねぇアリア、宴に出ないの?」
そう尋ねてきたのは、二階から降りてきたユイナだった。
アリはユイナをチラリと見て「うん」とだけ短く返事をする。
そのまま壁の時計に目をやり、「あ、もうこんな時間だったんだ」と呟くが、すぐにまた書物へ視線を戻した。
アリが魔法書に熱中するのは、アストリアンにいた頃から変わらない。
けれど、ユイナはルイのことを思い、少しだけ心配そうな声で続けた。
「ルイ様のお祝いだよ?……がっかりしちゃうんじゃない? それに、アリアも……」
言いかけたところで、アリは顔を上げ、ニッと笑って制した。
「ルイには伝えてあるよ。宴には出ないけど、終わったらプレゼントは渡しに行くって」
「でも、さっき侍従が来たでしょ? 出席をお願いしたいって」
そう――確かにルイには欠席の旨を伝えていた。
けれどなぜか、侍従は「それでもお考え直しを」と食い下がってきたのだ。
「どうして出ないの?」とユイナが問いかけると、アリは落ち着いた口調で答えた。
「貴族や重臣のご令嬢が、大勢出席してるからね」
――そう。この生誕祭の宴は、実質的に妃候補たちのお披露目会ともいえる。
貴族たちはこの日を待ち構えていたし、最近になってまた、縁談の話がいくつも舞い込んでいた。
娘を皇帝に紹介したい親たちにとって、この場は絶好の機会なのだ。
その噂は王宮中に広まり、アリの耳にも当然届いていた。
かつてルイが「妃にしたい人がいる」と宣言した、その“本人”であるアリがそんな場に姿を見せれば――どうなるか。
正式に婚約しているわけでもなく、返事すらしていない今、自分が出て行けば空気を凍らせるだけかもしれない。
どんな顔で出席すればいいのか、アリにはわからなかった。
そんなアリの考えを聞いたユイナは、少し呆れたように言った。
「えぇ? 気にしすぎでしょ。堂々と参加すればいいのに」
まぁ……とアリは少しだけ考える素振りを見せたが、やっぱり煩わしさが勝る。
このまま静かにやり過ごせればそれでよかった――はずだった。
だが、その願いは唐突に打ち砕かれる。
迎賓館の扉が静かに開き、予想外の人物が姿を現す。
「エリオット!?」
静かに扉を閉じたエリオットは、まっすぐアリの元へと歩み寄る。
どこか改まった雰囲気を漂わせていた。
そして、軽く一礼しながら告げた。
「ルイ陛下よりご伝言を承りました。――『宴に出席せよ』との仰せでございます」
いつもはもっとくだけた口調なのに、明らかに「命令」であることを強調した語り口だ。
ユイナはくすくすと笑っているが、アリは内心「やられた……」と苦笑していた。
(出ないって言ったとき、ルイは反対しなかったのに……!)
「アリア、もう断れないね。さ、着替え手伝うから!」
ユイナはノリノリでアリを部屋へ連れて行き、あれこれと準備を始める。
「エリオット! ルイ様には“アリを連れていきます”って伝えておいて!」
ユイナが勝手に返事をしてしまうと、
「ありがとうございます。では、よろしくお願いいたします!」
エリオットは満面の笑みを浮かべ、さっさと迎賓館を後にしてしまった。
――行ってしまった。
もう逃げ道はない。
アリは小さくため息をつくと、黙ってユイナの支度を受け入れた。
✦ ✦ ✦
宴の間では、貴族や重臣たちがルイへの祝辞の順番を、今か今かと待ちわびていた。
「ルイ様、このたびはご生誕の日、誠におめでとうございます」
「私の娘の――」
祝辞にあわせて娘を紹介するという“お決まり”の応対が続き、さすがのルイも、やや疲れの色を浮かべていた。
そのとき――
宴の間に隣接する控えの間が、ふいにざわついた。
「おお、あれは――」
「美しいな……」
小さく漏れる感嘆の声に、ルイは重臣の祝辞が終わるのを見計らい、静かに席を立って控えの間へと向かう。
そして、ちょうど同じタイミングで、こちらへ歩みを進めていたのは――アリだった。
白銀の光を織り込んだような淡い青のドレスが、風に揺れるように軽やかに波打つ。
装飾は控えめながら、繊細なレースと煌めく宝石が要所を飾り、その佇まいには気品と威厳が漂っていた。
背筋を伸ばし、穏やかに微笑むその姿に、誰もが息を呑む。
華やかすぎない。だが――美しい。
まるで、王の隣に立つべくして生まれた者の装いだった。
「あれが……アストリアンの元皇帝……」
「……美しすぎる……」
周囲から、そっと漏れる驚きと感嘆の声。
だが彼女は、気づいていても振り返ることなく、ただ静かに歩を進める。
その視線の先にいるのは――ルイだった。
アリが皇帝を退いてから、公の場で着飾ったのはこれが初めてだ。
ルイにとっても、初めて目にする姿だった。
ルイはそのあまりの美しさに、束の間、時を忘れた。
「ルイ陛下、このたびはご生誕の日、誠におめでとうございます。
――陛下の歩まれる道が、栄光と平穏に満ちたものでありますように」
そう言って、アリは丁寧に一礼する。
ルイはハッと我に返り、微笑みながら応じた。
「アリア殿下、ありがとうございます」
そう言って、アリの手を取ろうとしたそのとき――
「陛下」
不意に声がかかる。反射的に振り返ると、そこにはシリウスが立っていた。
彼は一見無害な微笑を浮かべながら言った。
「陛下にご紹介したい方がおります」
そう言って、後ろに控えていた人物を前へ促す。
金糸の刺繍が施された深紅のドレスに身を包み、華やかに結い上げた髪を揺らして歩み出る少女――
ナナ・アレンスは、まるでこの場の主役であるかのような自信をまとっていた。
「お久しぶりですわ、ルイ様」
その声に、ルイの目がわずかに見開かれる。
「……ナナ」
自然に名を呼び、驚いたような表情を浮かべるルイ。
そのやりとりに、周囲の視線が一気に集まった。
だが、ルイは宰相カイエンから娘が出席するとは一言も聞いていない。
すぐにカイエン自身が駆け寄ってきて、ナナに声をかけた。
「ナナ、なぜここに……今日は出席は不要と伝えていたはずだ」
その言葉に割って入ったのはシリウスだった。
「私がご招待したのですよ、宰相殿。
ルイ陛下にはまだお妃がいらっしゃらない。優秀な候補は、広く紹介するべきでしょう?」
露骨な狙い――アリを妃にさせたくない意図は、ルイにも察しがついた。
「お心遣い、ありがとうございます。ですが兄上、今日は私の誕生日。
過度なお気遣いは無用です」
ルイは穏やかに笑いながらも、しっかりと釘を刺した。
それを見ていたナナは、意にも介さないように微笑み、扇を口元に当てて言った。
「まぁ陛下、ずいぶん冷たいですわ。まさか本当にご即位されるとは……
皇子の頃からお変わりなく、いえ、以前にも増してご立派に。
お慕いする方が絶えないのも、よくわかりますわ」
ルイは少しだけ間を置き、言葉を選ぶようにして淡々と返す。
「……ずいぶんと立派になったな。もう、あの頃の無邪気な子どもではないのだな」
その口調には、穏やかさとともに、どこか懐かしさが滲んでいた。
そして、ふとアリの方へ視線を向ける。
「アリ、こちらへ来て」
手で静かに促され、アリが歩み寄ると、ルイは続けた。
「紹介する。カイエンの娘、ナナ・アレンス嬢だ」
それに応じて、ナナが優雅に礼をとる。
「アリア殿下。父からも、たびたびお話は伺っておりますわ。
ナナ・アレンスと申します。どうぞ、お見知りおきを」
元皇帝を前にしても物怖じせず、魅力に満ちた堂々たる挨拶だった。
(カイエン殿とはあまり似ていないわね。でも――
とても利発で活発そう。そして、揺るぎない自信を湛えている……)
「アリア・クラリエルです。どうぞよろしくお願いいたします」
アリもまた、丁寧に応じた。
「ふふ。とても美しい方ね。ルイ陛下が“妃に決めている”と仰った方ですもの。
さすがですわ」
ナナの言葉に、ルイが静かにたしなめる。
「……ナナ、それは――」
「でも、本当のことでしょう? この場にいる皆、気になっているはずですわ」
声こそ控えめだったが、やり取りを見ていた周囲の者たちは、まさにその話題に敏感だった。
「……たしかに……アリア様のご出席は、お妃候補へのけん制……?」
「では、他の候補たちはどうなるのだ……」
宴の空気が徐々にざわついてゆく。
(あぁ……だから、欠席にしたかったのに……)
アリは内心、煩わしさを覚えていた。
「けれど実際、まだどなたもお妃に迎えられていないのですもの。
お考え直しいただける余地は、ありますわよね?」
そう言いながら、ナナはさらりとルイの腕に寄り添った。
ルイは静かにその手を取り、やんわりとほどく。
その所作は、拒絶ではなく、慣れたような穏やかさを帯びていた。
「……やめなさい」
そう言ったルイの声音もまた、優しかった。
ナナは気を悪くする様子もなく、笑顔のまま応じ、二人はしばし言葉を交わす。
昔話に花を咲かせるその様子は、周囲から見ても、気心の知れた旧知のように映っていた。
その様子を見ていたアリは、ふと目を伏せる。
――宰相殿のご令嬢か……きっと昔から親しいのね。
言葉も仕草も、柔らかくて――ああいうのは、自然には出せない。
心の奥に、得体の知れないざわめきが生まれていた。
(なんか……変な感じ。これ、なんだろう……)
気づけばアリは、静かに宴の間を後にし、迎賓館への道を歩いていた。
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