第37話 重圧の檻
アレクシスたちが断崖の先へと駆け出したその瞬間――
彼らの目に映ったのは、現実とは思えないほど、圧倒的で恐ろしい光景だった。
陸地から数百メートル離れているだろうか、ケネル海沖の海面が見たこともないほどに隆起していた。
津波を思わせる光景だったが、違った。
盛り上がっていた海面が徐々に割れ、そこに大質量の何かがゆっくりと姿を現した。
表面は赤黒く、斑点まじりでゴツゴツしている。
そして、数百メートル離れているはずなのに、すぐ近くにあるように見えるほど――圧倒的に巨大。
まるで、一つの島が、海から這い出てきたかのようだった。
その物体の全容が現れる。
「タ、タコ……?」
「いや、イカ……?」
調査団員たちが、状況にそぐわぬ言葉を口にした。
だが、それしか形容しようがない。
ゼイガルは確信したように呟く。
「……クラーケン、では」
その時、天を貫くほどの高さまで伸びた巨大な触手が、勢いよく振り下ろされ、多数の船を叩き潰した。
轟音とともに波が巻き起こり、渦が新たな船を飲み込んでいく。
「おいおいおい、なんだよ、ありゃあ……!」
アレクシスも、ゼイガルも、ただ呆然とするしかなかった。
だが、犠牲者が出たことで、アレクシスは我に返る。
「これ以上、被害を出させるわけにはいかねぇ! ゼイガル、結界だ!!」
即座に結界の構築を始めるが、沖との距離、そして相手の巨大さがそれを阻む。
ゼイガルが叫ぶ。
「アレクシス様、この距離では、結界の強度が――!」
「近寄れるだけ近寄って張り続けろ!」
張っては破られ、張っては破られ……を繰り返す。
触手がまた天へと伸び、鋭利な槍状へと変化し――陸地を刺突した。
避難中の民が多数、巻き込まれていく。
「くそっ!!」
崖は砕け、クラーケンはさらに接近してくる。
アレクシスたちは断崖の方向に結界を張るが、またしても破られる。
このままでは村が――。
その時だった。
また触手が突き出された――が、直前で動きが止まる。
「止まった……?」
ゼイガルが目を凝らす。
揺らめく空間。
それは――
「結界だ!」
アレクシスの声が震える。
広域の結界が展開され、クラーケン全体を包み込んでいた。
触手が陸地に届かない。
「あんな広域結界……嘘だろ……」
二人は絶句した。
その結界の主を、ゼイガルが見つけた。
「……ルイ陛下!?」
断崖の上に、凛然と立つ一人の男。
五大属性を全解放し、混合属性による超広域の結界を構築していた。
「やりやがる!」
アレクシスは即座に気づく――これは【空】属性を軸にした五属性混合結界。
とてつもない魔力量と緻密な制御が必要だ。
✦ ✦ ✦
ルイは少し前に断崖に到着していた。
クラーケンの姿を確認するや否や、五大属性を全開放。
【空】属性の性質を生かした結界で対象全体を封じた。
(負担がない……!)
アリに【水】属性の詰まりを解消してもらって以来、魔力の流れが劇的に改善されていた。
だが楽観視はしていない。結界にも限界がある。
(早く討伐せねば……)
「アデル! 結界の補強を頼む。私は攻撃に移る」
「はっ!」
アデルたちが補強に入るなか、ルイは魔装し、クラーケンへ接近。
クラーケンは結界内でも暴れ続け、ついに結界を破壊――
パリィ――――ン!
触手がルイに迫る。
防御結界で防いだものの、強烈な衝撃で吹き飛ばされ、断崖に叩きつけられる。
「ルイ様ーーーー!」
アデルの叫びが響く。
ルイは傷を負っていないが、接近戦は難しい。
(もう一度、張るしか――)
そう考えた瞬間。
クラーケンの体表が、赤黒から真っ黒に変色。
そこから黒い霧が発生し、周囲に広がっていく。
「……毒の霧だ!!」
逃げ遅れている多数の船。乗員たちが次々と倒れていく。
陸地にも霧が迫る――
その時。
「ドミヌス・エンプティア――《空なる支配者》」
詠唱とともに、無属性の空間が展開。
黒い霧が霧散し、クラーケンは再び空間に封じられた。
「これは……古の魔法!」
霧が晴れ、ルイは断崖の向こうにその姿を見つける。
「アリ!」
アリも魔装し、こちらへ走り出す。
「ルイ、結界が保たれている間に、五大魔法で攻撃を――!」
ルイは頷き、再び魔装。
そして、結界に覆われたクラーケンのすぐそばに到達すると、ルイは大魔法を詠唱した。
本来、詠唱なしでも魔法を行使できる。だが、今回は外せない。
より正確に、より強力に。そう判断したからこそ、あえて詠唱を選んだ。
「──テルラ・グラヴィオルム」
空気が重たく淀み、水面は凍りついたようにぴたりと動きを止めた。
クラーケンの巨大な触手が、空中でピクリと震える。
次の瞬間――
目に見えぬ力がその全身を包み込み、圧し潰すように襲いかかる。
海中から、悲鳴のような咆哮が響いた。
“海であろうと、この重力の檻からは逃れられない”。
“重圧魔法”として発動する地属性の大魔法。
地に触れずとも、周囲の空間に重力場を展開し、対象を圧迫するこの術式に、
ルイは他の四属性すべてを混合し、圧倒的な力としてぶつけた。
アリの張った空間結界が、その効果をさらに高める。
結界によって空間そのものの圧が強まり、重力場の密度が限界まで高まっていた。
アリはその様子を見て、目を見張る。
(すごい……地属性は水に強いから基礎にするのは当然だけど、
私の結界も利用して、空間内の圧縮率を強めてる。
古の魔法インペルス・マギア《魔の衝圧》と同等かもしれない……!)
そして、クラーケンの巨体がじわじわと歪み始める。
赤黒い表皮のあちこちから、血のような液体が滲み出ていた。
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