第35話 遠き南の地へ
月が空高く昇った頃、政務を終えたルイとアリは政務室で束の間の休息を取っていた。
カルディナスへ向かう前に片付けておくべき業務は山のようにあり、日中は公務以外の会話を交わす余裕すらなかった。
ようやく一息つけた今、出立は明後日に控えている。
ルイが自ら同行を宣言してからも、アリの不安は拭えなかった。
ルイが優れた魔導士であり、五大魔法を混合して扱えるのは彼とアリだけ――その事実を理解していても、やはり彼を危険に晒すべきではないと感じていた。
古の魔物の脅威は想像以上であり、今回出現するものがさらに強大である可能性もある。
底知れぬ不安が、アリの胸に影を落とす。
(万一のことがあったら――)
止めてもきっとルイは行くだろう。
それでも、言わずにはいられなかった。
ぽつりと、アリが口を開く。
「ねぇ、ルイ。本当に行くの?」
ルイは驚いたようにこちらを見た。
短い沈黙のあと、静かに問い返す。
「……心配?」
アリは小さく頷いた。
「……もしルイに何かあったらと思うと……怖くてたまらない」
それが皇帝だからか、友人だからか、それとも別の感情なのか。
自分でも、理由はよくわからなかった。
ルイは優しく笑みを浮かべて応じる。
「俺も同じだよ。君に何かあったらと思うと、怖い。
君は前回の討伐で倒れたし、古の魔物は以前より強くなっている。
騎士たちが命を懸けて戦っているのに、俺だけ静観するわけにはいかない」
そして、少し冗談めかして続けた。
「それに、君はケガまで負ってる。行かない理由がますますなくなったよ」
そう言ってルイは立ち上がり、アリのそばへ歩み寄る。
アリは、今の自分の体調や傷が、ルイを現地へ向かわせる一因になっているのだと、胸が痛んだ。
不甲斐なさと申し訳なさで、どこか沈んだ表情をしていたのだろう。
そんな彼女に、ルイは穏やかに語りかける。
「大丈夫。俺は死なないし、君も死なせない。
俺は自分の意志で行く。だから、君は気に病まないで」
そう言って、ふいにアリを抱きしめた。
突然のことで、アリの頬が熱くなる。
抗議の声をあげる前に、ルイはそっと彼女を離した。
「……さあ、今日の政務は終わった。ゆっくり休もう」
その声は、いつになく優しくあたたかかった。
✦ ✦ ✦
――そして、出立の日を迎えた。
王宮正門前には、調査団の一行とともに、宰相カイエンやエリオットをはじめ、重臣たちが見送りに集まっていた。
「では、行ってくる。カイエン、エリオット、留守を頼む」
ルイは二人の前に立ち、静かに告げた。
カイエンとエリオットもそれぞれ頷き、応える。
「はい、いってらっしゃいませ」
「ルイ様、お任せを。どうかご無事で――」
そうして、一行はカルディナス帝国へ向けて旅立った。
カルディナスへは、セレフィア王国のときと同様、昼夜を問わず馬で駆け続ける。およそ三日ほどで到着する見込みだ。
✦ ✦ ✦
――カルディナス帝国 王宮
カルディナスでは、ルイからの親書を受けて、調査団の受け入れ準備が着々と進められていた。
ルイは皇太子時代からカルディナス外交を担っており、両国は友好関係にある。
帝国皇帝アマデウス・ロウグランツは、第一皇子アレクシスに対して丁重な応対を命じた。
「アレクシス。どうやら今回は、グランゼルド皇帝自らが同行しているようだ。くれぐれも丁重に、頼むぞ」
アレクシスは、アリの来訪については事前に通達を受けていたが、ルイ本人が来るとは知らず、
(皇帝が来んのかよ?!)と内心驚いた。
彼自身、以前の出現に直面しており、その脅威を理解している。
魔物は次第に強大になっているとも聞く。
ルイが随行するのは、その力が必要になったからか――と、アレクシスはすぐに察した。
と同時に、
(まあ、強いのはわかってるけど……結局、アリアのことが心配でついて来たんじゃねぇの?)
と踏んでいる。
アレクシスは、事前にグランゼルド側から依頼のあった通り、
カルディナス国内の高位神殿の洗い出しを、急ぎ指示した。
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――カルディナス帝国 王都
グランゼルド調査団一行が王都に入った。
その知らせを受けたアレクシスは、政務を放り出し、窓から姿を消した。
それを見ていた魔導騎士団長ゼイガルは、「やれやれ」と肩をすくめる。
一行は王都の中心部へと足を進めていた。
街は異国情緒にあふれ、多文化が入り混じり、お祭りのような賑わいを見せている。行き交う人々の顔は明るく、民は皆どこか楽しげだった。
「すげぇにぎやかだな」
ゼノが思わずホエーと声を漏らす。
アリもまた、王都の景色に見入っていた。
「そうね。アストリアンともグランゼルドとも違う……どこか自由な空気があるわ」
「ここは多国籍の人々が行き交う国だからね。海を越えて、色んな国の人が立ち寄るらしい」
と、ルイが補足する。
(そういえば、ルイはカルディナス外交も務めていたっけ)
とアリが思い出していると、ふと、街路の頭上に目を留めた。
左右の通り、そして王宮へと続く空に――
真紅のオブジェがずらりと掲げられていた。
まるで、王宮へと導く道しるべのように。
太陽を受けて光を反射するそれは、ガラス細工のようで、空に燃える炎のようでもあった。
「……アレクシス皇子みたいなオブジェね」
ぽつりとアリがつぶやいた、その瞬間――
「呼んだか?」
不意に声がして、大きな影がアリの目の前に舞い降りた。
反射的に身構えるアリ。だが、その影の正体にすぐ気づく。
「アレクシス皇子!」
(えっ、聞こえたの!? どれだけ耳がいいのよ……!)
内心で突っ込みながらも、アリは目を見開いた。
当の本人はにかっと笑って、まるで当然のようにアリの頭をわしわしと撫で回す。
「よっ、元気か?」
「あ、ちょっ……やめなさ――」
二人がじゃれあう横で、不意に冷たい圧を感じて振り向くと、
ルイが静かに、しかし明らかに怒気を孕んだ視線を投げていた。
「お、ルイ陛下! お久しぶり!」
アレクシスが慌てて明るく挨拶を投げると、
ルイはため息混じりに応じた。
「アレクシス皇子……相変わらずですね」
その笑顔の裏に宿る圧に、アレクシスは内心『ひえっ』と悲鳴を上げながらも、けろっとしていた。
そのまま一行はアレクシスの案内で王宮へと向かう。
途中、街の様子や変化について彼が饒舌に語るのを、アリもルイも静かに聞いていた。
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――王宮・謁見の間
到着するなり、一行は皇帝アマデウス・ロウグランツのもとへ通された。
「ルイ陛下、そして調査団の皆さま。ようこそお越しくださいました」
皇帝は重々しく、しかし穏やかに迎え入れた。
「此度の件、カルディナスとしても早急に対策せねばなりません。
支援はいくらでもいたします。必要があれば……愚息――あ、いや、アレクシスにお申しつけを」
(いま、愚息って言ったよね……?)
思わず一同が耳を疑う。
「愚息はねぇよ!」
アレクシスが小声で抗議するが、誰もが思っていた。
(この父にしてこの子あり、だな)
アリとルイは、不謹慎ながら肩を揺らして笑いを堪えていた。
ルイは気を引き締め、きりっと姿勢を正して応える。
「アマデウス陛下、ご協力に感謝いたします。
古の魔物はまだ出現していないようですが、直ちに調査に入らせていただきます」
皇帝は頷き、調査の開始が告げられた。
✦ ✦ ✦
アリ、ゼノ、ルイ、そして両国の騎士団長が一室に集まり、調査方針の検討が始まった。
まずは、カルディナス騎士団団長のゼイガルが、神殿に関する情報を提供する。
「カルディナス国内にある高位の神殿は、約百か所ございます」
「百!?」とゼノが思わず声を上げた。
カルディナスはグランゼルドと同等の広大な領土を持ち、また神々を祀る文化も深く根づいており、他国より神殿の数が多いのだという。
「……さすがに、百か所をすべて調査するのは現実的ではありません。
ある程度、絞り込む必要がありますが……」
と、アデルが低くつぶやく。
アリはしばらく思案したあと、口を開いた。
「……水か火属性の神殿で絞ると、いくつになる?」
その問いに答えたのは、アレクシスだった。
「カルディナスは、火属性の神殿は少ないぞ。
むしろ水属性のほうが多い。ゼイガル、水属性で絞ると?」
「そうですね……属性分類のない神殿も多いのですが、
高位の水属性に限定すれば、三十か所前後かと」
「アリ、水属性に絞る理由があるの?」
と、ルイが尋ねる。
「うん……あくまで勘なんだけど、
これまで召喚された古の魔物は、空、風、地――この三つの属性に関連してたから。
五大魔法の中で、まだ出てきていないのは火と水。
もしかしたら、そのどちらかが来るんじゃないかって、思ったの」
根拠は薄い。偶然の可能性も高い。
けれど、それでも妙な確信のようなものが、アリの中にあった。
「それにね、ハーピー、フェンリル、タイタン……それぞれ戦って感じたけど、
攻撃の性質や動き方が、それぞれ空・風・地の属性と対応してる気がするの」
「たしかにな。この前のタイタンなんか、地と同化してたしな」
とゼノが相槌を打つ。
「ということは……今度は水属性の神殿で、水に関係する魔物が出てくる……?」
ルイのつぶやきに、アリがはっとしたように顔を上げた。
「……水……。カルディナスって、海に面してる国よね。
これまでの傾向からしても、魔物は広い場所に出現してる。
もし今度の魔物が水に関するものなら、……海に現れる可能性もあるわ」
その場にいた誰もが、まだ断定はできないという思いは抱きつつも、
アリの直感が的を外していない――そんな予感を感じていた。
そして、ルイが静かに指示を出した。
「――よし。では水属性の神殿に絞り、
さらに海に近い場所を優先して調査を進めよう」
こうして、調査団はそれぞれ割り当てられた神殿へと向かっていった――
次なる“古の気配”を探し出すために。
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