第15話 父と母へ
――アストリアン王都東 聖命の丘
王都の東、聖命の丘。
そこは歴代皇帝とその妃たちが静かに眠る、王国でも特に神聖とされる場所だ。
王都の喧騒から離れ、四季折々の草花に彩られたその丘は、穏やかで優しい空気に包まれている。
アリの目の前には、白く磨かれた石碑が静かに佇んでいた。
そこには父と母の名が丁寧に刻まれており、風に揺れる季節の花々が供えられている。
ひんやりとした石の冷たさが、二人の不在を物語るようだった。
アリはふたりの墓前にしゃがみ込み、そっと手を合わせる。
「父上、母上……やっと来られました。
カインが、アストリアンの皇帝として即位しましたよ」
言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「私が、父上の代わりにカインを帝にするのだと、
アストリアンを平和に導く手助けをするのだと……
そう決めて、ここまでやってきました。
帝位について十三年――あっという間でしたね」
アリはふと微笑みながら、墓前に語りかける。
「私は、国を……民を、うまく導けていたでしょうか。
カインは、きっと私以上に立派にアストリアンを守ってくれると思います。
でも、私も頑張りましたから……少しくらい、ほめてくださいね」
そのとき、頬にふわりと風が吹いた。
ずっと張り詰めていた心の糸が、ふっと緩んだ気がした。
笑おうとしたその瞬間、押し込めていた想いが堰を切ったようにあふれ出し、
頬を伝う涙に変わっていた。
これは、誰にも見せられなかった自分自身のための涙――ようやく流せた、十三年分の想いだった。
ようやく――今この時になって、父と母の前で泣くことを、自分に許せたのだった。
しばしの沈黙のあと、アリは再び顔を上げて語りかける。
「私は、これから私のなすべきことを果たします。
……父上、母上の“真実”を、この手で明らかにしたいのです。
だから――待っていてくださいね」
そう言って立ち上がったアリの瞳には、決意と覚悟の光が宿っていた。
そしてその背を、静かに風が押した。
――聖命の丘には、今日も優しい風が吹いていた。
✦ ✦ ✦
アリのもとに、グランゼルド皇太子ルイからの急報が届いた。
皇帝ロイが倒れたという知らせだった。
幸い、意識はあるという。
だが政務を執るには厳しい状態で、ルイが可能な範囲で代行しているらしい。
文末には、ロイが「アリア殿下に会いたがっている」と添えられていた。
(ロイ様が……またお倒れに)
胸の奥にひやりとしたものが差し込み、不吉な予感が拭えない。
アリは迷わず、グランゼルドへ向かう決意を固めた。
✦ ✦ ✦
――グランゼルド帝国 王宮
アリがグランゼルド王宮に到着すると、ルイが真っ先に出迎えた。
「アリ、よく来てくれたね。
父が君に会いたがっている。少し話をしてやってほしい」
ルイは自らの任務に加え、父・ロイの政務代行も担っている。
多忙を極めているのだろう。張り詰めたその表情には、わずかに疲労の色が滲んでいた。
アリは静かに頷き、短く答える。
「ええ、わかったわ」
そして、ロイの寝室へと向かう。
先にルイが扉を開け、続いてアリも中へ入った。
ロイは横になったまま、こちらに顔を向けていた。意識ははっきりしているようだが、起き上がる体力はないのだろう。
「……おお、アリア様。来てくださったか」
かすれた声で、ロイが言う。
アリは静かにベッドに近づき、枕元にしゃがんだ。
「ロイ様、ご容体を聞き、心配しておりました」
「心配をかけてすまないね……。ルイ、少し外してくれないか」
ロイの言葉に、ルイは「承知しました」とだけ答え、
アリと視線を交わしてから部屋を出ていった。
ふたりきりになると、ロイがゆっくりと口を開いた。
「私は……もう長くはない」
その様子を見れば、誰にでも察せられることだ。
けれど、アリは静かに首を振った。
「そんな……ロイ様、どうかご気丈に」
「いや……自分でもわかるのだ。だからこそ、願いがある。
どうか、聞いてくれないだろうか」
「……なんでもお申しつけください。ですから、“長くない”などとおっしゃらないでください」
「――ルイを、頼みたいのだ」
その言葉に、アリはすぐに察した。
ロイはグランゼルドの未来を案じているのだと。
そして、かつての約束を思い出す。
「ロイ様。私が帝位にあった頃、貴方が支援を申し出てくださったとき、こう約束しましたね?
いつか、私がグランゼルドのお力になると。
ですから、ご安心ください。私も、アストリアンも、貴国の力になります」
アリはすでに皇帝を退いている。国として支援を行うのは、今や弟カインの役目だ。
だが、自身もクラリエルの血を引く者として、できることはある。
ロイは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう……。だが、私は“国”ではなく、アリア様という“人”に、ルイを支えてほしいのだ」
アリは、その意図をはかりかねて言葉を失う。
臣下としてか、友としてか。それとも――妃としてか。
ロイの真意は、おそらく最後のものであることは察せられた。
だが、アリにはその立場に自分を置く心づもりなど、まだない。
そして、皇帝からの下命となれば、容易に断ることもできない。
ルイは……それを望んでいるのだろうか?
戸惑いの色を隠しきれないアリに、ロイは続けた。
「……アレは皇太子になってから、幾度となく縁談の話があった。
だが、そのすべてを断っている。今なお申し出は多いが、本人がすべて拒んでいてね」
そう語るロイは、どこか照れくさそうに笑った。
「今すぐに、という話ではない。
命じるようなことをしても、ルイはきっと喜ばぬだろう。
ただ……“いずれ”を考えておいてほしい。
今は、友人としてでも構わない。どうか、そばにいてやってほしいのだ」
ロイが“命令”ではなく、“願い”として話していることに、アリはようやく気づく。
そして少しだけ、肩の力が抜けた。
アリ自身にも、力になりたいという思いはある。
どんな形になるのか、今は想像もつかない。けれど――
国を背負った経験を持つ者として、同じ重責を背負う者に寄り添いたいと、そう思った。
「ロイ様のお気持ち、しかと受け止めました。
“いずれ”がどのような形になるのか、今の私にはまだ分かりませんが……
ルイ様のお力になることを、お約束いたします。
どうか、ご安心ください」
アリの言葉に、ロイは穏やかに頷いた。
その後ふたりは、幾つかの実務的な確認や今後の方針について、静かに言葉を交わした。
やがてアリは深く一礼してから寝室を後にした。
ロイは静かにまぶたを閉じ、しばしの沈黙ののち、侍従に声をかけた。
「……筆を取らせてくれ。アストリアン皇帝宛てに、文を送る」
こうして、一通の親書が、国境を越えてアストリアンへ届けられることとなる。
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――アストリアン大国 王宮 謁見の間
病を押して、ロイ皇帝は自ら筆を執った。
それはアストリアン新皇帝・カイン・クラリエルに宛てた、格式を保ちつつも、
一国の父親としての“願い”がにじむ親書だった。
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拝啓 アストリアン皇帝カイン・クラリエル陛下
グランゼルド帝国皇帝ロイ・ヴァルディアにございます。
かねてより、アリア殿下のご功績には深く敬意を表しておりました。
皇帝として祖国を立て直し、平和と繁栄を築かれたそのご手腕は、我が国においても広く称賛されております。
つきましては、僭越ながら一つお願いがございます。
アリア殿下を、我がグランゼルド帝国へ“親善大使”としてご派遣いただけないでしょうか。
両国の友好と協力をより一層深めるために、また、我が国の魔導騎士団の改革と育成において、殿下のご見識を賜れれば幸いです。
殿下の存在は、次代を担う者たちにとって、大きな指針となることでしょう。
ご熟慮のうえ、何卒ご高配賜りますよう、謹んでお願い申し上げます。
――――――――――――
この親書を受け取ったカインは、すぐに姉を呼び寄せた。
手紙を手にしたまま、どこか苦笑を浮かべて言う。
「……“外交辞令”の中に、ロイ陛下の“本音”がちらついていますね。
姉上を“親善大使”という名目で、“ルイ様のそば”に置きたい――そういうことでしょう」
アリは一瞬だけ言葉に詰まり、そして静かに答えた。
「……ええ。でも、私は構わない。ロイ様の願いなら、受けましょう」
カインはまっすぐにアリを見つめ、力強く頷く。
「わかりました。アストリアン皇帝として、姉上をグランゼルドへ送り出します。
肩書きは“親善大使”。でも、実際にどう動くかは……姉上の裁量に委ねます」
こうして、アリのグランゼルド行きが正式に決まった。
決意はすでに、次の世界を照らし始めていた。
新たな運命が、今、静かに幕を開ける。
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いつもお読みいただき、ありがとうございます。
いかがだったでしょうか?
この話でアストリアン編はいったん区切りとなります。
次話からいよいよ舞台はグランゼルドへ移ります✨
ここからが本番の物語です(笑)
ではまた、次の話でお会いしましょう。
See you.




