第12話 ひとすじの灯
――アストリアン大国 王宮裏
アリはルイを伴い、王宮裏の静かな庭へと足を踏み入れた。
そして、五大魔法のひとつ【空】の魔力を解放しながら、優しく指笛を吹く。
――数十秒後。
どこからか、風を切る音が聞こえてきた。
最初は微かな音だったそれは、やがて空気を震わせるような轟音へと変わり、確かな存在を告げる。
ルイは気配を察し、音のする方――真上を見上げた。
やがて、夜空の暗がりに、漆黒の影が浮かび上がる。
それは高空を優雅に舞いながら、ゆっくりと降下してくる。
王宮の灯りに照らされていくその輪郭は、やがてはっきりと姿を現した。
王宮の庭を覆い尽くすほどの、巨大な鳥獣。
(……大きい)
グランゼルドにも大型の飛行獣はいるが、これほどの規模のものは見たことがない。
形は鷲に似ているが、比べ物にならない大きさだ。
その鳥獣は、アリの前に静かに降り立つと、首を垂れて恭しく頭を差し出した。
「来たね、フィア!」
アリがその頭を撫で、優しく語りかける。
「この子はフィア。レヴィ山脈で雛のときに保護して育ててたんだけど――
気づいたら、こんなに大きくなっちゃってて!
雛のときはね、このくらいだったのよ」と、アリは両腕で輪を作って笑った。
無邪気に語るその姿に、ルイも思わず頬を緩める。
「すごいな。こんなに大きな鳥獣は、グランゼルドにもいない...」
「でしょう!」
アリはにっと笑うと、軽やかにフィアの背へと飛び乗った。
「ルイ殿下、行きましょう!」
背中をぽんぽんと叩き、乗るよう促す。
ルイもためらわずに後に続くと、フィアはゆっくりと巨大な翼を広げる。
そして、ひとたび羽ばたくと――風が巻き起こり、二人を乗せたまま空へ舞い上がった。
風に目を細めたルイが再び瞳を開けると、すでに眼下の王宮は豆粒のように小さくなっていた。
魔力で包まれたフィアの背には、しっかりと乗っていられる。
アリの魔力が鳥全体を保護しているため、落ちる心配はない。
これは獣使いが用いる魔法の一種で、ルイ自身も術式は扱える。
だが、これほどの巨体に使える魔力量には驚かざるを得なかった。
(……この人は、本当に)
アリの力、そしてその柔らかな笑みに――
ルイはあらためて、静かに感嘆の息を漏らしていた。
その様子に気づいたアリが、ふと問いかける。
「不思議に見えます? どこにそんな魔力があるのかって」
「ええ……正直、少しだけ。でも、クラリエル家は代々、高位の魔導士を多く輩出している名門。
アリア陛下も、きっとそのお血筋なのでしょうね」
ルイは素直な感想を口にした。
「血筋というなら……ヴァルディア家もそうですよね。
クラリエル家よりも歴史が長いはず。
まれに“蒼炎”を扱う術者が生まれるとも。
どんな焔なのか、気になっているんです」
「さすが、アリア陛下。よくご存じですね」
ルイの声には、どこか当事者めいた響きがあった。
そして、ふと微笑を浮かべて言った。
「――ご覧になりますか?」
一拍の間を置き、ルイは右手を静かに掲げた。
【火】の魔力を解放すると、手のひらの上に淡く揺らめく青い焔が生まれる。
それはまさに、“蒼炎”。
アリは思わず、目を見開いた。
(……ルイ殿下が……希代の術者!?)
青い焔は、ただ燃えているだけではなかった。
目に映るだけで、胸の奥までじんわりと温かくなるような――そんな、不思議な力を感じた。
「うわあ……これが、“蒼炎”……!」
アリは素のまま、心の底から感嘆の声を漏らした。
はっと我に返ったときには、ルイが微笑を浮かべて、彼女の様子を見守っていた。
「……美しい。まさか本当に拝めるなんて。」
“蒼炎”を扱える術者は、ここ何十年も現れていないはずだ。
それを操れるということは、ルイの魔力が並々ならぬものである証でもある。
同じ年に生まれ、国を背負う運命にあるふたり。
どちらも、歴史に名を刻むような希代の魔術師と呼ばれる存在。
――このめぐりあわせは、偶然なのか。
それとも、運命なのか。
アリは静かに、自らの心に問いかけていた。
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その後しばらく、アリとルイは二人きりの魔法討論会に花を咲かせていた。
「魔法は誰のためにあるべきか」「魔力の“源”とは何か?」「もし魔法が使えなくなったら、自分はどう生きるか?」
――希代の魔術師同士だからこそ交わせる深く豊かな対話は、尽きることなく続いていく。
アリにとって、ここまで魔法学について真剣に語り合える相手は、ルイが初めてだった。
ルイにとっても、それは同じだった。
気がつけば、いつの間にか呼び名は「ルイ」「アリ」に変わり、敬語も自然と消えていた。
途中で「アリでいいわ」「では、私もルイでどうぞ」といったやりとりをした記憶はあるが、それがいつだったかはもう思い出せない。
それほどに自然に、打ち解けていたのだろう。
ルイの楽しげな表情を見ていると、先ほど宴で垣間見えた翳りや複雑な感情も、今はどこか遠いものに思えた。
アリは、その様子に少しだけ安堵する。
やがて、討論にひと区切りがつき、二人の間に静かな余韻が満ちる。
その沈黙を破るように、ルイがぽつりと呟いた。
「兄はね……穏やかで思慮深く、誰に対しても礼を欠かさない人なんだ。
けれど、私に対しては、いつもどこか一線を引いているように感じていた。
喧嘩をするわけでもなく、仲が悪いというわけでもない。
ただ……きっと、出自のことで、引け目を感じていたんだと思う。
私が皇太子に指名されてからは、それがより顕著になった」
ルイは、宴で話しきれなかった胸の内を、ぽつりぽつりと語ってくれた。
皇太子となった今、彼に迷いはない。
この国を継ぎ、治めていく覚悟はできている。
――ただ、兄とのあいだにある複雑な感情が、いつか禍根となってしまわないか。
その不安を、誰かに――本当は、分かってほしかったのかもしれない。
帝位を巡る争いは、皇族にはつきものだ。
クラリエル家でも、祖父の代までは確執があったと聞く。
一度火がつけば、国を巻き込む大きな騒乱になりかねない。
ルイは、それを誰よりも恐れていた。
たしかに、皇太子としての立場は公には安定している。
けれど実際には、決して安泰とはいえない。
兄シリウスは側室の子であるが、長子であることに違いはなく、
水面下では彼を支持する者たちが、息を潜めて機をうかがっている――ルイは、それを知っていた。
そしてルイには後ろ盾がいない。
彼の母は出産後すぐに亡くなり、父ロイも病を患っている。
もしものことがあれば、ルイは本当に“ひとり”になる。
――そのとき、誰が彼を支えてくれるのか。
アリは、ふと過去の自分を重ねていた。
自分には、セラフィムがいて、ゼノがいた。
けれどルイには、同じように寄り添う存在がいるだろうか?
ルイは、幼い頃から己の立場に関係なく、
いずれは国の未来を背負う者として生きねばならないと、
自らを律しながら育ってきたのだろう。
気づけば周囲では派閥争いが始まり、
ひとたび弱さを見せれば、容赦なく足元をすくわれる――
そんな世界の中で、甘えることすら許されなかったに違いない。
“氷孤の貴公子”と呼ばれるのは、その証なのだろう。
誰にも頼らず、ただ孤独に冷静さを貫いてきた少年。
幼くして的確な判断を下し、軍を率いて戦場で采配を振るうほどの器を備えていた。
――ルイは、きっと良き指導者になる。
そしてグランゼルド帝国を、今よりも強く、豊かに導いていけるはず。
そう、アリは確かに感じた。
だから、彼女は言った。
「……あなたが背負うものの重さ、私には少しわかる気がする。
きっと、あなたは良い指導者になる。
でも、ひとりで抱え込まないで。
……必要なときは――私が力になる。
だから、安心して。」
そう言って、にこっと笑ってみせた。
その言葉に、ルイはふと瞬きを忘れた。
胸の奥に長く沈んでいた澱のようなものが、ふわりと浮かびあがり、音もなく溶けていく。
これまで誰にも踏み込まれなかった領域。
自分でも触れずにいた孤独と重圧の中心に、確かにその声は届いていた。
「……アリ……」
呼ぶ声はかすれていた。けれど、そこには確かな感情がこもっていた。
「どうして、君は……」
それ以上、言葉は続かなかった。
続ければ、崩れてしまいそうだった。
アリはただ、いつものように穏やかに微笑んでいた。
励ますでもなく、慰めるでもなく、ただ“理解”だけを静かにたずさえて。
ずっと強く在ろうと張り詰めていた心に、はじめて誰かが優しく触れてくれた――そんな気がした。
「……アリ
ありがとう。」
ルイは、ほんの少しだけ笑った。
それは、重ねてきた仮面の下に隠れていた、本当の彼の表情だった。
――そして、二人の間に、静かな夜風が通り抜けていった。
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