第10話 蒼き継承者
――グランゼルド帝国 王宮
王宮からの急報を受けたルイは、急ぎ王都へと戻った。
「父上の容体は……!」
城門をくぐるやいなや、皇帝陛下付きの側近たちに駆け寄って問う。
「ルイ様、ご安心ください。陛下はすでに意識を取り戻されております。
ただいま、侍医の診察を受けておられるところです」
「ご無事だったか……!」
ルイは胸を撫で下ろしつつも、直接その目で確かめるまでは安心できないと、急ぎ皇帝の寝室へ向かった。
寝室の前にたどり着いたとき、ちょうど皇族侍医・ルドガーが部屋から出てきた。
彼はルイに気づいて丁寧に一礼し、そっと耳打ちする。
「ルイ様、陛下のご容体について、少しお話を……」
廊下の脇に立ち止まり、ルドガーは声を落として説明を始めた。
「陛下の病は、残念ながら悪化の傾向にあります。
連日の政務によるご疲労が引き金となったのでしょう。
どうか、ルイ様からもご無理なさらぬようお伝えください」
ロイ・ヴァルディアは、一年ほど前に心臓に疾患を抱えた。
しばらくは安定していたが、完治は望めぬ病――再び倒れたのは、その悪化の兆と考えられた。
「……わかった。ありがとう」
ルドガーに礼を述べ、ルイは静かに寝室の扉を開いた。
中では、兄のシリウスがそばに控えていた。
「ルイ、父上は絶対安静だよ。手短に」
ロイは枕元で小さくうなずく。
覇気はないものの、その瞳にはまだ力が宿っていた。
その様子に、ルイもわずかに安堵の息を吐く。
ロイはルイの姿を見るなり、体を起こそうとした。
「父上! 無理はなさらないでください!」
「……ルイ。カルディナスは、どうなった……?」
皇帝である父が真っ先に気にしたのは、やはり国の情勢だった。
ルイもまた、その問いに答える覚悟を決める。
「カルディナスとの戦線は、一時的に休戦となりました。
彼らがアストリアン領へ越境したことで、アストリアンの皇帝陛下が現地に来られ、
仲裁をしていただく形となりました」
そう報告したルイの表情はわずかに曇っていた。
他国を巻き込み、さらに陛下自らの介入を招いてしまったことに、悔しさが滲む。
「そうか……
……アリア様にお会いしたのだな。アストリアンには、私からも謝罪と礼を伝えねばなるまい」
自らの不調が、ルイに軍を引かせる一因となってしまった――
ロイはその悔いを胸に、ふと目を伏せた。
「少し、疲れた。……二人とも、席を外してくれるか。ルイも、しばし休むといい」
まだ本調子とはいえぬ声音に、ルイとシリウスは静かにうなずき、その場を後にした。
扉が閉まったあと、ロイはしばし天井を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「――そろそろ、決めねばなるまいな……」
✦ ✦ ✦
廊下を並んで歩くルイとシリウス。
その足取りは穏やかに見えて、互いの胸中には複雑な想いがあった。
「ルイ、遠征ご苦労だったね。……本来なら、私が行くべきだったのに。すまない」
シリウスは柔らかく言った。だがその言葉の奥には、兄としての責任と、僅かな苦味が滲んでいた。
「いえ。兄上には兄上の役割があります。どうかお気になさらず」
ルイは即座に応じたが、その声音はどこか硬い。
実際、此度の遠征は重臣たちの間でも、第一皇子であるシリウスの出陣が妥当とされていた。
だがロイは、遠征軍の指揮をあえて次子であるルイに託し、自身の不調に備えてシリウスを王宮に留めた。
その真意を、完全に理解していた者は少なくない。
ルイとシリウス、そして彼らを取り巻く宮廷。
数年前から、派閥は水面下でせめぎ合っていた。
だがこの一件を機に、両派の緊張はより鮮明となる。
それでも、年長であるシリウスは冷静だった。
「皇帝陛下のご意向に従いましょう。我らは、それぞれの役割を全うすべきです」
重臣たちを諭し、ルイにこう言葉を贈った。
「陛下の補佐は私が果たす。……ルイ、君も陛下のご期待に応え、己の務めを全うしてくれ。無事の帰還を、心から願っている」
きっと、心穏やかではなかったはずだ。
それでも矛を他に向けることなく、場を収めた兄に、ルイは深く頭を下げた。
✦ ✦ ✦
――数日後
ロイは皇太子冊立の詔を下した。
詔
グランゼルド帝国の正統なる後継として、
我が嫡子ルイ・ヴァルディアを皇太子に任ずる。
グランゼルド皇帝 ロイ・ヴァルディア
✦ ✦ ✦
――アストリアン王宮
アリのもとへ、グランゼルド皇帝ロイから親書が届いた。
そこには、アストリアン国境を侵したことへの謝罪と、
対カルディナスとの紛争の収拾に際し、助力を賜った礼が、丁寧な筆致で綴られていた。
「ロイ様がご無事だったようで、よかったわ……」
アリはほっと安堵の息を漏らした。
「しかしまあ、戦争の後始末を他国の皇帝がやるって、なかなか聞かねぇ話だよな」
と、不謹慎なことを言い出したのは、いつものゼノだ。
「こら、ゼノ」
とたしなめつつも、アリもまた心のどこかで「……確かに」と思っていた。
そして、ロイからの親書とは別に――
ルイ・ヴァルディアの名で届けられた、一通の謝状があった。
――
このたびの件につき、アストリアン皇帝陛下へ直接謝罪を申し上げたく存じます。
不肖ながら、私がアストリアンへ伺うことをお許しいただけますよう、お願い申し上げます。
――
「……ルイ皇子が来るのね。あ、いまはもう皇太子か!」
そう、数日前にグランゼルドより、第二皇子ルイの皇太子冊立が正式に通達されていたのだ。
『第二皇子が皇太子か……これは、ひと波乱ありそうね』
――すでに式は執り行われたとの報せも届いている。
アリは、グランゼルドの方角を見つめながら、そう遠くない未来に思いを巡らせた。
✦ ✦ ✦
――それより少し前、グランゼルド王宮・大広間
皇太子冊立の式典が、静かに、しかし威厳をもって執り行われていた。
荘厳な式典の鐘が大広間に鳴り響く。
王族の血を継ぐ者が、帝国の未来を担う“皇太子”として立つ、その時が訪れた。
ルイ・ヴァルディアは蒼銀の礼服に身を包み、静かな決意を胸に歩を進める。
白金の縁どりが施された裾が大理石の床をかすかに擦り、揺れるたびに陽光を反射した。
まだ若さの残るその瞳には、確かな覚悟が宿っている。
――いつもの彼であれば、誰にでも穏やかな微笑を向けていただろう。
だが今、その瞳に柔らかさはない。
青碧の双眸に宿るのは、責任と使命を果たす覚悟の光だった。
その場にいた誰もが、彼が“皇子”から“皇太子”へと変わった瞬間を確かに感じていた。
玉座に立つロイの前で、ルイはひざまずき、ゆっくりと頭を垂れる。
やがてロイが静かに問うた。
「ルイ・ヴァルディアよ――
汝は、帝国の正統なる継承者として、命を賭して国と民を守り抜く覚悟を持つか?」
儀式用の短剣を両手で捧げ持ち、ルイは声を張ることなく、しかし一語一語を確かに刻むように答える。
「この命、陛下と帝国に捧げ、民の平安と国の繁栄のため、全身全霊をもって尽くすことを誓います」
その言葉とともに、彼の姿勢からは一切の迷いが消え、背筋はこれまでになく真っすぐに伸びていた。
列席する臣下たちは、静かに息を呑む。
若き日の無邪気な笑みを知る者たちの胸には、寂しさと誇りが同時に去来した。
そして――
ロイは、自らの手で皇太子を示す銀の冠を静かに載せる。
「ルイ・ヴァルディア。我が正統なる後継として、汝を皇太子に任ず」
その瞬間、宮廷を包んだのは、祝意と畏敬の念が混じり合うような、重くも温かな空気だった。
やがて、式典の終幕を告げる鐘が静かに響き渡る。
ルイは深く一礼し、堂々とその場に立つ。
その瞳には、“すでに始まっている”という確かな意志の光が宿っていた。
大広間に漂う空気が、静かに祝意を帯びていく中――
重臣たちの列に並んでいたシリウスは、弟を讃えるような穏やかな表情を浮かべていた。
だがその背後で、彼の拳は静かに握られていた。
心中に渦巻くものは、果たして祝福だけだったのか。
そして――
兄弟の運命は、やがて激しく交わることとなる。
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