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取り調べ室

 気づいたときには、僕は取り調べを受けていた。すぐに手を上げそうなごつい男が僕の目の前に座っていて、その隣には比較的気の弱そうな男が座っていた。二人とも黒いスーツに白いワイシャツ、ストライプのネクタイという格好をしていた。どうやら警官のように見えた。僕は薄暗い取り調べ室のようなところにいるらしかった。明かりは白熱電球一つでまかなわれていた。一体どうして僕はこんなところにいるのだろう?僕が何をしたというのだろうか?

「お前の記憶伝達コードを教えてくれ」とごつい男が突然言った。僕にはそれが何のことだかまるで分からなかった。記憶伝達コード?

「何のことです?そのコードというのは?」僕はありのまま思うことを口に出した。

「記憶がその形を形成し始めたときに生成される、32桁の数字のことだよ。みんなそのコードをそれぞれ固有に持っている。全ての記憶はそのコードを法として伝達され、保存されてゆくんだ。もしかして、忘れてしまったのかね?」今度は気弱そうな男の方が言った。その説明を聞いても、コードについてはさっぱり分からなかった。

「そんなコードが存在したことすら覚えていません。忘れてしまったというより、もともと知らされていなかったのだと思います。きっと」

「…これは少しまずいな。時間があまりないというのに」ごつい方の男が少しいらいらしながら言った。怒らせてしまったか、と心配になったが仕方ないのだ。そんな訳の分からない数字の羅列なんて僕は本当に知らないのだ。

「では、こうしよう」気弱そうな男が言った。

「今から君は思い出し部屋へ行く。そしてそこで君のコードに関する情報を手に入れるんだ。そこに必ずコードの情報がある。君はそれを何とかして探し出す。それでいいね?」

「…思い出し部屋?」僕は訊いた。随分と都合のいい部屋だなと思った。

「そうだ。リマインドルームとも呼ばれ、あらゆる記憶の断片はそこに集積される。どんなに些細なものごとも、どれだけ無意味なものごとでもだ。そこへ行けば、記憶伝達コードの記憶の断片を見つけることができるはずだ」ごつい男が言った。

「そこへは一体どうやったら行けるのです?」僕は恐る恐る言った。

「それも忘れてしまったのかい?やれやれ、しようがないね」気弱そうな男が言う。

「…何もしなくていい。そこへ行くにはただ目をつむって、リラックスするだけでいいよ」

僕は唐突に小さいころ歯医者へ掛かったときのことを思い出していた。その声が歯医者の先生にとてもよく似ている気がしたからだ。いや、そんなこと今はどうでもいい。とにかく僕は言われるとおりに目をつむった。

 こんな状況だというのに、目をつむると不思議とすぐにリラックスできた。温かい井戸の水の中でぷかぷかと浮いている心地さえした。段々と自分の体が自分のものではないような感じがして、そのあと体と意識は完全に分離した。

「33分後にここへ戻ってこい」と最後にごつい男が言った。


 「何かお探しですか?」聞き慣れない女性の声が耳元で聞こえた。

それがあまりにも突然のことだったので、僕はびっくりして跳び上がった。

「…大丈夫ですか?」声の主は比較的背の小さな女性だった。年齢は二十代半ばだろうか。化粧らしきものはしておらず、どちらかといえば美人といえるような容姿をしていた。少なくとも醜くはない。女性は僕の方をじっと見て返答を待っていたので、僕は慌てて答えた。

「こ…ここに記憶伝達コード…のみたいな番号ってありますか?…ああ、確か32桁の数字だったと思うんですが」

「ありますよ。ここにはあなたのどんな記憶だってあるんですよ。例えば小学四年生のときの二学期始まりの席順だって、センター試験の英語の第一問目を何番にマークしたか、ということも本当に何でも分かります。…まあ、それを探すのにはすごく苦労するんですけど。とにかくここで見つからない記憶はありませんよ」女性は少し自慢げに言った後、少し頬を赤らめていた。

「じゃあ僕は一体どこを探せばいいんだろう?おおよその位置くらいは分かるものなのかな?」

「少しだけ待っていて下さい。おおよその位置に見当をつけてみるので」

僕は頷いた。彼女が作業をしている間僕はぼうっとして時間をつぶした。僕は何も考えずに時間をつぶすのが好きだった。そうして二分ほど待った後、彼女は僕を巨大な迷路のような無数の引き出しがある小路へと案内した。どうやらこの〈思い出し部屋〉というのは、別名〈引き出し部屋〉と呼んでも差し支えないほどに、たくさんの引き出しがあるようだった。そしてそれらはひどく入り組んだような構造をしていた。引き出しの配列には規則というものはほとんどなく、ただ無秩序に無造作に配置されているだけだった。女性はまるでその道を全て理解し尽くしているかのようにすいすいと進んでいった。そう、ちょうど帰宅路を進むように。

それから再び二分ほどたったとき、一つの大きな引き出しの前に僕らは辿り着いた。

「ここです。この中にあるはずです」と彼女は言った。「引き出しを開けてみて」

僕は言われた通りその縦1.5m横3.5mほどの大きな引き出しを手前に思い切り引っ張って開けようとしてみた。結果として引き出しは開いた。ただ、それは僕の予想とは少しばかり異なった結果となった。

「驚いたな」僕はそれを開いた反動で後方に転げていた。

「ごめんなさい。言い忘れていました。これ引き出しとは言っても蝶番が付いているんです」

彼女は申し訳なさそうに言った。

 僕はよっこらしょ、と腰を上げ、その引き出しと呼んでいいのか分からない引き出しの中を覗いてみた。中にはいくつものカプセルらしきものが入っていた。ガシャポンのカプセル容器に形状はよく似ていたが、開封できるようには見えなかった。一方、色は半透明で中身が見えるようになっており、中には数字が走り書きされた紙切れが一枚ずつ入っていた。

「これはひどいな。この中から探さなくちゃいけないのか」僕は落胆の声を上げた。その中から一つの数字の羅列、何だっけ。ああ、そうだ〈記憶伝達コード〉だった。それを見つけ出すのは非常に困難に思えたからだ。

「大丈夫ですよ。ここはあなたの記憶を管理している部屋なんですもの。きっと大した時間もかからず見つかると思いますよ。頑張ってください」彼女は明るい声で言った。

「一つだけ訊いてもいいかな?」僕は言った。

「なんでしょう?」

「みんな脳みその中はこんな風になっているのかな?たくさんの引き出しがあって、その中にさらにたくさんのカプセルがあって…。そんな感じなのかな?それともこんな風になっているのは僕の脳みそだけ?」

彼女は少しだけ考えて、そして微笑んで答えてくれた。

「私には他人の脳みその中がどうなっているかだなんて、皆目見当もつきませんけれど、そんなことはどうでもいいと思いますよ。だって、よく分からない前頭葉だとか海馬やらシナプスがたくさんあるよりも、こっちの方が簡単でずっと楽しいですもの」

「…そうだね。君の言うとおりだ」僕は同意した。楽しくないよりは楽しい方が圧倒的にいい。

 僕はさっそく大きな引き出しの中をかき回し、目的の記憶のかけらを探し始めた。がちゃがちゃ、とカプセルとカプセルが擦れ合う音がして、下方にあるカプセルが上方へと浮かび上がり、上方にあるカプセルにはそれとは逆のことが起こった。それはある種の海流のように見えた。僕はその海流の中をうごめくカプセルの中身を素早く判別していった。それを続けていくうちに、人間の持つ記憶はほとんど無意味なもので構成されていることに僕は気づいた。そして無意味な記憶たちは互いにくっつき、重なり合い、絡まって僕の脳裏に深くこびりついていた。ああそうか、無意味な記憶は消えているのではなくて、こうしてこびりついて取り出せなくなっているのだな、と僕は理解した。そこには小学生のとき好きだった女の子の出席番号、いつのものか分からない身体測定の記録、高校最初の数学のテストの点数などがあった。

 カプセルの渦の中をサルベージし始めてからもう10分ほどは経過しているように感じたが、一向に32桁の数字はその姿を見せることはなかった。そこで僕は一度カプセルを引き出しの外へ出してしまうことを思いついた。そうすれば、一度確認したカプセルとそうでないものを分けることができるからだ。しかし、傍でこちらを見ていた彼女はそれを止めた。

「あ、取り出してはダメなんです。それぞれのカプセルは然る引き出しの中に保管されることになっているので、それを勝手に取り出すと頭の中がグチャグチャニなってしまいます」

僕は少しむっとしたが、やはり取り出すのはやめておいた。こんな異常な状況下で頭の中までもがグチャグチャになってしまったら、もう収拾がつかなくなるからだ。

 僕がその32桁の数字を見つけたのは、それからさらに40分以上経過した後だった。その記憶のかけららしき紙切れには、

69937153163892395379940107671033

という数字の羅列が記録されていた。

「やっと見つかったんですね。よかった。随分と時間がかかってしまっていたようですけれど…大丈夫でしたか?」

僕は軽く頷いた。本当はあまり強がれる状況ではなかったが。だって33分後の約束があるというのに、もう一時間近くかかってしまっているのだ。あのごつい男がきれてしまわなければいいのだが、と僕は思った。

「ねえ、なるべく早く戻りたいんだけれど。元来たところへ。どうすればいいかな?」僕は少し焦りを見せながら言った。

「簡単ですよ。ここへ来たときと同じことをすれば戻れますから。さあ、目をつむって」

彼女は優しく言った。僕はまた頷いて言われた通りに目をつむった。だが、今回はこちらへ来たときのようにうまくリラックスすることができなかった。不安のような、いら立ちのような、何とも言えない居心地の悪さが僕を取り巻いていたのだ。それを感じたのか彼女は僕の左手を優しく握ってくれた。すると今度は途端に力が抜けてとても安らかな気持ちになった。彼女の手にはそんな力があるらしかった。

「思い出してみて。私が誰なのか、わたしがあなたにとって誰だったのか」

彼女は確かにそう言った。僕も何か言おうとしたときに意識が吸い込まれるように消えていった。


 「遅かったな。もう26分も遅れている。さっき時間があまりないと言ったはずだが」ごつい男は極めて不機嫌なようだった。腕時計を何度も見ていた。僕は気づくとまた先ほどの取り調べ室の椅子に座っていた。どうやら戻って来られたらしい。

「すみません。これを見つけるのに結構時間がかかってしまって」僕はそう言って右手に握っていた紙切れをごつい男へと手渡した。手は恐怖で少し震えていた。しばらく彼はそれを眺めていた。あらゆる方向からそれを禰目回して、それからうん、と頷いた。気弱そうな男も相変わらず隣に座っていたが、微笑みながら黙っているだけだった。

「この機械に32桁のコードを正確に打ち込んでくれ。いいか、正確にだ。この操作はお前の指で行わなければならない。そしてこの機械にはなぜかBackキーなるものが付いていない。分かるな?一文字でも間違えるなよ。すべてが無駄になってしまうからな」

ごつい男の声からは少し怯えのようなものを感じ取ることができた。すべてが無駄になる、と僕は心の中で反芻した。確かに怖い。

 ごつい男から受け取ったのは電卓のような0から9までの数字が刻まれた電子盤だった。しかしそれは電卓と言ってもただ僕がそう感じただけで、実際には電卓とは似て非なるものであることは疑いようがなかった。まず加減乗除の四則演算機能はついておらず、またごつい男が言っていたように、BackキーだとかClearキーなどの間違いを是正する機能も付いているようには見えなかった。ひどいものだ。たった一つのミスが致命傷になる。やり直しなどできない。ある種これは人生のようなものだな、と僕は思った。

僕はそれから慎重に一つ一つ数字を入力していった。集中力を極限まで引き上げ、同じ数字を何度も何度も何度も飽きるほど確認した。そのせいか、32桁の数字を全て打ち込んだ後には全身に疲れがどっと押し寄せた。

「ご苦労だったね。コーヒーでも飲むかい?」気弱そうな男が僕に言った。

僕が頷くと彼は両手に持っていたコーヒーのうち片方をくれた。一方ごつい男はそのコードが入力された電子盤を奥の部屋に_____仮に部屋と呼べるようなものが存在すればの話だが_____運んで行ってしまった。彼がくれたそのコーヒーはすごくぬるかったし、何かじゃりじゃりとした異物が混入しており、おまけになぜか辛かった。それはコーヒーとはあまりにかけ離れた代物であった。はっきりと言うのであれば、それはコーヒーという肩書を持ち合わせた、ただの泥水のようだった。気弱そうな男はそれを普通に飲んでいたが、僕は二口だけ飲んですっかりその気が失せてしまった。よくこんなものが飲めるな、と僕は半ば関心、半ば呆れながら彼の姿を見ていた。

「そのコーヒーはきっと君がこれまで飲んできたコーヒーとは全く別物だったろう?ぬるいし、砂みたいなものが入っているし、味も苦いのではなく辛い。おそらく君はそれを好んではいないだろうね?」

僕はすぐに頷いた。こんなものを好むはずがない。彼は続ける。

「もしかして、君はそれと同じものを私も飲んでいると思っているのだろうね?この空間のコーヒーはみんなそうだと、そう思っているのだろう?」

「どういうことです?」僕は身を乗り出して言った。彼は少しニヤリとしながら答えた。

「このコーヒーを飲んでみるかい?極めて、ごく普通の、コーヒーだよ。これは」

よく見てみると彼の呑んでいたコーヒーからは白い湯気が立ち上っていた。さらにコーヒー独特の香りまでする。そのとき僕はやっと彼が仕掛けたトラップのタネが分かった。

奴は初めから普通のコーヒーを飲んでいたのだ。

僕には泥水をよこして、自分だけ美味しいコーヒーを飲んで、僕が困惑するのを楽しんでいたのだ。

「人は特殊な状況下に身を置いていると、そのうちその特殊性と異常性とを区別できなくなってしまうものなのだよ。要するに、異常な事態も特殊な状況下においては平常なのだと錯覚してしまう、ということだ。君はその液体がここでは普通の、ごくありふれたコーヒーなのだろうと、推察したのだろう?だがそれは間違っている。ここでもコーヒーはあくまでも〈普通の〉コーヒーだ。砂などは入っていないし、辛くもない」

僕はあっけにとられた後、少しいらいらしていた。わざわざこのような余興まがいのことをする必要性に疑問を感じたからだ。僕に泥水のような液体をコーヒーだと思わせて飲ませる必要がどこにあったのだろうか?

「だから君もよく気を付けた方がいい。今度は泥水を飲まされるだけじゃすまないかもしれないからね」気弱そうな男は言った。彼はずいぶんと楽しんでいるように見えた。

「今度、というからにはまだ何かあるんですか?ほかに僕を害するような何かが」

「どうだろうね。それは私のような下っ端には分かるはずもないことだよ。でも、多分あるんじゃないかな。というよりそう思っておいた方がいい。ここではいくら用心しても用心しすぎるということはないからね。起こってからではもう取り返しのつかないことなんてここにはいくらでもあるから」

「Backキーのない電卓のように」

「その通り」

気弱そうな彼がそう言った後、すぐにごつい男が僕を呼んだ。

僕は奥へと重い足を踏み出した。

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