第33話 アンビバレンスな反撃
「あ……あぁ……」
こんな化け物、今まで対峙したことがない。
そう思ったリースはいつの間にかへたり込み、スティグリーの仲間たちはいつの間にか逃げていなくなっていた。辛うじて棒立ちするスティグリーと、その前で未だ謎な黒マントが立っているおかげでまだ試合が続投しているのだとわかる。
敵対しているソフィーは「チッ」っと苦々しく舌打ちして、自身の魔法の効力が切れてしまう瞬間を迎えた。レチア組員を守る結界がバラバラとガラスが砕け散るように消える。
そして。
そしてまだ、誰もルカがいることに気づいていなかった。
「っふん、こんなとこに悪霊の頭か。場違い甚だしい」
ソフィーたちの危険に慌てて駆けつけたルカだったが、実際試合フィールド上に立った直後の感想はこんなものだった。一度は飛んできた化け物であったが、頭上を旋回するだけで襲っては来なかった。つまり喚起した召喚師がこの化け物を上手く操れていないのだ。バカバカしい。喚ぶだけ喚んどいて、喚んだ奴は一体何を考えているんだ。あの格好ですら胡散臭すぎる。そう思いながら黒マントに向けた視線で、向こうはようやくルカが試合フィールド上に現れたと気づく。突然のメンバー追加に驚いたのだろうか。ビクリと体勢が大きく揺れたように見えた。
ルカはそんな相手にも、そしてその相手の前で大きく羽を震わせ、まるで怯える人間で遊ぶかのようにその場をウロウロ長い六本の足で動くだけのベルゼブブにも実はもうあまり興味はない。
「なるほど、あれだけの召喚図形描写と……あと足りない分は言葉でも捧げたか」
もうあの化け物への対処は見当が付いている。それよりもあれを呼んだ方法に興味が惹かれてきた。
「そんな方法使っても私ぐらいだと思ってたのにな」
「面白い」と呟き切る前に、呼吸と同じぐらい自然に、さぁ、貴女さまを喚びましょう――――
ブチリッ
髪の毛を数本、指で絡めとって無理やり引き抜く。
さぁ、出でよ。我、願った。
さぁ、出でよ。我、命ずる。
愛と戦いの女神、アナトよ。我に従うべし。
さすれば、汝の願いを叶えようぞ。
ルカが髪をばら撒いた辺りは激しく、そして暖かな空気に包まれる。愛しい夫を想うような妻のように、それでいて嫉妬に狂う女のように。
現れた女神は、その両方を兼ね備えた彼の配偶神であった。
【アナト】
ウガリト神話で登場。とても美しい一方で、気性の荒い女神。雷雨の神バアルの妹にして妻。
「ベルゼブブは邪神だがそれは旧約聖書での話だ。ベルゼブブの由来はバアル・ゼブブ。豊穣神バアルの尊称さ。……はてさて、美しく怖いアナトがそんな醜い夫を見て許せるだろうか?」
してやったりな女神召喚にルカが満足している一方で、他の同フィールド上の人々はルカ出現に気づくとか以前に、本能が告げる危険さに慌てふためいていた。
「じょ、うだんじゃないわよっ」
一番最初に対応できた、いや、最終的にも対応できたのはソフィーのみであった。彼女はもう出せないと感じている魔力を奮い立たせ、最終手段用に肌身離さず持ち歩いている魔具の1つを放り投げる。それを振り絞った魔力で射、呆然と動けずにいるリースとこんな時もぼーと無表情なヨーク、そして自身を結界で守る。この対応はとても正しかった。
「アナトに命ず。
敵は我が仲間達に襲いかかるベルゼブブ。
汝の力を持って、敵を射殺せ」
ルカが命じると、アナトの周りの空気が渦巻き、何本もの矢が現れる。狩猟の女神でもあるアナトだからこその武器で、そして夫ゼアルをここまで邪神扱いされた目の前のベルゼブブに対する彼女の怒りが矢の多さから伺える。短気な彼女はもう我慢できない。怒りでいっぱいであった。
スッとルカが矢を射る合図を出してやる。
それで決着はついた。いや、決着どころでない。もうこの大会は終わりであった。
「あーあ、俺の婚約者は調子乗るとやり過ぎちゃうようだね全く。会場めちゃくちゃじゃないか」
「ルカ様ぁぁぁぁ、もうお止め下さいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
観客がすっかり避難してしまった客席でルカの勇姿を見届けていた1人と1匹は、粉々に砕け散って崩壊し始めた建物に巻き込まれないよう逃げながら、未だ女神召喚に満足気なルカの元へと向かう。
ニコがどうにかルカの元に辿り着き、攻撃を止めさせるよう頼み込んでアナトに帰ってもらうまで、彼女の射る矢の雨は降り注いだままであった。
その結果、辺りは跡形もない更地になり、その中心で結界に守られながらソフィーがすごい形相でルカを見ていたのは言うまでもない。